2013年 9月

からだを動かす

2013/09/30

保育所保育指には、保育の養護と教育のうちの教育に関わるねらい及び内容の「健康」の領域の「ねらい」の中には 「自分の体を十分に動かし、進んで運動しようとする。」とあり、「内容」には「いろいろな遊びの中で十分に体を動かす。」「様々な活動に親しみ、楽しんで取り組む。」などがあります。

例えば、赤ちゃんの時は、はいはいからつかまり立ち、つたい歩き、立つと発達が進んでゆきます。そして、歩く、走る、のぼる、おりるなど発達過程にそって発達してゆきます。ですから、その時期に合わせた運動を遊びの中でできるようにすることが必要となってきます。そういうと、練習をさせるように聞こえますが、あくまでも子どもが主体的、自発的に行うことができるように環境を構成するのです。また、発達の順序は一定でも、その早さは子どもひとり一人異なるので、その子の今に合った環境を構成することが必要となってきます。「子どもは十分に体を動かすことの心地よさを味わうことで、自ら活動することの喜びや達成感を味わい、ますます活発に遊ぶようになります。」(保育所保育指針解説)と言われるように自ら活動することの喜びや達成感があるからこそ、もっとやてみたい、次に挑戦しようという意欲が湧き、ますます活発に遊ぶようになるのです。自ら活動することの喜びや達成感をたくさん味わうことができるように、保育者は環境を構成するのです。でないと、「ただ遊ばせている」だけになってしまいます。

そして基本は子どもが「楽しんで取り組む」ことです。「子どもは自ら楽しみながら、心と体を十分に動かし、繰り返し試したり、工夫したりすることにより身の回りの事象などへの興味や関心を深めていきます。」(保育所保育指針解説)そのことをとおして、友だちとの関わりを深め、仲間と一緒に取り組むこと協力することに楽しさを感じるようになるのです。

専門性

2013/09/29

子どもたちは健康で、情緒的に安定した生活をする事により、外の世界に関わってゆこうとする意欲がどんどん生まれてきます。その最初にあるのは興味関心です。「砂の山から水を流したらどうなるのだろう。」「のぼり棒のてっぺんまで登ってみたい。」「ともだちに手紙を書きたい。」様々な興味関心が子どもたちの心に芽生えます。そして、それは子どもひとり一人で異なります。ですから、子どもが自ら興味関心を持って取り組むことができるさまざまな環境が用意されていると、子どもたちは自分の興味関心を追求することができるのです。

ひとり一人というと、それぞれに自分勝手なことをするのかと誤解されそうですが、一人でやりたいこともあれば、ともだちと協力したり役割分担をしてやることが楽しいこともあります。この興味関心から、やってみたい、試してみたいという意欲が生まれ、その意欲が様々なことに挑戦する原動力となってゆきます。

子どもが主体的に興味関心をもち自発的に活動するのです。とういと保育者は何もしないで子どもを放っておけばよいのかという誤解も受けそうですが、もちろんそうではありません。それでは放任になってしまいます。

保育者は子どもが興味関心を持てるよう様々な人、物、場といった環境を構成します。興味を持ちそうな物を用意したり、遊びを提案したり、課題を投げかてみたり、誘ってみたり、そこには保育者の意図があります。「子どもは遊ぶことで学ぶ」といいますが、「幼児をただ遊ばせているだけでは,幼児の主体的な活動を促すことにはならない」(幼稚園教育要領解説)といわれるように、放任していては、子どもの発達を促すことはできないのです。

かといって、保育者が計画した通りに子どもを動かそうとすることは、子どもの主体的な活動を促すことにはなりませんし、自発的な活動としての遊びではなくなってしまいます。「保育士等の意図性が強くなると、子どもが負担感を感じることも考えられます。」(保育所保育指針解説)

ひとり一人異なる子どもが主体的、自発的に環境に関わって発達できるようにすることが保育者の役目であり専門性なのです。

子どもたちがとても意欲的に運動会に取り組んでいたのは、先生達がひとり一人の子どもを受けて止め、意図を持って環境を構成していたからなのです。

視点

2013/09/28

このところとてもさわやかな秋の青空が広がっています。日差しを浴びていると、まだまだ暑く感じることもありますが、時々吹いてくる風は、ひんやりと心地よいものです。そんな秋の1日に運動会を行うことができました。以前は、9月下旬になると肌寒い日が多かったので、もう少し早い時期に行っていたのですが、近年、9月の早い時期は暑すぎることが多いので、今年は少し遅らせて実施しました。雨の心配が全く無かっただけでもとてもありがたいことです。

昨年まで私は放送席で音響機器の操作やプログラムの説明をしていたのですが、今年は主に来賓席でお客様と一緒に運動会を見ながらプログラムについて説明する役割になりました。そのことで、今までは先生達と一緒に動いていたのが、少し離れたところから運動会全体を見ることができました。視点が変わると見え方が変わるものです。自分も一緒に動いているときには、細かなことが気になっていたのが、全体を見渡すことで、今まで見えなかったところがたくさん見えてきました。なによりも強く感じたのが、子どもたちの顔がとてもいきいきしていることです。運動会のひとつひとつを思いっきりやりきりたいという思いが溢れているように感じました。保護者の皆様がどの子に対しても、惜しみない声援を送ってくださっているのが感じられましたし、来賓の皆様と話をする時間があったおかげで、感想を聞くこともできましたし、プログラムについて説明したり普段の子どもたちの様子を伝えたりすることもできました。視点を変えてみることの大切さを感じました。

運動会が終わってからのことです。ある保護者の方が帰りがけに「先生、今年は放送席にいらっしゃいませんでしたけれども、身体の具合でも悪いのですか。」とたずねてくださいました。身体はいたって健康なのですが、いつもみたいに動き回っていなかったので、そんなふうに感じさせてしまったのかもしれません。そんな心配をしてくださるなんてありがたいことです。

季節の香り

2013/09/27

26日から急に秋らしくなり、27日朝の気温は15度、肌寒いくらいでした。日中は20度くらいになっていましたが、風が吹いてくると、肌寒さを感じます。湿度も40パーセントくらいとさわやかでした。夏の湿度が80パーセント以上が信じられませんし、戻ってきてほしくありません。秋分の日ごろからキンモクセイの香りが漂い始めました。花が咲いているはずですが、よく見ないと見過ごすくらい控えめです。色も薄く、あまり開いていません。それが、時間が経つにつれて淡いオレンジ色に変わり、花が開いてきました。枝先についた小さな花が一晩でずいぶん開くものです。3日ほどしたら、色も濃く更に香るようになりました。満開と言ったところでしょうか。園庭の生垣が吹き寄せのようになっていて、キンモクセイもあるので、子どもたちはかわいらしい花を集めて、香りを楽しんだり、いろいろなものに見立てて遊んでいます。五感のうち嗅覚を使う環境というのは構成しにくいように思いますが、キンモクセイやジンチョウゲのように香りのする植物を植えておくのも良いかもしれません。このところ雨が降らないからか、キンモクセイの香りはいたるところで楽しめます。ところが、春先に園庭に移植した2本の柿の木の1本が日当たりの良いところにあるので、気をつけて水をやらないとしおれ気味になってしまうのです。せっかく苦労して植え替えてもらったのですから、枯らすわけにはゆきません。できるだけ気をつけて水をあげようと思います。日当たりのあまり良くないところに植えた柿は葉っぱがしおれることはほとんどありません。環境の違いでこれだけ違うのですね。ただ、どちらが良いのかはわかりません。今年はまだ実をつけるのは早いと思いますが、実をつけるようになった時に日当たりはどう影響するのか、楽しみです。
季節が進み、それにつれて自然の姿も徐々に変化してきます。裏山の栗もそろそろ熟してきたようです。

カエンタケ

2013/09/26

自然は美しく優しく私たちの心を和ませてくれます。しかし、時として先日の台風のように、災害をもたらすこともあります。災害とまではいかなくても、自然の生き物の中には人間に危害を加えるものもいます。ハチやマムシ、ムカデなどに刺されたり噛まれると痛いだけでなく、時には命に関わることもあります。もちろんもっと大きな動物といえば、イノシシやクマなどにも注意が必要です。植物にだってトゲを持ったものやウルシのようにかぶれるものもあります。毒を持つものといえばきのこが思い浮かぶかもしれません。テングダケなどは時々見かけます。毒きのこは食べられるきのこと間違って食べて食中毒を起こすという例が多いので、野生のきのこを食べなければ大丈夫だと思いがちです。しかし、食べなくても触るだけで皮膚がただれるという強毒のきのこがあるのです。それは「カエンタケ」というきのこす。色は鮮やかな赤やオレンジで、地面や枯れた木から指が突き出たような形で群生します。その名の通り炎が燃えさかっているような姿にも見えます。そんな猛毒のきのこが近くの山で見つかっているので気をつけなくてはなりません。この辺りでカエンタケが見つかったということは今まで聞いたことがなかったのですが、昨年くらいから増えているようです。
調べてみると、ナラ枯れで枯れてしまった樹木に発生することが多いようで、ナラ枯れが発生したところで多く見つかっているそうです。この辺りもナラ枯れの被害にあって枯れてしまったカシなどの木があり、その近くに生えているようです。京都府下や滋賀県などでも急増しているようで、行政や専門家が注意を呼びかけています。
ナラ枯れ防除のために、被害に遭った木を伐採し、薬剤で燻蒸するという方法が多く行われていますが、この薬剤の使用と、カエンタケ急増の間には因果関係はないのか、ちょっと気になっています。

食糧不足

2013/09/25

「あー!おさるがいる」子どもたちの声が聞こえてきたので行ってみると、猿が一頭、畑のフェンスの上をうろうろしています。まわりに他の猿は見当たらなかったので、群れからはぐれたのかもしれません。かなり大きな猿でした。夕方子どもたちが園庭に出る前だったので、いつも通り園庭で遊ぶのか、猿を用心して室内で遊ぶのかを決めなくてはなりません。しばらくして猿の姿が見えなくなったので、子どもたちは園庭で遊ぶことにしました。野生の猿は特別なことがない限りは人間に近づいて来ることは少ないのですが、園庭に下りてきては困るので、私が畑で監視することにしました。畑に行ってみると。猿は畑の反対側の斜面にある栗の木に登って、一所懸命に栗を食べようとしています。しばらく見ていましたが、猿は栗に夢中です。まだ、熟していないので、食べようにも食べられないのかもしれません。猿も食べるものがないのでしょう。

杉や檜を植林した山が多くなって、野生動物の食料が少なくなっていると言われています。植林されたのは、戦後の拡大造林という政策で天然林が伐採され、有用とされるスギやヒノキを植林することが行われました。こうして雑木や広葉樹が少なくなったことで、動物たちの食べ物がなくなってきたといわれています。そして、たくさん植林がされたものの木材の需要が激減し、間伐や枝打ちなどの作業もされなくなり、新たな森林荒廃が進んだそうです。人間が、いろいろなことのつながりを考える事なく、目の前の自分の都合ばかりを考えてしまった結果かも知れません。

鹿や猿も食べるものがなくては、たまったものではありません。危険を冒しても人間の近くに来るしかないのでしょう。
自然の絶妙なバランスを保ちながら、そのなかで人が暮らしてゆくこと、自然の中で暮らさせていただいていることから発想した方が良さそうです。自然が先にあって、その後に人間がついて行く。謙虚な姿勢を忘れないようにしたいものです。ただし、自然は美しかったり優しかったりするだけではないので、その点も含めて長いスパンで考えられればと思います。

中秋の名月

2013/09/24

放生会は旧暦の8月15日に行われます。旧暦8月15日といえば、中秋の名月です。今年は9月19日、とても良いお天気に恵まれ、お月見日和でした。各メディアでも今年は晴れてきれいなお月様を見る事ができると報じていました。昨年は台風の接近で荒れ模様だったそうです。そんな報道の中で、「中秋の名月が満月になるのは次は8年後」と言われていました。一昨年、昨年、今年と3年連続で満月なのだそうですが、次に中秋の名月が満月になるのは8年後なのだそうです。中秋の名月というより、旧暦の15日は満月だと思い込んでいた私の頭の中は疑問符だらけになってしまいました。ひとつ疑問に思うと、わからないことばかりです。なぜ中秋の名月なのでしょうか。それは、旧暦では秋は7月8月9月の3カ月で8月はそのまん中の月、そして15日はそのまん中の日なので、秋のまん中だから中秋なのだそうです。15日が必ずしも満月にはならない理由には、旧暦一日(ついたち)の決め方、朔(新月)から望(満月)までの日数、朔と望までの実際の日数などがあるそうです。これらの原因が作用し合って実際の満月は旧暦15日よりも遅くなることの方が多く、満月になることのほうが少ないそうです。

せっかくだから、ススキを飾り、お団子を供えてお月見をしようと思い、お菓子屋さんに行ったら、月見だんごは売り切れていました。お月見する人が多かったようです。ほかのお菓子をお供えすることにしました。

雲一つない夜空に眩しく輝く月を眺めていたら、月の光がからだを通り抜けてゆくような気になりました。清らかな光で、心を清めていただけると良いのですが・・・

そう思って月を眺めていたら、心がゆったりしてきました。いつも、目の前のことばかりを狭い視野や短い時間のスパンで見ているのではなく、大きな視野とさまざまな視点、そして過去から未来までの長い時間のスパンで見る事を忘れないようにしないといけない。夜空の月がそんなことを教えてくれたように思います。

放生会

2013/09/23

9月19日は旧暦の8月15日でした。この日にはお寺の行事として放生会が行われ、5歳児たちが参加しました。放生会は殺生を戒め、捕獲された魚や鳥を池や野山に放し、放生の功徳を積むという意味があります。天台大師智顗が猟師が雑魚を捨てている様子を憐れみ、魚を買い取って放生池に放したことに始まったといわれています。

園児たちには、いろいろな生き物がいて、気がつきにくいけれどもみんな繋がっているから、いろいろな生き物がいることで私たちも生きる事ができること。そして、私たちはいろいろないのちをいただいて生きさせてもらっているから、いろいろないのちにありがとうという思いを込めて、魚を放すのだ。と説明しました。

法要が行われている間、子どもたちは静かに参列したあと放生池にいる魚たちに餌をあげに行きました。本来なら魚を放すところですが、池の中にはたくさんの魚がいて、これ以上数が増えるとかえって魚にとって良くないだろうという思いから、代わりに今いる魚たちに餌をあげることで、放生に代えています。

子どもたちは池の近くまで行って魚たちに餌をあげていました。このときは麩を餌がわりに使いましたが、麩をそのまま池に投げ入れる子もいました。そうすると大きな鯉は大きな口を開けて、麩を丸ごと口に入れることができるのですが、小さな鯉や金魚は、何匹かが一つの麩に集まってみんなで食べていました。その様子をじっと見ていた女の子が、しゃがみ込んだと思ったら、麩を小さく割って水面にパラパラとまいていました。きっとこの子は、小さな魚が餌を食べられないのを見て、かわいそうだと思い、小さな魚も食べられるように麩を小さくしてあげていたのだと思います。その優しさが伝わってきて、心が温かくなりました。

声明 4

2013/09/22

「良いあんばい」と言うときの「あんばい」は声明の塩梅(えんばい)と関係があるとわれていると書きました。「ろれつがまわらない」というのは、呂律がまわらないと書きます。呂の旋法か律の旋法かはっきりしない、音階が合わないという意味が転じて、ことばがはっきりしないという意味で使われるようになったそうです。雅楽でも呂律が用いられるので、雅楽からという説もあります。

声明では、ある曲をどれくらいの早さで唱えるかということは明確には示されていませんが、拍子があり、リズミカルに唱える曲も存在します。「序曲」というのが、無拍子の旋律による曲で、拍のない自由なリズムで唱える曲です。一つの旋律の長さ(唱える早さ)は楽譜には示されていませんが、伝承として伝えられていることは、何度も述べてきました。他には「定曲」といわれる拍子を持つ曲もあります。経文の一文字を四拍で唱える「四分全拍子」や二拍で唱える「切声拍子」、他にも複雑な拍子構造を持つ曲もあります。1曲の中に無拍子の「序曲」の部分と拍子のある「定曲」の部分を兼ね備えた「倶曲」というものもあります。また、「破曲」といって「序曲」なので拍子はないのですが、曲の途中で拍子があるかのような部分が現れる曲もあります。

一つの旋律型の長さ(一つの旋律が使用する時間)やある曲をどれくらいの早さで唱えるかということについて楽譜に示されているわけでもないのに、いろいろな拍子があって、しかもそれをみんなで合わせて唱えられるのだろうか。という疑問が湧いてくるのではないかと思いますが、それがちゃんと唱えられるのです。毎回必ず同じ長さで唱えてはいないかもしれませんが、その曲としては合うのです。もちろん、ひとり一人が伝承を受けてそれをマスターしていることは当然ですが、メンバーが一緒にお稽古をすることは必要です。

全てのことを楽譜に表さなくても唱えることができる声明が伝承されてきたのも、察する文化をもつ日本の特徴なのでしょうか。そこまでは言えないにしても、「聞く」ことに重きを置いていることが、根底にあるように思います。

(これまで、述べてきた声明は、天台声明を指します。)

声明 3

2013/09/21

声明を唱えるためには音の高さの他にもいろいろな要素が必要です。音の動きを表す「旋律型」もそのひとつです。高低変化を伴う一連の音の連なりのパターンがいくつもあり、それらの旋律型に「スグ」「ユリ」「ソリ」といった名前がつけられています。例えば「スグ」という旋律型は、一つの音を直線的に引くことを表します。オルガンで一つの鍵盤を一定時間押さえ続けて出てくる音というイメージです。「ユリ」はゆれうごくことで、音の高低変化を小さくつける、音が小さく揺れるようなイメージです。「ソリ」は音が滑らかに高くなり低くなってまた高くなるというような音の動きをします。(音の動きをことばで表すのは難しいですね)このような旋律型がたくさんあって、それらを組み合わせることで、曲が構成されています。ただ、ひとつの旋律型に明確に定められた長さがあるわけではなく、その時の唱え方によって長さが変わるので、1曲の長さも微妙に異なることがあります。しかし、複数の人が同じ旋律を唱えるので、ひとり一人唱える長さ(早さ)が異なれば、バラバラになってしまいますが、実際にはそうはなりません。それは、もともと一つの旋律の長さが伝承として伝えられているという基礎がある上に、その時々に他の人の声を聞いて微妙に調整しているからだと思います。

前にも書きましたが、もともと声明には楽譜はなく、口伝で教えられた通りに唱えるのですが、備忘のためであったり、わかりやすく表現するために「博士(はかせ)」という一種の記譜法が用いられています。現在使われているのは鎌倉時代初期に考えられた目安博士と呼ばれるものの改良型で、音の高さと旋律型が表されています。

ところが、ここには表されない要素がたくさんあります。どれくらいの早さで唱えるのかということもそうですし、塩梅(えんばい)という博士には表されない音もあります。例えば「スグ」という旋律型は1つの音を直線的に引くのですが、オルガンの鍵盤を押さえるように一つの音だけを出すのではなく、少し低い音から出し初めて本来出すべき音まで上がる前倚音や、旋律型を唱え終わるときには終わりの部分を少し高い音にして終わる、後倚音などが付加されます。この塩梅があることで旋律型に深みや味が出るのです。

ちょうど良い加減という意味で「良いあんばい」と言いますが、塩梅とは「あんばい」とも読み、塩と梅酢で調味すること。料理の味加減を調えること。物事のほどあい。かげん。身体の具合。などという意味があります。塩味や酸味がなければ料理は味気ないものになりますし、これらが強すぎると、味が台無しになります。塩梅はほどよく付加するのが良いのです。塩梅は博士には表されませんが、声明曲に重要な役割を果たしています。

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