2012年 4月

じぶん

2012/04/30

自分というのは、どうもよくわからない・・・

身体はとても複雑で、各部分がそれぞれの役割を果たしながら全体が調和しています。完璧なチームワークです。内なる自然とも、小さな宇宙ともいえるでしょう。そして、こころはどこにあってどうなっているのかよくわかりませんが、最近の研究では脳の働きが心の働きと深い関係がありそうなことがわかってきているようです。しかし本当に脳だけなのでしょうか?

「ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。」お釈迦さまのことばという形で記された最も古い原始仏典の一つ『法句経』(ダンマパダ』の最初に出てくることばです。全てのことは心によって作り出されているのです。心が認識するからこそ、それが存在するのです。ですから心をしっかりと制御できれば、楽にいられるのです。とはわかりながらも、ついつい心が暴走してしまうのです。心というのはとらえどころがないのです。
身体もよくわかるわけではない、こころもよくわからない。そんな自分って何なのでしょう。

そこまで深く考えないにしても、あなたが「今、あなたが一番やりたいことは何?(あなたが没頭できることは何)一番苦手なことは何?」とたずねられたことがありますが、すぐには答えられませんでした。普段あまり考えてもみなかったことだったので、しばらく考えてしまいました。毎日の仕事も毎日普通に行っているだけで、これは好き、これは嫌いとは考えていないませんでした。

好きなことは正直に好き、苦手なことは正直に苦手と言えないというか、それを言うことは単なるわがままで、自分のやりたいことしかしない。嫌なことは避けて通るずるい人というイメージがついているのかもしれません。
それは、号令で一斉に動く均質な労働力を整えるための教育を受け、どこか人と違うことをしてはいけないという価値観が染みついているのか、自分はこれが好き、あれは苦手と自分の想いを伝えることをしてこなかった。自分の本心、真心のことばに耳を傾け、声にすることを忘れてしまっているのかもしれません。

自分

2012/04/29

自分って何でしょう?自分のことってわかっているようで、わからないのではないでしょうか。

自分は何からできているのでしょうか。
まずは「からだ」でしょうか。足がかゆい、手が痛い、お腹がすいた等の感覚を感じます。頭の先から足の先まで、様々な器官がそれぞれの役割を果たして私たちの命を繋いでくれています。人の身体はとても微妙なバランスの上に成り立っているそうです。例えば肝臓はとても精密強大な化学工場だといわれます。一つの臓器をとってみても、すごい働きをしているのです。また他の臓器と連携して、とても複雑かつ微妙なバランスの上に成り立っているのです。健康な人は身体の各部分がバランスをうまく保って連携していることが毎日続いているので、それが当たり前になっていますが、本当は有ることが難い、ありがたいことなんですね。しかし、私たちは普段あまり意識することも有りませんし、科学の発達でいろいろなことがわかっては来ていますが、未知の部分も多いのです。
もしかしたら自分のものだと思っている身体は、自分のものではなく借り物かもしれません。

そして、「こころ」です。心の働きはますます複雑です。哲学や心理学、様々な宗教が古くから心の問題を扱っています。
近年は脳科学(神経科学)が発達し、心の働きと脳の働きを結びつけて解釈することが多くなりました。しかし、心の全貌が理解できるようになったわけではありません。

自分という存在は、心と体から成り立っているとするのが一般的だと思うのですが、私は勝手にもう一つの概念として「まこごろ(真心)」とでも呼べるものがあるような気がします。本当の自分というのか、全てと共通する真理というのでしょうか。よくわかりませんが・・・もしかしたら、心というカテゴリーの中に含まれるのかもしれません。

こうやって見てくると、実は、自分のことはよくわからないのだと思います。

初夏の一日

2012/04/28

朝からとても良いお天気になりました。真っ青な空に若いもみじの薄緑色が映えて、何ともいえない清々しさです。私のとても好きな景色の一つです。朝は気温が低く肌寒いくらいでしたが、強い日差しと共に気温がぐんぐん上がり、10時頃には鞍馬でも汗ばむほどでした。

     たのしいねー!

朝から園庭で遊ぶ子どもたち。仕事はたくさんたまっているのですが、あまりにも天気が良く子どもたちが何をして遊んでいるのかも気になったので園庭に出てみました。砂場で炊き込みごはんを作っている子、少し低くなった築山の上から三輪車に乗って下ることを楽しんでいる子。ぼーっと見ていたら、女の子がひとり、登り棒に登りたいから手伝ってと呼びに来ました。足で身体を支えることがうまくいかないようだったので、少し手伝ってあげるとすぐにできるようになりました。足洗い場の近くでは泥遊びがはじまっています。鉄棒ができるようになったから見て!と得意げに見せてくれる子もいます。日差しはとても強いのですが、さわやかな風が吹き抜けてゆきます。少し気分がめいり気味なときでも、この青空の下で子どもたちの遊ぶ姿を見ていたら、思わず笑顔がこぼれます。

 ウォータースライダーに早変わり

ほっとして、部屋で事務仕事をしていたのですが、なんだか楽しそうな園庭が気になり事務も手につかないので、もう一度園庭に出てみると、30分のうちに一気に夏が来たのかと思う光景になっていました。ほとんどの子どもたちがずぶ濡れになって水遊びに興じているのです。水をためたたらいに入ってすっかりお風呂気分の子、園庭の滑り台は早くもウォータースライダーに早変わり、パンツ一枚になって水しぶきを上げて遊んでいます。水は結構冷たいはずですが、子どもたちはお構いなし、とっても楽しそうでした。

  ピクニック気分でお昼ごはん

思いっきり遊んでお腹がすいたけれど、この楽しさを余韻まで味わおうということからか、お昼ごはんも園庭で食べることにしたようでした。「いただきます」の声が聞こえたので、楽しそうに食べているかなと思って見に行ってみました。

2歳児の女の子たちが集まって食べているテーブルのそばを通りかかったときに、女の子が隣の子のシチューをスプーンですくって自分の口に運んでいました。「え?何してるの」と思いましたが、すぐには声をかけずにしばらく見ていると、また隣の子の器からシチューをすくっています。今度こそ声をかけようかと思いましたが、次の瞬間、隣の子の口へスプーンを運んでいました。どうやら、少し食べにくかった隣の子を手伝ってあげていたようです。では、さっきの一口目を自分の口に運んだのは何だろうと、次の疑問が湧いてきました。もしかして、熱くないか確かめていたのかもしれません。そういえば自分の口に運んだ一口目はスプーンの先にほんの少しシチューがのっていただけでした。その子に聞いたたわけではないのですが、きっとそうだと思います。思わずほほえんでしまいました。

反省

2012/04/27

仲間がいます。志を一にし、同じ道を歩んでいる同士ともいえる人がいます。久しぶりに訪ねて来てくれたので、ゆっくりと時間をかけて話をしました。2日にわたって12時間くらいは話したと思います。

いろいろなことを話しているうちに、困っていることの話になり、いろいろなことが私が目指している形になかなかなってこないことに悩んでいる。という話しをしたら、しばらく私の話を聞いてから、「先生、子どもは主体的に活動することが大切で、大人が何かをさせたりしない方がいいんですね。なのに、先生はにそれをやらせようとしていませんか?」と訪ねられました。

頭の中が真っ白になりました。後頭部をガツンとやられた感じです。あれほど、やらないようにと言っていたことを自分がやろうとしていた。やってしまっていたのです。「きっと大丈夫!」と信じるはずが全くできていなかったというより、正反対の方に進んでいたのです。猛省です。恥ずかしいくらいです。

最近忙しすぎたのか、心の余裕がなくなり、いっぱいいっぱいになっていた自分。そうなっていることをわかってはいたのですが、なかなかそこから気持ちを切り替えることができない自分がいました。心のコントロールが必要だとはわかっていても、心が流されるのを止められなくなっていたのでしょうね。

私の場合そうなると、ついつい焦りが出てしまいます。きっと周りの人たちを苦しめていたにちがいありません。

迷惑をかけた方には、申し訳ないことをしてしまいました。ごめんなさい。
そして、ここでアドバイスを頂かなかったら、もっと暴走して大変なことになっていたかもしれません、引き戻してくださってありがとうございました。

こ・と・ば

2012/04/26

いつも何気なく使っていることばですが、私たちはことばを使って考えたり、様々なことを理解しています。もちろんことばを超えた直感というのも大切なことです。直感なんて当てにならない、非科学的だと言う理由だけで切り捨てない方が良いと思います。直感は、案外自分自身の素直な心でものをとらえているときの感覚だと思うので、一番正しかったりすることがあります。

ところで、ことばで理解するということは、世界を「ことば」というナイフで切り取ってきて目に見えるようにするのだという感覚が私にはあります。混沌としているところからすくい上げて、これが○○ですと名前をつけるという感じです。切り分けるから理解できるのだと思います。と同時に切り分けるから世界というのか宇宙というのか、その全体をことばで表すことはできないのだと思います。言語道断ということばがあります。一般的には「とんでもないこと」「もってのほか」という意味で使われることが多いのですが、「真理はことばでは説明できないものだ」という意味があります。ことばでは真理の一面しか表せないということです。切り取って取り出すので、部分になってしまわざるをえないのです。

そして、切り取り方がその人によって少しずつ違うので、ことばで説明するのは難しいのかもしれません。しかし、難しいからと言ってことばを使わなければ、もっと伝わらなくなります。せめて真心を込めて丁寧に話すことが必要です。また、百聞は一見にしかずではありませんが、見せることも大切だと思います。百のことばで説明するより、自分がやってみせることで、容易に伝わることもあります。特に子どもはやってみせるが一番学びやすいと思います。

ソメイヨシノはすっかり散りました

八重桜は満開です

ことば

2012/04/25

ことばって不思議だと思います。普段何気なく使っていますが、ことばはどこから生まれてくるのでしょう。脳の中の言語を司る部分だということなのでしょうけれど、どういう仕組みで、どうなって生まれてくるのか不思議です。私が知らないだけで、研究は進んでいるのだとは思います。

あたりまえのことなのでしょうが、ものごとを理解したり、思考を巡らせるときは、ことばを使います。ですから、理解や思考のツールとしてのことばに、どんなことばを使うかによって、理解や思考が異なってくると思います。例えば、英語をある程度マスターしてくると、英語で考えるようになります。「英語で夢を見るようになったら、英語をマスターしたといえる」ということを聞いたことがありますが、それも似たことなのかもしれません。そうやって英語ということばを使って発想や思考をすると、思考が英語的になるのでしょうか。使うツールが違えば、理解の仕方、思考方法、表し方が違ってくるかもしれませんし、根本的なところは、生まれ育った文化によるのかもしれません。その両方が作用し合うのでしょうか。

英語と日本語というように明らかに言語が違う場合は、違いがわかりやすいのですが、昨日のブログにも書いたように、同じ日本語を使っていても、一つのことばに対する意味の範囲が人によって微妙に異なるので、ことばによる相互理解をより深めようと思えば、自分の意味するところを相手にわかりやすく、丁寧に伝える必要があります。ついつい自分の想いをわかって欲しいという気持ちが強くて、説得しようとしたり、わからせようとすると、かえって理解してもらえないことが起こります。真心を持って伝える事が大切なのだと思います。

コミュニケーション 2

2012/04/24

コミュニケーションは、伝えること。伝えるために音声や表情、身振り手振り、そして、文字や話しことばなどを使います。対面して話し合っている場合、伝える人の表情や声色、身振り手振りから様々なことが伝わってきます。自分も無意識のうちしてしまっている表情や仕草が相手にいろいろな形で伝わります。意図しない受け止め方をされているときもあるでしょう。様々な伝達手段の中でもやはり、ことばは、多くのことを伝えているのに向いているのではないかと思います。

その一方で、誤解も生まれます。その原因の一つは昨日のブログで書いたように、人によって一つのことばに対して持っている「意味」の範囲がやイメージが微妙に異なることがあります。
例えば、「ゆっくり」ということを「のろい」と言ってしまう人がいたとしましょう、その人の中では「ゆっくり」=「のろい」なのですが、聞いた人の中で、「のろい」ということばがあまり良いイメージでなければ、聞いた人は批判されているように受け取ってしまうこともあります。そこですぐに「のろいといわれると批判されたみたいで、嫌な気分になってしまうからほかのことばを使ってほしい」と感情を乗せることなく伝えることができると良いのかもしれません。

意味の範囲の違いの他にも、伝える人の話し方、声の高さや口調などにより、伝わり方が全く異なることがあります。例えば、ものごとをはっきりと言う人がいるとします。とてもわかりやすくて良いのですが、誰かが意見を述べたときに、その意見に対して、違う意見をはっきり言う。もちろんそのこと自体は良いのですが、口調や言い方、信頼関係にもより、最初に意見を言った人が否定されていると感じてしまうかもしれません。もしそう感じたら、「今の言い方は少しきつく感じたなー!」「言いたいことはわかるんだけど、もう少し違う言い方をしてくれるとうれしい。」などと穏やかに本音を伝えられると良いと思います。そうすれば、今まで気付くことがなかった、話し方の特徴を自分から気付くことができるかもしれません。

そうすれば、何の気なしに本音でコミュニケーションをとることができるのではないでしょうか。

コミュニケーション

2012/04/23

コミニュケーションが大切さがよく言われます。広辞苑によるとコミュニケーションとは「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする。」とあります。誰かの気持ちや考えを知ること、自分の想いや意見を伝えることです。

対面して話しをするというコミュニケーションに限っても、伝達は言語だけによるものではありません。そういうと、「7%-38%-55%のルール」と言って、何かを伝えるのに重要な役割を果たすのは、言語7%、声のトーンなど聴覚によるもの38%、相手の表情など視覚によるもの55%というアメリカの心理学者アルバート・メラビアンの説が取り上げられることが多いようです。しかし、この実験結果は特殊な条件下でのものであって、いつでもどんな状況下でもあてはまるものではないようです。

ただ、ことばというのは伝わらないことが多いものです。その理由の一つは人によってことばの意味の範囲が微妙に違うということです。私よりずっとたくさんごはんを食べる職員がいます。私にとっての「大盛り」とその職員にとっての「大盛り」はかなり量が違います。大きい、小さい、多い、少ないなど相対的な概念でなくても、人によって微妙に意味の範囲が違ったり、単語に対して持っているイメージが異なります。ですから、十分注意しないと誤解を招くことが多いのです。

また、話すときの口調や声のトーンなどによっても、全く違うメッセージが伝わってしまうこともあります。例えば、ものごとを断定的に言った場合、言った本人には全くそんな気がなくても「他の意見は受け付けない!」というメッセージが伝わってしまうことがあります。もちろん聞く人にもよるのですが・・・

言った人は全くそんな意図はないのに、勘違いして「他の意見は受け付けない」というメッセージを受け取ってしまった人は、嫌な気分になってしまうこともあります。そのまま相手の真意を確かめないでいると、言った人のことを「あの人は人の意見を聞かない人だ。」という思い込みが、聞いた人の心の中で膨らんでゆきます。そうすると、聞いた人は、言った人の気に入らないと思っていたところばかりが思い起こされ、「あのひとはイヤな人だ。」と心の中で勝手に思い込んでしまうことがあります。

誰かのことばに疑問を感じたり、好ましくないニュアンスで受け取ってしまった場合は、怒りなどの感情が生まれる前に、生まれたとしても冷静に、「今のことばはどういう意味?少しきつく聞こえたんだけど・・・」などとと問い返せると良いと思います。あくまでも感情を使わず冷静にです。たずねてみたら、相手は全くそんなつもりはなかったと言うことがわかって、誤解が解けるかもしれません。すれ違いや勘違いが小さいうちに修復しておいた方が、良いと思います。

チームのメンバーがお互いにそう言い合える関係でいると、みんなが楽しくハッピーでいられるのではないでしょうか。

保護者会

2012/04/22

昨夜は、雨はそれほどでもなかったのですが、かなり強い風が吹いていました。
春暁の「夜来風雨声 花落知多少」ではありませんが、桜の花もずいぶん散ってしまったのだろうなーと思っていました。ところが、朝見てみると、しっかりと枝に残っている花もたくさんありました。まだまだ花の役目が終わっていないのかもしれません。役目が終われば風が吹かなくても自然と落ちるものの、その役目が残っている間は少々の風には負けないで頑張っているのかもしれません。強風に耐えて自分のミッションを遂げようとしているようで、頼もしく思うと同時にいとおしく思えました。自然はよくできているものです。

昨日は、今年度初めての保護者会の集まりを行いました。当園は保護者会の組織はありません。組織を作る良さもあるのですが、組織のための組織になってしまってはつまらないので、今はみんながゆるめにつながっている感じで、できる人ができるときにできることを園のためにしてくださったり、園がお手伝いを募ったときには都合のつく人が集まってくださったり、子どもをまん中にみんなでつながり、みんなで楽しめるような形で協力し合っています。ただ、年に何度かは園に集まっていただいて話をしています。今年度第1回目の昨日は、昨年度から変わったことや、園が大切にしてゆきたいことを伝えました。

当園の目指す子ども像に「自分の想いを伝えることができる子」「相手を受けとめることができる子」というのがあります。しかし、子どもがそうなるためには、まず、大人が実践することだと思います。ですから、まずは職員が、職員同士でそれを実践してゆくことを重点的に取り組みたいと説明しました。保護者の皆様ともそういう心の距離が近い関係でいられることを願っているとも話しをさせていただきました。
想いばかりが先走って、わかりにくい話だったと思うのですが、皆さん真剣なまなざしをこちらにむけて聞いてくださっていました。

保護者の皆様からいただくまなざしに包まれて、もっともっと真摯に、真心を込めて保育にあたらなくては!と背筋がピンと伸びました。

花吹雪

2012/04/21

ようやく咲いた桜が早くも散り始めました。風にひらひらと舞い散る桜の花びらも美しいものです。まだまだ全部散ってしまったわけではありませんが、枝の先には早くも緑色の葉が顔をのぞかせていました。天気予報は日曜日にかけて風雨が強まるという予報だったので、桜はかなり散ってしまうのでしょう。いつまでも美しく咲いているはずはないのですが、少し残念です。

全てのものは変化してゆくので「そんなもの」と受けとめられれば良いのですが、いつまでも美しく咲いていて欲しいという想いが強くなってしまうと、散ってしまうものだという現実との違いに苦しむことになります。

桜の花くらいであれば、そんなに苦しむことはないのでしょうけれど、もっと大切にしているものであれば、失いたくないという気持ちが強いので、苦しみも多くなります。ものだけではありません。いつまでも若い姿でいたい、人によく思われたいという気持ちもそうです。自分の中で現実を受けとめることができると少しは楽になれるのかもしれませんね。

しかし、心は弱いもので、すぐに自分のものにしたがったり、自分の考えにこだわって変わりたくなかったり・・・苦しみのネタは尽きません。こうした苦しみから解き放たれて、すこしでも乱されない安らかな心でいられるようになりたいものです。

風に舞う桜の花びらを見ていたら、そんなことを考えてしまいました。

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