2011年 8月

子ども

2011/08/31

あかちゃんを含め、子どもってどんな存在なのでしょう。小さくて、弱くて、助けてあげないと何もできない存在。大人という完成形に向かって発達の段階を上っている未熟な存在。子どもって、そんなとらえ方をされていることが多いのではないでしょうか。

確かに人間の子どもは生まれてから独り立ちするまでの期間が他の動物に比べてとても長く、小さくて、弱くて、守ってもらわないと生きてゆけません。では、すべてにおいて大人に比べて劣っているのでしょうか。

赤ちゃんについての研究が進み、いろいろなことがわかるようになってきました。

脳にはニューロンという神経単位があり、このニューロンとニューロンの接続部分をシナプスといいます。このシナプスが多いということは、脳内の神経ネットワークのつながりが多いということです。刺激が脳内で信号として伝わる経路が多いということです。人間でこのシナプスが一番多いのは、生後8ヶ月くらいだといわれています。そして、大きくなるに従ってシナプスは減ってくるのだそうです。もし、脳内の神経回路のつながりが多いことイコール脳の機能が高いということであれば、8ヶ月のあかちゃんの脳が一番機能が高いということになります。

実際に赤ちゃんには大人にはない能力があります。例えば、人間の大人には猿の顔の違いを見分ける能力はありませんが、あかちゃんは猿の顔を見分けることができるのです。

今までは、何かを積み重ねて増やしてゆくことが成長だとととらえられていましたが、脳の神経ネットワークに関しては全く逆で、必要のない部分を削る(刈り込む)ことによって成長してゆくということなのです。

これは、人間が生まれたときには様々な環境に適応できる能力を持っていて、自分のおかれた環境で生きてゆくのに必要のない機能は削り取ることで、成長してゆくということなのだと思います。

赤ちゃんはもともと障害物をよける危険回避能力を持っているとします。ハイハイをしていて障害物が目の前に現れたらそれをよけることで、その能力を削り取らずに強化してゆくでしょう。しかし、危ないからと大人が先回りしてその障害物を取り除いてしまったら、赤ちゃんはもともと持っていた危険回避能力を使わなくてすむのでそれを削り取ってしまいます。大人が何でもやったあげることが、かえって赤ちゃんの能力を奪ってしまっているかもしれません。

現代社会において猿の顔を見分ける能力を残す必要はあるとは思いませんが、危険を回避する能力は削り取ってしまわない方が良いのではないでしょうか。

子どもは、論理的に考えたり理路整然と説明したりすることは得意ではありませんが、突拍子もないことやおもしろいことを考えますし、想像力豊かです。逆に大人は様々なことを整理して考えたり、理論づけることはできますが、突拍子もないことを考えたり、想像力という点では子どもにはかないません。もちろん例外はあります。

ですから、一概に子どもが劣っていて大人が優れているとはいえないのです。

子どもが大人の従属物であるかのような考え方がありますが、そうではなく得意分野や役割がちがうだけなのです。決して子どもは大人の従属物ではなく、立派な人格を持った一人の人間です。その視点を常に忘れず、「子どもが今を最もよく生きる」ため、「子どもの最善の利益」のためには何が大切なのかを見つめ続けたいものです。

園の前にいらっしゃる童形六体地蔵尊の脇に札が立っていて、そこにはこう書かれています。

「子どもはみんな仏の子 子どもは天からの預かりもの 子どもは親の心を写す鏡」

子どもは大人の所有物として授かるのではなく、よりよく育つために大人に託された存在なのでしょうね。

あかちゃん 2

2011/08/30

あかちゃんは、胎児の頃から自分で生きてゆくための戦略を立て、身体を動かし、五感を使って周囲の環境と関わり合いながら学習している。胎児からなんて、ちょっと驚きではありませんか?

赤ちゃんが動くということは、まず触覚を使って自分が自分であることを認識し、自分と他を認識することなのだそうです。あかちゃんがお母さんのおなかの中で動くことで自分自身に触り、お母さんのおなかに触って自分と自分以外を感じているということです。触覚は自分が自分であることを認識する最も有効な手段なのだそうです。

胎児の世界は「動けばわかる自分の身体と他者」「動いて作る自分の脳」と小西行郎氏(日本赤ちゃん学会理事長)はおっしゃっていました。

園では毎朝3・4・5歳児と一緒にお参りをしており、その前に子どもたちと少し身体を動かします。そのなかで、やさしく自分自身に触ってみるということをすることがあります。例えば、両手でやさしく自分の顔をなでます。なでる手は顔の感触を、なでられている顔は手を感じます。そこで、自分の顔はここにあると再確認します。当たり前のようですが「自分の顔がここにある」と意識しながら顔を触ることって普段はあまりないと思います。また、顔に触ったときの手の感触に意識を集中する。また逆に顔で触っている手を感じるように意識するようにしています。「自分はここにいる」ということを自分の身体を触ることで再認識してほしい。という理由と、どんな感じがするかに意識を集中してほしいという理由からです。

研修で小西先生のお話を伺って「胎児のころからそんなことをしているんだ」と思いました。

胎児が行っているということは、それが胎児にとって必要だからです。生まれ出てからも少し大きくなっても、子どもがやりたいと思うことを、十分に行うことができるような環境を子どもの周りに整えておいてあげること、それが私たち大人のしなくてはならないことなのだと思います。特に五感をしっかりと使うことができる環境を整えておくことが必要だと思います。

あかちゃん 1

2011/08/29

皆さんは、あかちゃんは何ヶ月から動き始めるか知っていますか?

今年初めに開催された京都市保育士会の研修で講師の先生の最初のことばです。講師は小西行郎氏(日本赤ちゃん学会理事長)です。

正直言ってその質問には???でした。生まれてきたときにはもう動いてる・・・。そう思っていたのです。

「胎児のことですよ。」と言われ、ハッ!としました。「子どもを知るなら胎児のことから知るべきですよ。」先生の声がひびきます。

胎児が動く、いわゆる胎動の始まりは7〜8週頃からだそうです。身体全体を動かす運動から始まり、20週頃までにはほとんどの運動パターンを経験します。それは、あかちゃんが生まれ出たときの準備を自分でしているのだそうです。

いままで胎児は母親に付属するように考えられていました。しかし、最近はあかちゃんの研究が進み、胎児は生まれ出てから生きてゆくための戦略をしっかりと持っていて、その準備のためにお母さんのおなかの中で様々な行動をしていることがわかってきているそうです。そしてこの胎児期からの運動発達を受け継ぎ、新生児も自ら動き、五感を使って周囲との相互作用の中で自ら学習し、発達しているのです。また、生まれたてのあかちゃんも脳の前頭葉を使っていることがわかってきており、これはあかちゃんが自分で考えていることを意味するそうです。

胎児でもそうなのだから、あかちゃんの「自分でやってみる」ということを大切にしてあげてほしい。と講師の先生はおっしゃっていました。

当園では、子どもが主体的に活動することを大切にしています。それは、子どものすることにはすべて意味があり、子どもは自ら発達するために動いていると考えているからです。

冒頭で私がハッ!としたのは、胎児や新生児のことまでは考えていなかったからです。「あかちゃんが自分でやってみるということを大切に!」というくらいですから、当園に在籍している年齢の子どもなら、なおさら「自分でやってみることを大切に!」ではないですか!

あかちゃんは自ら動く、触る、見る、聞くことによって自ら成長している。だから大人はできるだけ邪魔をしないことが大切なのです。

今の保育士にできないこと、それは「動くな!黙って見ていろ!」だそうです。インパクトの強いことばですが、肝に銘じておきたい言葉です。

「しゃべらず(しゃべりすぎず)動かず(動きすぎず)目でとらえる保育士が必要」と先生はおっしゃっていました。まさに私たちが目指している「見守る」ということと同じだと思うのです。

枕木花壇

2011/08/28

今年度の初め、保育士たちが花壇を作ろうと話し合って、園庭に小さな花壇ができました。

どんな材料を使って花壇の枠を作るのかいろいろと考えて、一人の保育士が子どもたちが毎日乗っている叡山電鉄の枕木を使うというアイデアを出して「それいいね!」とみんなの意見がまとまりました。

翌日、電車で出勤した保育士が早速運転手さんに枕木のこと話したようで、数日して担当課から電話がありました。

古い枕木を頒布しているので、都合の良い日に取りに来てもらえれば良い。ただし1本100キログラム近い枕木をフェンス越しに積み込まないとならないので、積み込み用クレーンのついたトラックが必要との話しでした。トラックはあってもクレーン付きとなると考えないといけないので、検討して連絡することにして電話を切りました。

どうしようかと考えていたら、再度電話があって、「ゴールデンウイーク明けに持って行きます。何本くらいいりますか。」とのこと。驚いた私は、配達なんてしてもらえないはずなのに良いのかな?と思い、「それは申し訳なのでなんとかトラックを手配します。」というと、「いつもお世話になっている鞍馬山さんのことですから!」とおっしゃってくださいます。確かに電車で通園している園児はいますが、そこまでしていただくのは申し訳ないとも思いました。でも、せっかくのご厚意なので甘えることにしました。

何でも自分でやろうとするのも良いけれども、できないことはあまり無理せず、力を貸してください。とお願いするのも必要なこと。自分にできること、できないことをしっかりとわきまえていて、できないことはできる人に素直に「お願いします」と頼めることが自立しているということ。と言う話しを聞いたのを思い出しました。人のつながりが希薄になってきている今、あえてつながること、助けてもらうときは助けてもらうこと、助けられるときは助けることも必要なのかと思います。

そして、ゴールデンウイーク明けのある日の朝、叡山電鉄の方3人が枕木を届けてくださったのです。男性保育士も手伝って園庭まで運び込んでいただきました。ほんとうにありがたかったです。10本近く運んでくださったので、とりあえず園庭に並べたら、子どもたちは早速ステージに見立てて、その上で歌を歌ったていました。

その日電車で帰る子どもたちに「今日、保育園に来た枕木と同じのが、みんなの乗る電車の線路を支えてるよ。」と保育士が説明すると子どもたちは納得していたそうです。

後日、お寺の管理部の皆さんの力を借りて小さな花壇ができあがり、一人の男性保育士が花を買ってきて一生懸命植えていました。花の元気がなくなったこともありましたが、少し植え足したりして今ではかわいらしい花が元気に咲いています。

一人の保育士がアイデアを出し、それを電車の運転手さんに伝えた別の保育士がいて、叡山電鉄の皆様のご厚意により枕木、それも子どもたちが毎日乗っている電車の枕木が届き、お寺の職員さんの力を借りて花壇ができる。いろいろな人がつながり、力を合わせてできあがった花壇に咲く花はひときわ美しいように思います。

叡山電鉄の皆さん、花壇作りに関わってくださったみなさんありがとうございました。

みんなの力でできた花壇

手作り

2011/08/27

地蔵盆には子どもたちがいろいろなものをいただきます。それは、お地蔵様にお供えしたお下がりとしていただくのですが、子どもたちの好きそうなものをお供えして、こどもたちに配ることが多いようです。ですから、地蔵盆が終わると、たいていお菓子がいっぱいになります。

園の地蔵盆にも保護者やお寺のご信徒はじめ、様々な方からお供え物をいただき、お参りが終わると園児や当日参加した小学生に分けています。園の地蔵盆をご支援頂いている「くらま会」というお寺の外郭団体があり、以前はその会からもお菓子をたくさん頂いていました。お菓子ばかりよりも子どもに合ったおもちゃや保育で使えるものが良いという意見が保育士から出て、数年前から保育士が子どもと遊びたいと思う物を選んで、くらま会様にご協力いただくという形になりました。もちろん一人ひとりの興味にあったものを用意することができると良いのですが、それは無理なので、クラスごとに用意しています。

今年、3歳4歳5歳は、竹でできた水鉄砲、なわとび、お手玉を、0歳1歳2歳には、保育士が手作りをしました。0歳1歳の子どもには、キルティングの布で作ったお弁当箱にフェルト製のおにぎりやおかずが入ったお弁当箱、2歳にはお散歩に持ってゆくことができる布製のポシェットです。子どもたちがお昼寝をしている間や、手の空いた保育士が時間をやりくりして少しずつ作ったようです。当園は園児数が少ないといっても、0歳と1歳が7名2歳が11名ですからかなりの手間です。毎日子どもと生活し、よく見つめているからこそできることなのだと思います。

地蔵盆が終わると子どもたちはいったん家に持って帰り、また園に持ってきて使います。

今から1歳児が布製のお弁当箱で楽しそうに遊んでいる姿が目に浮かびます。

おべんとう持って、どこ行こ?

2歳児のポシェット レンコンを使って子どもたちがスタンピングしました

最後のプールあそび

2011/08/26

朝から用事を済ませて、11時過ぎに園に行くと園庭がとても賑やかです。子どもたちの楽しそうな歓声に混じって、ときどきおとなの笑い声や大きな声も聞こえてきます。何が起こっているのだろうと思い、窓から園庭を見ると年長児と保育士がプールで遊んでいます。そういえば、この夏最後のプール遊びをするって言っていました。他の子はもうお昼ご飯の準備にいったのでしょう。年長児だけが思いっきり遊んでいます。

お水 かけてあげるね!

何をしているのだろうとしばらく見ていると、子どもたちがかわるがわるプールの中に座った保育士の頭から肩から水をかけています。そのたびに保育士は「ひえー」「つめたーい」と叫んでいます。ペットボトルで水をかける子や、大きなバケツになみなみと水を運んできて一気に頭からかけている子もいました。その子どもたちのいきいきした顔といったら・・・見ているこちらまで楽しくなってきます。近くのデスクで仕事をしていた主任に「ちょっと見て」と声をかけたくらいです。

当園では、基本的には子どもが主体的に遊び、大人はその姿をそっと見守る立場でいるので、大人が大きな声を出して指示をしたり、何かをさせたりすることは少ないのです。もし、大人の大きな声が聞こえるとしたら、楽しすぎて大きな声になっているか、笑っている声です。

この日はみんなで楽しく遊んだ夏の日の思い出にしたかったのか、ただ単に大人も遊びたかったのか・・・

降りそそぐ夏の日差し、飛び散る水しぶき、子どもも大人もはじける笑顔、このキラキラとした空気感、全員が心の底から楽しみ、いきいきと輝いているとってもステキな時間でした。

あまり楽しそうなので園庭に出てみると、子どもたちが「園長先生こんなんできるようになったで」と水に潜ったり、背泳ぎをしたり、いろいろと見せてくれます。「へー!すごいなー」といって見ていました。

すると、どこからともなくビートのきいた威勢の良い音楽が聞こえてきて、子どもたちも保育士もプールの中や周りで踊り始めました。音のする方を見てみると、2階の窓からこちらを見てニヤニヤしている年中児と保育士の姿が、どうやらこの曲は、近づいてきた運動会で踊る曲のようです。楽しそうにプール遊びをしている年長児を見て、「この曲聞かせたら踊り始めるかな」などと相談して、やってみたのだと思います。この作戦に乗せられ、プール遊びをしていた年長児も思わず身体が動いてしまった。といった感じでしょうか。

運動会の練習ですから先生の言うとおりにしなさい!といって練習するよりも、こんなに遊び心いっぱいでダンスの曲に親しむ、すべてを遊びの中で楽しむ。子どもたちのやってみたい!に自然につながる。とってもステキだと思いました。

思わず踊り出してしまいました

地蔵盆 3

2011/08/25

8月24日、鞍馬の各町内でも地蔵盆が行われました。それぞれの町内に伝統的に伝わる方法でお地蔵様をおまつりし、いろいろな催し物も行われます。午前中に園の年長児たちが近くの町内のお地蔵様にお参りに行きました。般若心経とお地蔵様のご真言を唱えてきたそうです。私は同行しませんでしたが、大きな声で唱えている姿が目に浮かびます。

各町内ではそれぞれに工夫を凝らして時間ごとに、たこやき、焼きとうもろこし、かき氷、大人用に生ビールなどの食べ物の提供をはじめ、福引き、ビンゴゲーム、金魚すくい、大学生サークルによる人形劇などをされているところもあります。そして夕方には地蔵寺のご住職によるお参りがあり、数珠繰りをされているところもあります。普通、子どもたちは自分の所属する町内で楽しむそうですが、鞍馬では各町で少しずつ催し物の時間がずらしてあり、子どもたちは各町内を巡っていろいろな催し物や飲食を楽しんでいます。

鞍馬地区にとって少子高齢化は大きな問題です。小学校の児童数も減少し、地域をあげて対策に取り組んでいらっしゃいます。ですから、普段は子どもの姿はあまり見ないのですが、地蔵盆にはたくさんの子どもたちが参加しています。親戚の子どもさんなどが地蔵盆を楽しむために集まっていらっしゃるのだそうです。

子どもたちが賑やかに楽しそうにしているのを見て、せめてこの半分でも鞍馬にいてくれると良いのにと思ってしまいました。

地蔵盆 2

2011/08/24

地蔵盆のお参りをしました。この時期にしては珍しく雨模様。

川上地蔵堂でお参り

最初は園から200メートルくらい山を登ったところにある川上地蔵尊にお参りします。川上地蔵尊は牛若丸の守り本尊といわれ、牛若丸ががいたと伝えられる東光坊跡の前にあります。園を出発する少し前、激しい雨が降ってきました。このままでは行けないかなと思っていたら、出発直前になって雨が上がり4歳児5歳児がお参りに行きました。

次は園に戻り全園児で童形六体地蔵尊にお参り、いつも地蔵盆を支えてくださる方々や保護者も加わってのお参りです。

最後は園舎の2階でもう一度お参りをした後に数珠繰りをします。みんなで一つの輪になって、お地蔵様の真言を唱えながら大きな数珠を隣に送るようにして回す(繰る)のです。

童形六体地蔵尊にお参り

お参りでは般若心経を3回も唱えたにもかかわらず、子どもたちは一生懸命お唱えしていましたし、数珠繰りも随分時間がかかるのですが、「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」と元気にお地蔵様の真言を唱えながら、数珠を回していました。

前にも書いたようにお地蔵様は、すべての衆生をお救いくださいます。子どもたちにも「お地蔵様はいろんな姿に変身して困っている人を助けてくださるんだよ。」と説明しました。

しかし、助けてくださるってどういうことなのでしょう。お参りがすべて終わって片付けをしている間に考えてしまいました。

みんなで輪になって数珠繰り

生きてゆく上ではいろいろなことが起こってきます。どうしようもなく辛いこと悲しいこと、自分自身の力ではどうしようもないこと。お地蔵様はそんな目に遭わないように、そんなことが来ないようにしてくださるのでしょうか。そうかもしれません。転んだときにけがをしないように、けがをしても大けがにならないように、そっと手をさしのべてくださるのかもしれません。

それでも、つらいことや悲しいこと苦しいことはやってきます。それを乗り越えるのは、やっぱり自分自身です。お地蔵様が代わりに乗り越えてくださるわけではありませんし、他の誰かでもありません。乗り越えるのは自分自身しかないのです。その力、心の力と言っても良いかもしれませんし、気づく力といっても良いかもしれません。お地蔵様はそれを与えてくださるのではないのでしょうか。

その姿勢は、ああしなさい!こうしなさい!あれはだめ!これもだめ!と自分の考えを押しつけたり、急がせたりせず、そっと、じっと、その人が気づき自分から変わるのを見守ってくださっているイメージのような気がします。

お地蔵様は様々なお姿になって救ってくださいます。子どもたちにもそう説明しました。それは、救う人に合わせること、別のことばで言えば、その人の個性を尊重するということなのではないでしょうか。

ついつい、自分の考えが一番正しくて、他の人をそれに従わせたくなる。自分の正しい(と思い込んでいる)考えに従わないヤツはダメだ!と思ってしまう。そんな欲にとらわれ、それがかなわないといって、自ら苦しみを作ってその苦しみの奈落に自分で落ちてしまいがちです。

苦しむのも自分、苦しみから救われるのも自分なのでしょうね・・・

苦しみや怒りの心にもってゆかれてしまわないように、自分の心を律してゆきたいと思います。

 

地蔵盆 1

2011/08/23

お地蔵様は地蔵菩薩といい、修行をして仏様になれるのだけれども、苦しむ衆生を助けるという誓願を立て、釈迦牟尼仏入滅後、弥勒仏ご出現になるまでの長い間、様々な姿になって衆生を済度されているのです。六体でいらっしゃるお姿は、生死を繰り返す六つの迷いの世界である六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)のそれぞれを救ってくださるということを表しています。

お地蔵様を講讃する法会は古くから行われていて、特に7月24日(旧暦)には子どもたちが辻ごと(町内ごと)にいらっしゃるお地蔵様を祭る地蔵盆として行われていました。今は、8月24日(新暦)や、その前後の休日に行われていることが多く、京都では町内ごとに行われています。鞍馬でも地蔵寺をはじめ各町内で行われ、子どもたちが順番にお地蔵様を巡っています。普段は小さな祠などにいらっしゃるお地蔵様がこの日は祭壇に祀られ、その前で子どもたちがゲームや福引きを楽しんだり、数珠繰りをするなかでお地蔵様にご縁を結ぶのです。

園では各町内の地蔵盆と重ならないように1日早い23日にお参りをしています。おみぬぐいをして美しくなっていただいたお地蔵様に真新しいよだれかけをかけ、お供え物を供えてお参りします。お供えは保護者の皆様はじめ、地域の方々やお寺のご信徒、多くの方々からたくさんいただきます。

お地蔵様のよだれかけは、毎年地蔵盆前と年末に卒園児の保護者が手作りしてくださっています。夏はレースをあしらうなど涼しげな工夫がしてあったりして、心を尽くしてくださっているのがよく感じられます。もう15年以上も欠かさずに続けてくださっていますが、なかなかできることではありません。

お地蔵様がご縁の結び目となっていただいて、子どもたちを中心にいろいろな人々が様々に繋がり、一緒にお参りをする。そういったせっかくのつながりの機会が、もっと子どもたちが実感できる形に、いろいろな人たちと実際にふれあい共に何かをする機会にならないものか、何か良いアイデアはないかと考えています。

おみぬぐいが済み、新しいよだれかけをかけた童形六体地蔵尊

あまい香り

2011/08/22

8月初めのある日、車を運転していると携帯電話が鳴ったので交通量の少ない脇道に車を止めました。電話を終えて何気なく窓の外を見ると、田んぼの向こうに比叡山が見えます。そのあたりは近年宅地化が進んできたところで、田んぼや畑と住宅が混在している地域です。

比叡山から吹き下ろしてくるのか、とても涼しい風が車の中を通り過ぎ、目の前には夏の日差しに稲の緑がかがやいています。

とっても気持ちよかったので、車の窓を全部開けてしばらく風に揺れる稲を見ていました。風が息をするのにあわせて稲の波がこちらに打ち寄せ、まるで風が見えるようです。

田んぼを渡った風が通り抜けていったとき、とても香ばしくどことなく甘い香りで車の中が満たされました。何の香りだろうと思いながら、田んぼをよーく見てみると、かがやく稲の葉の間に稲穂が、その先にはかわいらしい稲の花がたくさん咲いているのです。甘く香ばしい香りは稲の花と葉の香りだったのでしょう。

美しい稲の緑、わたってくるさわやかな風、その風が運んでくる香り…

元気に育って花をつけ、まさに実を結ぼうとしている稲。その溌剌としたいのちの輝きが感じられ、とても満ち足りた、うれしく、優しい気持ちになりました。

園で育てている稲も花をつけました

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