2012年 6月

コミュニケーション

2012/06/10

子どもの興味関心はそれぞれの子どもによって異なり、それぞれの興味関心に応じて子どもが熱中して取り組むということは、様々な物事のなかから、自分の好きなもの(それはその子の発達にとって必要なものなのですが)を自ら選び取って行うからこそできるのです。その中から、喜びを持って問題を自ら解決しようと挑戦する意欲が生まれてきます。ですから、保育者もいつも同じことを一斉にさせようとするのではなくて、一人ひとりの意欲に注目してゆく方が良いということを何回かにわたって書いてきました。

言い換えれば、一人ひとりの個性が輝くことが大切だということです。そう言うと、そんなことをしていると子どもがわがままになって、周りのことも考えずに自分の好きなことばかりやるようになってしまうのではないか、それぞれが勝手なことをしてバラバラになり集団ができなくなってしまうのではないかという声が聞こえてきそうです。

果たしてそうでしょうか。誰かが自分のやりたいことが自由にできるということはそのまま、他の誰かもその人のやりたいことを自由にできるということです。ですから、他の人の自由も保証するためには、自分の自由を制限する必要もあります。そこで、相手にお願いしたり、譲り合ったりすることが必要になってきます。その前提として話し合うこと、想いを伝えること、相手を受け止めることがなくてはなりません。つまり、コミュニケーションを深めることが必要です。
大人でもかなり意識し、努力してこれをやるようにしないと、コミュニケーション不足になって思わぬ誤解や、思いのすれ違いが生まれ、トラブルの原因となったりします。ですから、子どもの時に心を開いて話し合うこと、素直な心で自分の想いを伝えること、相手を受けとめることが楽しいと感じられる経験をする方が良いと思います。

大人が、子どもをダメダメと叱ってばかりいると、子どもも他の子どもに対して同じように禁止したり否定したりすることが多くなります。最初から強い口調で否定されたら、心を開いて話し合うことなんかできなくなってしまいます。子どものお手本としても、自分勝手な主張ばかりするのではなく、大人が自ら意識して、心を開き、相手を認め、素直な心で想いを伝え、コミュニケーションを深める必要があります。

それなら、子どもがそれぞれに好きなことをしていてはもっとコミュニケーションがとれなくなるという考えもあるでしょう。しかし、ある子どもが、興味関心のあることを見つけて、熱中して取り組んでいる姿は他の子どもを惹きつけます。一緒にやらせてと遊びに加わったり、どうすればできるのとたずねてみたりしながら、コミュニケーションを深めてゆきます。そうやって、友達と意見を交わしながら、力を合わせてなにかの課題に取り組むということを自然に行ってゆくのです。

先日も園庭の築山から水を流したり、ダムを造って水をせき止めたりしていましたが、何人かの子どもがああでもないこうでもないといいながら、工夫してダムを造ったり、水路を作ったりしていました。こういうところでこそコミュニケーション能力と、問題解決能力が高まるのだと思います。
つまり、子ども一人ひとりが興味・関心・熱中を中心としたその子らしい参加をすることが学びの場となりますし、チャレンジするところからコミュニケーションが生まれて豊かになり、子どもが集団の一員として育ってゆくのです。

それぞれ

2012/06/09

困った子とか気になる子ということがよく言われます。子どもを見ていると、できないところや問題点、不足しているところに目が向きがちです。そして、その不足しているところを埋めよう、引っ張り上げようとしがちです。あまり引っ張りすぎると「助長」になり、子どもは枯れてしまいます。

これは、大人の問題です。子どもを、例えばクラスという一つの枠だけでくくって、その中で全員が同じようにしないといけないという思い込みが強いと、そこから外れる子は、困った子、問題がある子と考えがちです。もちろんみんなと一緒に取り組むことが大切なのはいうまでもありません。しかし、大人に「やりなさい」と言われていやいややってもそれはみんなでやっていることにはなりません。心は離れています。

例えば、みんながダンスをしているとき、いくら誘っても一緒にしない子がいます。見た目は一緒にやっていませんが、後で同じ音楽を聞くと、みんなと一緒にやってなかったはずなのにちゃんと踊ることができたりします。みんながやっていたときは、なにかその子なりの想いがあってみんなと一緒に動くことはしなかったけれども、ちゃんとみんなの動きを見るという形で参加していたのです。目に見える形、大人の思うような形では参加していなくても、心では参加していたのです。その子なりの参加があるのだと思います。

どうしても、みんなが同じようにしなくてはならないという固定概念で、子どもをとらえがちです。もしかしたら、今の大人がそういう価値観の中で育ってきたのかもしれません。誰かに言われたことを忠実に行う、均質な労働力としての人材を育成するための教育こそが大切。そういった価値観から見れば、みんなと同じことを同じように行うことが必要で、同じように行わない人は問題です。そうしようと思うと、どうしてもできないところ、不得意なところに注目して、そこを強化しよう訓練しようという方向で考えてしまいます。できないところに注目してしまうのです。子ども本人がなにかに挑戦するという意欲を持って前向きに練習するのなら良いのですが、大人がそうさせようと思うといろいろな無理が生じてしまいそうです。

全員が一斉に同じことをやらなければならない条件の元では、一人ひとり異なる個性がそれぞれに輝くことは難しいと思います。

興味・関心・熱中・楽しい

2012/06/08

今朝はとても良く晴れて気持ちの良い朝でした。午前中は用事があって京都に行っていました。そう書くと変ですよね。もちろん鞍馬も京都市内です。子どもの頃、近所のおばあちゃんたちが、京都の町中に行くことを「京へ行く」とおっしゃっていたのを思い出したのでそう書いてみました。今、考えてみると「町中へ行く」という意識と、「鞍馬はあくまでも鞍馬!」という意識があったのかなと想像してしまいます。

市内は気温が30度を超える暑さでしたが、鞍馬に帰ってきたら25度でした。午後からは天気予報通りの雨になりました。久しぶりの雨で、自然の生き物は喜んでいるでしょう。特にモリアオガエルは産卵を始めるかもしれません。

お天気が良く、気温も比較的高かったここ数日は、子どもたちは園庭での遊びを思い思いに楽しんでいる姿が多く見られました。今、子どもたちがよくやっているのは、泥だんご作りと、水遊びです。ぴかぴか光る泥だんごを一生懸命作っている姿や、築山から水を流したり、せき止めてためてみたり、水の流れ道を作ったりと熱中してあそんでいます。こんな子どもが熱中している姿の中にこそ、子どもの大きな育ちや学びがあるのです。

大人が作った保育計画通りに子どもを動かすことが、子どもが育つことではないと思います。まず、子どもが興味関心を持っているか、熱中してして取り組んでいるか、そういう姿を見る必要があります。興味関心を持ち、熱中して取り組んでいることの中にこそ子どもの学びと育ちがあるからです。

子どもは一人ひとり異なる存在です。大人も人によって興味関心が異なるように、子どもだって異なります。ですから、大人が複数の子どもたちに一斉に同じことをやらせようとすると、興味関心のない子が出てきます。かといって一人ずつの興味関心の全てに対応できる環境や機会を用意するのは難しいと思います。ですから子どもが自分で何をして遊ぶのかを選び取ることができる選択肢を用意しておくと良いのです。そうすれば、興味関心を持つ機会が増えます。それだけ、一人ひとりの子どもが育つ機会、学ぶ機会が増えるということです。

子どもが遊び始めるのに、大人が誘いかけたり、一緒になって遊んだりするきっかけが必要なことはありますが、子どもが熱中しだしたら、大人は少しずつ離れていった方が良いと思います。

子どもが目をキラキラ輝かせて全身全霊をかけて取り組んでいる姿は、見ていても嬉しくなります。何かをさせようとしても、できない、しないからといって躍起になってやらせようと叱りつけているのは子どもも楽しくありませんし、大人も楽しくありません。誰も楽しくないしハッピーでもないことを一生懸命する必要はありませんものね。

結果志向・学び志向

2012/06/07

毎日、とても良い天気が続いています。昨日の京都の最高気温は28,8度、今日の予想最高気温は30度なので、市街地でははかなり暑くなってきているのでしょう。鞍馬では、動けば汗ばむものの戸外で気持ちよく過ごせる日が多く、子どもたちは園庭でそれぞれ様々な遊びに熱中しています。そろそろ雨が多くなり、梅雨入りのころですが、そんな気配もありません。雨が多くなる前に思いっきり外で遊べると良いですね。

子どものすることの結果に注目するのか、プロセスに注目するのかという話題を続けてきました。「ほめる」ことについても書きましたが、少しわかりにくかったかもしれませんので、整理しようと思います。

「ほめる」こと自体が全て好ましくないというのではありません。大切なのはどこをほめるか、どこに注目するかということです。

できる、できないといった結果ばかりに注目していると、子どもも結果ばかりを気にして、できないことはやらなかったり、失敗しそうなことにははじめから取り組まない、難しそうなことはすぐにあきらめてしまうという傾向が強くなります。こういう子どもたちを「結果志向」というそうです。逆に、取り組もうとしている姿勢や、あきらめずに挑戦する姿勢に注目すると、たとえできなくても失敗しても興味や関心を持って取り組み、結果ばかりを気にせず、取り組んでいること自体がおもしろい、楽しいと感じるようになるそうです。こういう子どもたちを「学び志向」というそうです。
いろいろなことで伸びるのは、学び志向の子どもたちだと思います。ですから、大人が子どものどこに注目するかで、子どもの育ちは大きく左右されてしまうのです。

それは保育の中でも同じです。大人が望む通りの結果を求めよう、大人が思うように子どもを動かそうと、結果ばかりに注目したり、結果ばかりをほめたりすると、ここでも子どもたちが結果志向になってしまいます。また、大人が子どもを操ろうという下心を持って発することばを子どもはすぐに感じ取ってしまいます。子どもを一人の人格として認め、素直な心で共感して発することばこそが子どもの心に届くのだと思います。大人が子どもを操ろうとして注目したり褒めたりすることは避けた方が良いと思います。もちろん、子どもを叱りつけて大人の思うように動かそうとするのは論外です。

ほめる

2012/06/06

金星が太陽の前を横切る「金星の太陽面通過」がありました。鞍馬はとても良く晴れていたので、観測めがねを使って見ることができました。まるで太陽の顔にできたほくろがゆっくりと時間をかけて移動しているかのようでした。お寺の本殿前で観察していらっしゃる参拝者の姿もありました。最近は様々な天体ショーが繰り広げられ、人々の関心が宇宙や天体に向いているようです。特に、太陽に関する話題が多いよなので、太陽に注目する機会が多くなります。

子どもを見るときには、その子の興味関心と意欲、繰り返しチャレンジすることに注目したいと書きました。
大人が、子どもができるかできないかという結果ばかりに注目していると、子どもも結果ばかりを求めようとします。ですから、逆上がりができる子はどんどんやる一方で、少しやってみてできなかったら、できないという結果ばかりを気にして、あきらめてしまう。繰り返しチャレンジするということをしない子も出てきます。できたか、できないかという結果を重視するということは子どもを評価することに繋がります。

子どもを「ほめる」ことがあります。私は、子どもを勇気づけるという意味から「ほめる」と良いと思っていました。よく「○○ちゃんすごいね!」と子どもをほめることがあります。心からすごいと思って、素直に感動を伝えるのならそれは良いと思います。しかし、大人が自分の思うようにさせたいから、思うとおりに子どもを動かしたいから、大人が望む結果を示した子どもをほめてしまうことがあります。また、誰かをほめることによって他の子にも同じようにさせようとしがちです。それは大人が望む結果を子どもに強要してしまうことにはならないのかと考えてしまいます。

結果をほめることばかりだと、子どもは自分の興味や関心、意欲からではなく、大人にほめられるために、何かをやろうとするようになります。逆にほめてもらえないとやらなくなってしまいます。そうはなって欲しくないと思います。

ですから、「ほめる」というよりも「寄り添う」のが良いのかと思います。それとも「励ます」「勇気づける」でしょうか。結果だけに注目しない、結果だけで子どもを見ない。子どもを評価しないということを心にとめておきたいと思います。

過程と結果

2012/06/05

今日は二十四節季の芒種 (ぼうしゅ)です。穀物などの種をまく頃という意味だそうです。九州南部が梅雨入りしたというニュースが流れていました。潤いの季節がやってきます。

園庭で、懸命にのぼり棒に取り組んでいる3歳児たちの姿がみられます。真剣な顔つきで一生懸命に取り組む姿から溢れんばかりの意欲が感じられます。

子どもを見るときに「Aちゃんは○○ができる」「Bくんは△△ができる」という見方をしてしまうことがあります。できるかできないかは目に見えてわかりやすく、できないよりはできる方が良いとは思いますが「できるか、できないか」というのは結果です。

それに対して、「やってみる」ということがあります。「何かおもしろそう。」「やってみたい。」「むずかしそうだけどやろう。」という子どもの気持ちと、そこから導き出される挑戦や努力です。できるようになるかならないかは別として、その過程です。

どちらに重点を置いて見るかによって、子どもを見る目や、子どもの姿の見え方がずいぶんと違ってくるのではないでしょうか。

例えば、鉄棒で逆上がりをするということを見てみると、身体的能力の高い子はすぐに逆上がりができますが、運動が苦手な子はなかなかできません。なかなかできなくてもやりたいという意欲をもって、繰り返しチャレンジする姿をみることがあります。

すぐにできてしまう子は、できるという達成感を少しは味わえますが、何度もチャレンジする過程を経験することは少ないと思います。なかなかできない子は、できたという達成感を味わうまで時間はかかるかもしれませんが、チャレンジする過程をたくさん経験できます。単純にどちらが良いというのは難しいかもしれませんが、どちらかというと結果よりもやってみようという興味関心と意欲や繰り返しチャレンジすることに注目したいと思います。

育てる

2012/06/04

    赤ちゃんキュウリ

今年度は子どもたちがいろいろなものを育てています。0・1歳児は園庭のプランターでキュウリの栽培を始めました。小さな苗には、もう小さなキュウリができています。2歳児はフウセンカズラをテラスの軒下で育てて緑のカーテンを作るようです。また、畑ではニンジンを育てようと種を蒔いたようです。3歳児はスイカの苗を畑に植えていました。大きなスイカができて食べられると良いですね。去年もメロンやスイカをほぼ放置した状態で育てましたが、結構実が実りました。今年はどうなるのでしょうか。園庭ではアサガオが本葉を出しています。

     ニンジン

5月に保護者の皆さんと一緒に作ったペットボトル稲はずいぶん大きくなりました。日当たりの良い畑に置いているので、水を欠かさないようにしなくてはならないと思います。

いろいろな作物を育てるためには、常に作物のことを気にかけておく必要があります。ついつい忘れて放置してしまうと、枯れたりうまく育たなくなります。かといって水や肥料をやりすぎるなど手を出しすぎると、かえってうまく育たなくなります。

助長ということばがあります。「物事の成長・発展のために外から力を添えること。」という意味もありますが、

     スイカ

もともとは中国の故事によるものです。『孟子』公孫丑上にある

宋の国に苗が伸びないのを心配して、手で引っぱって伸ばした男がいた。疲れ果てて家に帰り、「苗が早く伸びるように一本一本引っぱった」と話した。驚いた息子が走っていって見てみると、苗はすでにみな枯れていた。

という故事です。不必要な手助けをすることでかえって害してしまうとう意味です。

放置しても良くありませんし、不必要な手助けは逆効果です。

子どもも同じだと思います。放任することは良くありませんし、あれこれと手や口を出しすぎる過干渉も良くありません。心はしっかり運んで寄り添いながら、子どもの自ら育つ力を信じ、過剰に干渉することなく、必要なところで必要な関わりをすることが大切なのではないでしょうか。子どもを引っ張っり過ぎて枯らしてしまうことだけは避けたいと思います。

みんなで植えた稲 2012年5月19日

稲が少し育ちました 2012年6月4日

有能な学び手

2012/06/03

 何でこんなきれいな色なのかな?

子どもは、自然と仲良しです。いつでもどこでも石、草花、虫など様々なものを見つけてきて上手に遊んでいます。一緒に遊んでいるかと思うほどです。

3・4・5歳児の数名が園の周りでいろいろな物を探して遊んでいました。ドングリ、小石、さくらんぼ、ツツジのつぼみ、ハハコグサ、カタツムリのから、リュウノヒゲの真っ青な実、ヘビイチゴ、ユキノシタの花・・・何でも遊び相手にしてしまいます。毛虫が這ってるのを誰かが見つけるとみんながぐるっと取り囲んで見ています。小石を斜面に置くとどうなるのか、滑り落ちるのか、

     これなにかな?

転がるのか、どのくらい遠くまで行くのか、何度も何度もやってみて確かめています。引力と摩擦と加速度とはいいませんが、物理の実験をしているかのようです。

小さな虫が、蜘蛛の巣にかかってもがいている姿をじっと眺める子、いもむしがどうしてこんなにきれいな色をしているのかと不思議がる子、石の色や形、表面の感触をじっくりと確かめている子。

ようく見ると、子どもたちは溢れんばかりのセンスオブワンダーで外界と関わり、理解しようとしている。まさに有能な学び手として学ぼうとしているのだと思います。ですから、おとなが子どもの興味や

   

関心、何をどう思っているのか、その心を深く考えることなく、危ないからダメ、汚いからダメといたずらに禁止することは避けたいと思うのです。

今、何に興味を持ち何を考えているのか、一人ひとりの子どもたちの心に寄り添い、できるだけ子どもと同じ視線で感じ、一緒に驚き、一緒に不思議がり、一緒に感動する。そんな仲間でいたい。子どもたちの姿を見ていたらそんなことを改めて強く感じました。
                                                     

     毛虫が歩いているよ

園庭

2012/06/02

     日よけネット

季節が進み、木々の葉もずいぶんと茂ってきました。桜の花が散った後は小さなさくらんぼができて、園庭にたくさん落ちています。それとともに小さな葉巻が園庭にたくさん落ちていて、子どもたちが集めています。この葉巻はオトシブミという虫が、けやきなどの葉に卵を産み付けたあと、その葉にうまく切り目を入れて、足でくるくると巻いて作ります。葉は卵を守るゆりかごになるのです。

園でもいろいろな変化があります。昨年保護者の方と作った砂場は子どもたちの人気の遊び場の一つで、よく遊んでいますが、あまり直射日光を浴びて遊ぶのはよくありません。特に日差しが強くなるこの季節は要注意です。そこで、何とか日よけを作って欲しいという保育士の願いを叶えるため、用務員役の保育士が頑張って日よけを作ってくれました。業者さんに頼んで作ってもらっても良いのですが、それじゃつまらないということで、できるだけ予算をかけずに作ることにしたようで、農業用の日よけシートを購入しロープをうまく使って砂場の上に張りました。砂場に適度な影を作っています。

       ブランコ

また、椿の木の間にかかっていたブランコを大きなムクノキの枝に掛け替えたら、子どもたちは早速いろいろな遊びを楽しんでいました。大きく揺らしてみたり、ねじってくるくる回ってみたり、何人かで乗ってみたり、ブランコ一つで子どもはいろいろな遊びを考え出すものです。

日差しも強くなってきて、子どもたちは園庭に出ると、すぐに水遊びや泥遊びに興じています。土や水など基本的な自然の構成要素は子どもの感性を刺激するというか、大人に比べて、子どもたちはそういった根源的な要素とより近いのかもしれません。

子どもの興味が広がるよう、様々な遊びの要素をいろいろなところにちりばめられると良いと思います。それも、あまり大人が作りすぎた物ではなく、土、水、木などの素材がたくさんあると子どもの想像力を刺激して楽しさが、何倍にも膨らみそうですね。                                           

     水と泥で

  築山から川ができました

話し合い

2012/06/01

先日、何人かの職員でお泊まり保育について話し合いました。普段の保育もそうですが、行事は何のために行うのか?この行事を経験することで子どものどんな学びを促すことができるのか?いつもそこに還って考える事をしないと、「毎年こうしているから」「去年もこうしたから」という理由だけで、同じことを繰り返していると、陳腐化してしまうだけです。たとえ、去年と同じことをやることになったとしても、いつも、基本に還って、子どもたちの育ちや学びにとってどういう意義があるのかを考える事こそが大切なのです。ことばを変えれば、理念とどう結びついているのか、いつも理念に照らして考える必要があるということです。

全ては変化します。変わらないもの、変わらないことはありません。ですから、去年のベストは今年のベストではないはずです。しかし、どうしても人は変化を避けようとします。「前もそうだったから」になりがちです。もちろん、毎年全てを変えてしまうのが良いといっているわけではありません。いつも「本当に大切なことは何か」からものごとを考え、必要だと思うことは変えるべきだということです。

お泊まり保育について、「子どもたちが主体的に活動できる内容とは何かを考えたいので、話し合いがしたい。園長も加わってくれないか。」と提案してくれました。これほど嬉しいことはありません。何をおいても話し合いに加わりたいと思いました。職員の意見の中には、「子どもが自分で考え、自分で決め、自ら行動する」という目指す子ども像から考えることが必要だというものがありました。これは大変重要なことです。

話し合いは、活発に意見が交換されるというほどではありませんが、なにを一番大切にするのかについて、それぞれの想いを出し合うことはできたと思います。少しずつみんなが思いを出し合い、受けとめあって、一番大切にすべきものを見つめて行くことができると良いと思います。

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