2013年 8月

ことばをまなぶ 1

2013/08/31

赤ちゃんがどうことばを獲得してゆくかについて興味深いお話を伺うことができました。講師は、NTTコミュニケーション科学基礎研究所人間情報研究部 麦谷 綾子先生です。NTTコミュニケーション科学基礎研究所は、「情報」と「人間」を結ぶ新しい技術基盤の構築に向けて、情報科学と人間科学の両面からこの問題に取り組んでいる研究機関で、先生は人間情報研究部で、乳幼児の母語音声システムの構築・獲得過程を研究していらっしゃいます。

今回は「ことばのはじまり」というテーマでお話ししてくださいました。言語は人間だけが持っている高度な認知機能ですが、それを生まれてからわずか数年で自由に操ることができるようになります。これを機械で再現しようとするとかなり大変なことになるそうです。また、チンパンジーにことばを覚えさせようという実験は何度か行われていますが、食べ物が欲しい。飲み物が欲しいといったことを表すことはできますが、やりとりをするような高度な言語の使い方はできないそうです。人間は共感する能力があるから、言語を操ってコミュニケーションすることができるのだそうです。

また、大人になると言語獲得が難しくなることは、英語をはじめとする外国語を学ぶのに苦労することでもわかります。赤ちゃんの時期はことばを獲得するのに最適な時期なのだそうです。

ことばのはじまりについて、先生は論点を3つに整理して話してくださいました。1.ことばの獲得のはじまりについて 2.母語の音を聞き分ける能力の発達について 3.語りかけについて です。

赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいるときから、五感を働かせて主体的に生きていることが赤ちゃん学研究の発達によってわかってきました。その中で聴覚は28週くらいまでには発達し、赤ちゃんはおなかのなかで様々な音を聞いていますが、内耳機能の発達が途上なのと、胎内では高い音が伝わりにくいので、母音や低い周波数の音を比較的多く聞いているようです。赤ちゃんが生まれてからどんな音を好んで聞くのか、どんな音に注意を払うのかという実験があります。その方法は前にも紹介した吸てつ法という赤ちゃんがおしゃぶりを吸う力や回数を計ることによって計る方法です。あかちゃんがおしゃぶりをくわえて、ヘッドホンで音を聞かせます。赤ちゃんが興味を持っている音が聞こえてくると、強くおしゃぶりを吸うという反応を使って調べたそうです。

その結果は、外国語と母語では母語を、母親の声と母親以外の女性の声では母親の声を選好したそうです。ある程度予想できそうな結果ですが、胎内で聴いたおはなしとそれ以外のおはなしでは胎内で聞いたものを、胎内で聴いた子守歌とそうでない子守歌では胎内で聴いた子守歌を選好したというのです。物語や子守歌まで聞き分けているのです。ちなみに妊娠中にソープオペラと呼ばれる昼ドラを見ていたおかあさんたちと、そうでないお母さんとに分かれ、それぞれの赤ちゃんがソープオペラの主題歌を選好するかどうかを調べた実権では、ソープオペラを見ていたお母さんの赤ちゃん達は、ドラマの主題歌を選好したそうです。
赤ちゃんは聞いているのです。

しあわせ 6

2013/08/30

人間の欲望には際限がないということはよく言われます。確かにそうでしょう。いくらお金を持っていても、もっと欲しいとなるでしょうし、いくら良いものを持っていても、もっと良いものが欲しいとなります。欲しいという欲望と、持っていないという現実の間に苦しみが生まれ、しあわせではなくなります。

ほどほどのところで、「これで充分足りている」と満足できると、苦しみは少なくなって、しあわせを感じることができます。ほどほどを知り、そこで満足できると良いのでしょうけれども、なかなかむずかしいことなのかもしれません。
ただ、自分と違う生活をしている人がいること、「あんな生活したいな」「こんなモノが欲しいな」と思います。しかし情報がなく、自分自身の今の生活が特に不自由はないし、満足できていると、しあわせでいられると思います。それも、しあわせだと思います。
いろいろな情報に触れている中ででも、自分は自分でしあわせと感じられるためには、どうすれば良いのでしょうか。自分でそう思うこと。「私はしあわせだ。」と思うことなのでしょうか。それができれば、物質的な欲望による執着は少なくなるかもしれません。

世界には昔ながらの生活をしていて、未だにお金を使わないで生活している人たちがいます。また、まさに今、お金を使うこ社会に移行しようとしている地域もあって、研究者達の関心を集めているようです。お金を使うことなく生活している人々は、誰かが食べ物を得てきたら、必ずすべて等しく分配するそうです。だれがとってきても、全員に均等に分けるのです。他のものもそうだと言います。

ところが、お金を使い始めた社会では、より多くのお金を得ようとする人が出てきて、開墾をして畑を広げるなど、何か違うことをやろうとするそうです。お金を使わない社会は平等だけれども、横並びで発展(このことばが適切なのかどうかは分かりませんが)変化が少ないといいます。ところがお金を使い始めると、少しでも多くお金を得ようとして、工夫をしたり、アイデアを出したりするのです。平等ではありませんが、何か新しい物や事を生み出す原動力にはなるようです。より多くのお金を得たいという欲望が社会を発展させる原動力となる一面があることも事実です。

しあわせってなんでしょうか?やっぱり難しいと思います。

しあわせ 5

2013/08/29

ブータンの第2回目の総選挙で野党が勝利し、政権が交代するだろうと報道されていました。その背景として、野党が中国に接近したことで、最大の援助国であるインドからの援助が一部停止されたこと、失業問題、格差問題等があげられると、いろいろな新聞で報道されていました。京都新聞では、テレビ放送や携帯電話サービスなどの情報化が進んだことで、地方出身者が都市部と地方の農村部と差を情報化の中で知るようになり、少しでも富を得ようと都市部に流入しているのが、現在のブータンの状況だと解説していました。新聞によって少し視点が違うのがおもしろいと思います。

首都ティンプーの通りを歩くと、韓国ドラマの俳優やアイドルの髪型ファッションをまねた若者とすれ違うが、短い髪をオレンジ色に染めた彼らのひとりは「海賊版のDVDでドラマや映画を見るのがたのしみ。GNHはもちろん知っているけど、実感として分からない。」という。と記事にありました。2005年の政府の調査では、地方在住の96%がしあわせと答えたが、今調査をやれば、この数字より低いのは確実。という人もいるそうです。

以前、ティンプーに行ったときには、ほとんどの人が、男性は「ゴ」女性は「キラ」という民族衣装をまとっていたのを覚えています。20年ほど前のことなので当然かもしれませんが、韓国ドラマのアイドルの髪型やファッションをまね、髪をオレンジ色に染めたひとはいませんでした。これが変化なのでしょうね。

農業を営み自給自足や相互扶助のなかで、「しあわせ」と感じていたブータンの農村の人々、情報化によって外の世界のことを知るようになって、テレビで見るようなものがほしい、あんな生活をしてみたい。と思うようになったということでしょうか。それほど単純なことではないのかもしれませんが・・・

情報化によって、いろいろなことを知ることにより、あれがほしい、これもほしいと欲望をかき立てられる。そうすると今まで満たされていた心が、満たされなくなってしあわせを感じられなくなるのでしょうか。それなら、入ってくる情報を制限して外の世界を知らないまま過ごしていた方が、しあわせだったということになります。それもどこか変な気がします。しあわせってなんでしょう?どこにあるのでしょうか?

しあわせ 4

2013/08/28

ブータンの2回目の総選挙で、野党が圧勝した背景を、各紙が報じていましたが、京都新聞の記事は少し異なった視点でとらえられていました。「総選挙で変革を求める民意の後押しを受けた野党が勝利。都市化や情報化が進む中、しあわせに対する意識が徐々に変化、より良い生活を率直に求める層が増えていることが背景にある。」
としています。これまで自給自足や相互扶助で成り立ってきた農業社会のブータンで、GNHは国民に指示され浸透してきた。ところが、1999年にテレビが解禁され、2003年に携帯電話サービスが始まることで情報化が進んだことで、外国の情報が入ってくる。都市部と地方の所得や発展の差を地方出身者が知るようになる。そうすると少しでも富を得ようと都市部に流入してくる人が増えているのが現状なのだそうです。今回の選挙では今まで変化を求めなかった地方の選挙区で野党が勝利したことで、変革を求める民意がはっきりしたと考えられる。都市と地方の格差があまりにも大きくなり、国民が等しくGNHの理念を共有できない状況になっているとしています。

外から入ってくる情報が少ない時はそれなりにしあわせを感じることができていたのに、様々な情報に触れることで格差を知り、現状に満足できなくなってそれまで感じていたしあわせが感じられなくなってしまった。ということなのでしょうか。情報化が進み、より多くのことを知れば知るほど、しあわせは遠ざかってゆくのでしょうか。

人間の欲望には際限がないので、どんなに豊かになっても、さらにもっとほしくなってしまうのでしょう。知足ということがあります。文字通り足るを知るということです。「私にはこれで充分」と思う事ができれば、しあわせは逃げてゆかないのかもしれません。

しあわせ 3

2013/08/27

ブータンで2回目の総選挙が行われ、野党が勝利したという報道がされていました。

8世紀、チベット仏教がブータンにもたらされ、それ以来ブータンの社会、文化などすべての面でチベット仏教が大きな役割を果たしてきましたが、国を統一する政治的な枠組みが作られたのは、1616年チベット仏教ドゥック派の高僧シャブドゥン・ンガワン・ナムゲルがチベットからやってきたことに始まります。しかし、実際は多くの地方領主がそれぞれに力を持っていた状態が長く続いていたそうです。1907年ウゲン・ウォンチュックが初代ブータン国王に就任してからブータンはウォンチュック朝の世襲君主に治められるようになりました。その後第三代国王、ジグミ・ドルジ・ウォンチュックは、より民主的な政治を確立するために、1953年に国民議会を設立します。それ以来国王によって徐々に民主化が進められ、2008年に憲法が施行されて立憲君主制に移行しました。国家評議会(上院)と国民議会(下院)による両院制で最初の総選挙では47議席中ブータン調和党 (DPT) が45議席を獲得して圧勝し、第2党の国民民主党 (PDP) は2議席でした。今年2回目の総選挙が行われた結果、野党の人民民主党(PDP)が半数を大きく超える32議席を確保し、与党のブータン調和党(DPT)は15議席にとどまりました。

その結果についてインターネットのニュースサイトでは様々な分析が為されていました。
「都市への人口流入に伴う若者の失業増といった社会問題の深刻化に不満を持つ有権者から野党が支持を集めた。」「ブータン調和党(DPT)の中国への接近姿勢が、最大支援国であるインドとの関係が後退する原因となった。」「『幸福の国』を掲げる同国の『国民総幸福量』(GNH)指標や経済の先行きに対する国民の不安を反映している。」といった具合です。

しあわせ 2

2013/08/26

国の発展を測るために、経済的な指標であるGNPやGDPだけを基準にするのは片手落ちだ。なぜなら、人々が望むものは突き詰めれば「しあわせ」なのだから。しあわせは経済的(物質的)な豊かさだけでは計ることができない。もちろん衣食住が足りて生活できることは基本的なこととして大切だが、最低限の物質的豊かさに加えて、家族や地域社会のきずな、人と自然の調和、国民が共有できる歴史、文明、文化がしあわせであるために大切なことだ。という考えのもとブータンの第4代ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が国の繁栄の指標としてGNPやGDPにかわる「GNH」を提唱しました。

確かにGNHやGDPの値が高くても、自殺者やうつの人が多い国もあります。ですから、GNPやGDPの高さだけが、その国の国民の幸福度を表しているとは言えないでしょう。

しかし、しあわせというどちらかというと個人的な感覚を計ることは難しくはないのかなと思ってしまいますが、そこは、先日紹介した、4つの柱と9つの領域があります。この9つの領域がとても幅広く全体的にとらえられています。心理的幸福という個人の主観的幸福度や自分の時間の使い方という個人的なものからコミュニティーの活性化や文化の多様性、そして生態学的な多様性(環境)というところまで、非常に幅広くとらえられていることがわかります。
ブータンでは2年ごとに9つの領域にわたる指標に基づいた調査が行われ、その結果が政策の決定に活かされることはもちろん、政策がGNHの目的にかなっているかどうかを審査し、政策の評価と統合を行っているのだそうです。
このGNHの考え方はブータンの憲法にも明示されていて、それに基づいて政策決定が為されているのです。

GNHという理念があり、その理念に基づいて、現状を把握する方法を考え、改善点があれば、GNHの理念によって政策を立案してゆくのだそうです。

いつも理念にかえって考えることの大切さを改めて思いました。

しあわせ 1

2013/08/25

国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)ということばがあります。これは国民全体の幸福度を示す尺度です。国民総生産(Gross National Product, GNP)が「一定期間に国民によって新しく生産された商品やサービスの付加価値の総計」であり、国内総生産(Gross Domestic Product、GDP)は、「一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額」で、両方ともその国の経済的な豊かさを計る指標です。この物質的な豊かさをお金という尺度で測るのに対して、GNHは、精神面での豊かさを「値」として、国民の幸福度を測ろうとするものです。

1970年台にブータン王国の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクは、国家の問題が経済成長だけに特化されることを心配し、ブータンで優先するべきなのはGNPやGDPではなくGNHだと決めました。そして、国の発展の度合いをGNHで測ることを提唱したといいます。

この考えの基本には、人間社会の発展とは、物質的な発展と精神的な発展が共存し、互いに補い合って強化していったときに起こるものだという考え方があります。

このGNHはそれまでブータンでは伝統的だった価値観をわかりやすく整理したもので、
1. 公正で公平な社会経済の発達
2. 文化的、精神的な遺産の保存、促進
3. 環境保護
4. しっかりとした統治
というGNHの4つの柱のもとに
1. 心理的幸福
2. 健康
3. 教育
4. 文化
5. 環境
6. コミュニティー
7. 良い統治
8. 生活水準
9. 自分の時間の使い方
の9つの分野にわたって、「家族は互いに助け合っているか」「睡眠時間」「植林したか」「医療機関までの距離」など72の指標があるそうです。
人々のしあわせを見える化するということなのですね。

お地蔵さまの持ち物

2013/08/24

5歳児たちがお地蔵さまのおみぬぐいをしている様子を先生から聞きました。子どもたちからは「お地蔵さんが『ありがと』うって言ったはるのが聞こえる」「目をきれいにしてあげたら、お地蔵さまの目がだんだん開いてきた。」「明日もお地蔵さまをきれいにしてあげたい。」などのことばが聞かれたそうです。微笑ましくなります。

子どもたちが興味をもったお地蔵さまの持ち物、六体のお地蔵さまは次のようなものを持っていらっしゃいます。

柄香炉といって香炉に持ち手がついていて、持ち運ぶことができる香炉があり、その柄香炉を持っていらっしゃるお地蔵さま。左手に数珠を持っていらっしゃるお地蔵さま。合掌していらっしゃるお地蔵さま。幢幡といって仏様や菩薩様を荘厳し供養するための幡を持っていらっしゃるお地蔵さま。意の如く願いを叶えてくれる宝の珠とも言われ、仏様の教えの象徴とも、お地蔵さま自体を表すとも言われる如意宝珠を持っていらっしゃるお地蔵さま。錫杖と宝珠をもっていらっしゃるお地蔵さまがいらっしゃいます。錫杖は杖の先に金属の輪がついていて、振ると音がする仏具で、もともと修行僧が山野を歩く際に獣を避けるために用いたと言われています。山に入るときに、熊よけに鈴をつけるようなものでしょうか。金属の部分だけを短い柄につけ、これを振りながらお経を唱えたりすることもあります。

この中からどれだけの実物を子どもたちに見せてあげることができるでしょうか。

  柄香炉を持ったお地蔵さま

  数珠を持ったお地蔵さま

  合掌しているお地蔵さま

  幢幡を持ったお地蔵さま

  宝珠を持ったお地蔵さま

  錫杖を持ったお地蔵さま

子どもの興味

2013/08/23

地蔵盆を前に、童形六体地蔵尊のおみぬぐいをした5歳児たち。石像についた汚れや苔を小さなブラシで丁寧に落としていました。ずいぶんと時間をかけて丁寧にしていたようで、お昼ご飯の時間になってしまったので、まだ続けたかったけれども仕方なく終わったという感じでした。

おみぬぐいを終えて園庭に戻ってきた5歳児たちが、声をそろえて「園長先生」と呼ぶので、お地蔵さまがきれいになったから見てほしいというのかと思いながら園庭に行ってみると、6体のお地蔵さまがいろいろなものを持っているようだけれども、何を持っているのか教えてほしいというのです。

どうやら、おみぬぐいをして近くでよく見てみると、普段拝んでいるだけでは気付かない細部に気付き、興味を持ったようです。普段は前垂れをつけていらっしゃるのを取り外したので、よく見えたこともあると思いますが、いろいろなことに興味、関心を持てるところがこどもたちのステキなところです。

子ども 「これは何?」
園 長 「柄香炉といって、良い香りのするお香を焚くものだよ。」
子ども 「このお地蔵さまは何を持っているの」
園 長 「なんだと思う。」
子ども 「お数珠!」
園 長 「そうだね。」
子ども 「この桃みたいなのは何?」
園 長 「それは宝珠って言って、宝の珠っていう意味なんだよ。」

子どもの質問は尽きることがありません。
子どもの興味関心がどんどん広がるにはどう答えると良いのか?よく考えて言葉を返した方が良いのですが、ついつい説明ばかりしようとしてしまいます。

ことばで説明しましたが、伝えるのは難しいこともあるので、実物があるものは実物を持って来て見せてあげようと思います。

お地蔵さまのおみぬぐい

2013/08/22

8月後半になると地蔵盆がやってきます。地蔵盆については前にも取り上げたので、詳しくは書きませんが、8月24日を中心に行われるお地蔵さまをまつる行事です。
町内や辻ごとに祀られたお地蔵さまが、宿(会場)となる家に祀られ、その前でお参りや、数珠繰りをしたり、子ども向けのイベントや福引きなどが行われます。

園では8月23日に地蔵盆のお参りをします。お寺の参道を少し上がると、牛若丸がいたといわれる東光坊跡の前に、牛若丸の守り本尊だったともいわれる川上地蔵尊がいらっしゃいます。このお地蔵さまもお散歩の時によく拝んでいるので、地蔵盆にはみんなでお参りしています。

また、園の前には童形六体地蔵尊というお地蔵さまがいらして、子どもたちを見守ってくださっています。子どもたちは毎日お地蔵さまの前で手をあわせ、登園時には「お地蔵さまおはようございます」降園時には「お地蔵さまさようなら」とお地蔵さまを拝んでいます。ですから、地蔵盆には童形六体地蔵尊にもお参りします。

地蔵盆を前にして5歳児たちが童形六体地蔵尊のお身ぬぐいをしていました。石像なので水をかけて、たわしで洗いますが、「たわしだと大きすぎて細かなところまできれいにならないからもっと小さなブラシが良い」という意見が出たらしく、子どもたちは歯ブラシを一本ずつ持って、お地蔵さまのお身体をきれいにしていました。参加していた子どもたちは、おもしろかったのか、全員1時間以上もの長い時間とても一生懸命に取り組んでいました。中には「毎日お身ぬぐいしたい」という子どももいたそうです。

子どもたちが頑張ったので、お地蔵さまはとてもスッキリと美しくなられました。卒園児の保護者が毎年奉納してくださる前垂れ(よだれかけ)を新しく掛け替えたら、さらにさわやかな雰囲気になりました。

子どもたちの、お地蔵さまが美しくなってくださるのが嬉しいという気持ちと、もう20年近くにわたって毎年地蔵盆前とお正月前に、手作りの前垂れ(よだれかけ)を奉納してくださる保護者のお気持ち、その他多くの方々のお気持ちが合わさって、お地蔵さまはいつもより輝いていらっしゃいます。

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