2011年 9月

異文化交流

2011/09/30

スリランカの先生の研修2日目は実際の保育を見学していただきました。朝、園の玄関前でチャンダシリ師と話をしていると、子どもたちを送ってこられた保護者が、口々に「昨日はありがとうございました。」といって通っていかれます。子どもたちが家でスリランカ舞踊のことを話していたようです。

中には、子どもがスリランカ舞踊を習いたがっていたと話される保護者もいらっしゃり、子どもたちにとって印象深いものになったことをうれしく思いました。同時に、それなら少しだけでも教えてもらえれば、子どもたちの興味関心もより深まるのではないかと思い、基本的な動作をいくつか子どもたちに教えていただくようチャンダシリ師にお願いすると、快諾していただきました。

スリランカ舞踊を体験する子どもたち

朝のお参りの後のお集まりの時間に、子どもも職員もスリランカの皆様もみんなでもう一度自己紹介をしましてからスリランカの皆さんと子どもたちが向かい合って、基本的な動作を教えていただきました。スリランカ舞踊の練習をする前には必ず行うという、神仏に祈りを捧げる動作からはじまり、数種の動きを教えていただきました。子どもたちは動作をひとつ教えてもらうたびに少しずつ前に行って、最初2メートルくらいあったスリランカの皆様との距離が、終わる頃には握手ができるくらいまで近づいていました。子どもたちは楽しくて知らず知らずのうちに前に出て行ったのでしょうし、それは、心の距離が縮まっていったことを表しているのだと感じました。ただ見せてもらうだけではなく、一緒にやってみるということでより深く交流ができたと思います。それにしても子どもの吸収力はすごいものです。少し習っただけで美しく動いている子が何人かいました。

スリランカ舞踊を通してより深く交流ができたと思います。

こんなふうに大人は(私は?)難しくいいますが、子どもにとっては異文化も何もなく、ごく自然に普通に心を開いて心で受け止めているだけなのでしょう。大人は頭で考え、「異文化」などと分けてみたり、固定概念で物事をとらえがちです。言い換えれば子どもは心を開いて「同じ」を感じ取り、おとなは頭を使って「違い」をとらえるのかもしれません。

固定概念にとらわれ頭の先で「分けて」考えてず、心を開きとらわれない心で「同じ」を見つめられるようになりたいと思います。

保育観

2011/09/29

今年、スリランカから来日され、わたしたちにスリランカ舞踊を披露してくださった方々のほとんどは幼稚園の先生です。皆さんスリランカ日本教育文化センター(SNECC)の里親プログラムや奨学金制度で勉強して学校を卒業し、幼稚園で保育にあたっていらっしゃいます。ですから、今回の来日では訪問先各地の幼稚園での研修がたくさん組み込まれていました。当園にも保育見学などを通して研修をさせてほしいとの依頼があり、受け入れることにしました。

鞍馬でスリランカ舞踊を披露していただく機会は今まで何度もありましたが「保育」で繋がることはなかったので、どのように受け入れるかいろいろと考え、初日の午前中はスリランカ舞踊の披露、午後からは鞍馬山保育園の概要説明と園舎の見学。2日目は実際に子どもたちと活動していただくことにしました。

まず最初に鞍馬山保育園では何を目指して保育しているかを知っていただきたいと思い、

    • 子どもが、自らの意思で自ら行動することを大切にしていること。
    • そのために子どもが自ら環境に関わることができるように配慮していること。
    • 子どもがお互いの違いをわかりあい、認め合い、みんなが楽しく生活できるよう考え行動するのを大切にしていること。
    • なぜなら、将来子どもたちが大人になって社会を支えるときには、みんながお互いに認め合い、それぞれが自分を活かして得意なことで活躍することがみんなのよろこびに繋がる。そんな社会を築いてほしいと思っているからだということ。

などです。

実は、説明がどのくらい伝わるのか少し心配していました。ことばの壁ももちろんですが、スリランカで価値があるとされているところがわたしたちとは異なっているのではないかと想像していたからです。例えば、幼児期から知識をたくさん教え込むことが良いとされているとしたら、わたしたちの言うことはなかなかわかってもらえないのではないかといった心配です。ところが、当園の目指すところや理念を話すと、皆さんとてもよく理解していただいたようでした。とくに、SNECC事務局長のチャンダシリ師は「子どもが自ら育つことを大切にしたい」と考えていらっしゃるということがよくわかりました。1時間近くも話していましたが、私も保育観を共有できて、うれしく思いました。

その後、園舎を見学していただき、0歳1歳2歳の保育室、3歳4歳5歳の保育室をそれぞれの担当保育士が、「子どもたちが主体的に活動できるよう環境を工夫していること」「遊びが選択できる環境を用意していること」を実際の保育室で説明してくれました。細かなところまで配慮をしていて、私も知らないこともたくさんあって驚くとともに、保育士の工夫をもっと知っておく必要があると反省もしました。

見学を終えて、チャンダシリ師が「とても参考になった。今日の見学をヒントにわたしたち自身で工夫して、スリランカに適したことを考えてゆきたい。」とおっしゃっていたのが印象的でした。

チャンダシリ師の挨拶

スリランカ舞踊に見入る子どもたち

スリランカ日本教育文化センター

2011/09/28

9月26日子どもたちがスリランカ舞踊鑑賞会を行いました。ここ何年か秋に行っている行事です。東京スリランカフェスティバルに出演することを主な目的として来日されたスリランカ日本教育文化センター(SNECC)の関係者の皆様が、各地を訪問されるなかで京都にもいらしてくださっています。

SNECCは、社会的、経済的理由で充分な教育を受けることができないスリランカの子どもたちを援助するために日本で里親を募集して、里親の援助を得たスリランカの子どもたちが学校に通うことができるという仕組みを構築して活動を続けてこられました。日本の里親の皆様の善意とスリランカの子どもたち一人ひとりを結ぶ、まさに顔の見えるつながりを作るご縁結びを四半世紀にわたってこつこつと続けてこられたのです。そして、この教育里親奨学金制度を支えるために、今では全国に百十七カ所ものANECCの地域センターがあり、里子の募集や調査をはじめとした支援活動を続けていらっしゃいます。

SNECCの活動はこの教育里親奨学金制度だけにとどまらず、幼児教育開発として全国で十六の幼稚園を運営、医療サービスとして医療費の補助や健康診断の実施、介護訓練、伝染病予防活動、図書サービスでは、地域センターのうちの三十八カ所に図書室を開設、教育サービスとして、学校の授業の補習授業、日曜学校で仏教を学ぶ活動、職業訓練としてのコンピューター教室、そして伝統舞踊や音楽など芸術的な才能を伸ばす取り組み、自然観察プロジェクトでは、環境についての学びを深める活動、などに及んでおり、日々活動の幅を広げ、その内容を深められていらっしゃいます。そして、里子の日本研修旅行や音楽、伝統舞踊を学ぶ子どもたちが、日本で様々な文化活動や交流も行う機会も提供されています。今回のように鞍馬でも何度かスリランカの伝統舞踊を披露していただきました。これらのたくさんの活動を支えているのが、数十にも及ぶ基金です。様々な方の善意をひとつにまとめて大きな基金を作るのではなく、それぞれの基金にすることによって、皆様の善意がどのようなかたちでスリランカの子どもたちの役に立っているのか、実感できるようになっているのです。

日本の支援者の方々は、それぞれに得意分野を活かしてスリランカの子どもたちを支援していらっしゃいます。何人かのグループで幼稚園を建設された方々、医療の知識を活かしてSNECCの医療サービスをサポートしていらっしゃる方、いろいろな方がいらっしゃいます。それぞれが、それぞれのやり方で支援ができるような仕組みになっているのです。日本の人々が、「スリランカの子どもたちの支援」という目標に向かって、自分にできることを自分にできる方法で行なっていらっしゃる。いいかえれば、うまく役割を分担していらっしゃるということです。それをしっかりとマネジメントしていらっしゃるのが今回も来日されたSNECC事務局長のミーガハテンネ・チャンダシリ師です。今回も師をはじめダンサー3名、シンガー1名、通訳としてSNECCの事務局員1名の計6名がいらしてくださいました。

不思議

2011/09/27

ある朝歩いていると、桜の幹にとても小さいけれども輝くような朱色を見つけました。何だろうと思って近づいてみると、体調1センチから2センチの虫がしがみついています。おしりの部分はどっしりとしていて、黒っぽい色に細かな模様がついているのですが、それ以外の頭や足、胴体は美しい朱色をしています。

左:脱皮したての赤 右:普通の黒

しばらく見ていると近くに同じような虫がたくさんいるのに気づきました。仲間の虫たちにすぐに気づかなかったのは、他の虫の頭、足、胴体は黒かったからです。なぜ同じ姿をしている虫なのに一匹だけが美しい朱色をしているのだろうと不思議でした。朝日に照らされ、透明感のある何ともいえない美しい色です。なんの虫かもわからずその場を離れました。

2時間ほどして虫などに詳しい知り合いに会ったので、もう一度一緒に見に行ってみると、あの美しい朱色の虫はいませんでした。その代りほとんど黒に近い赤色のがいます。色が変化したのだと気づきました。

2時間ほどしたら色が濃くなっていました

知り合いにそういうと、これはヨコヅナサシガメという虫で、毛虫などの他の虫を捕まえて体液を吸って生活している。赤かったのは脱皮してすぐだったからだと教えてくれました。

知らないって、怖いですね。事実を知ってみると何でもないことだったりします。突然変異か?新種か?と大げさに考えていた自分が可笑しくなりました。

でも、朱色の美しさといい、2時間ほどで色が変わることといい、自然の営みの美しさと不思議さを思いました。

永続的で意義深いなにか

2011/09/26

人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めてゆくことには、どのような意義があるのでしょうか、自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。

わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと。人生に飽きて疲れたり、孤独さにさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活の中で苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけ出すことができると信じます。(『センス・オブ・ワンダー』新潮社P50)

人間も自然の一部であり、自然界のいろいろなものと繋がって生きているのです。今は、日常生活が自然から遠ざかってしまって、そのつながりを意識する機会が少なくなっています。一見何の役にも立たないように思える虫や、わたしたちを困らせるカビなども、あらゆる存在が見えないところで繋がっていて影響し合っているのです。もちろん空気や水もそうです。

自然には美しくやさしい、不思議さを与えてくれるだけではなく、荒々しい部分も多くありますし、わたしたちを困らせる部分もあります。だからこそ昔の人は様々な自然現象に畏敬の念を抱いていました。恵みを与えてくれもしますが、人間にはどうすることもできない猛威をふるうこともある。その両方を受け止めてきたのです。

見えない部分に思いをはせること。見える世界も見えない世界も含め、何が良いとか悪いではなく、良いことも悪いこともどちらでもないことも全体としてとらえることができると、そこに真理というか真実というか「永続的で意義深いなにか」を感じることができるのではないでしょうか。

レイチェルカーソンは海洋生物学者として、科学的に自然を研究してきました。「作者が素材を選ぶのではなく、素材が作者を選ぶのです」というほど研究を尽くしたのです。科学的につきつめればつきつめるほど、ことばでは説明のつかない「永続的で意義深いなにか」にであったように思います。

センス・オブ・ワンダー

2011/09/25

子どもたちの世界はいつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けてほしいと頼むでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。(『センス・オブ・ワンダー』新潮社P23)

 子どもたちの好奇心、探求心がいきいきと発揮される最良の方法のひとつは、自然の中で過ごすことです。子どもたちの感性に響くものやことがたくさんあって、子どもたちはそういったものを発見する天才です。背が低いからでしょうか、地面の上の不思議なものやおもしろいことをすぐに見つけます。そのときにその場で、そのよろこびや感激、不思議さを子どもたちといっしょに感じ、「すごいねー!」と一緒に感動する人が側にいることで、子どもたちがもともと持っている「センス・オブ・ワンダー」を鈍らせることは少なくなるのでしょうね。

現代の都市空間では、自然とは全く関係のないところで、きわめて快適な生活ができてしまいます。花の香りや鳥のさえずり、まとわりつくような湿度、冴え渡る月光、吹きすさぶ寒風や雪の美しさを感じたり意識しなくても普通に生活することができます。逆に蒸し暑さや凍てつくような寒さを感じないからこそ快適なのかもしれませんが…

いわば、自然の巡りを感じたり自然の営みから切り離されて生きていることが多いのです。このことが、様々な現代人のストレスの原因になっているように思います。ときには「自然という力の源泉」に近づき、自然の巡りを肌で感じ、人間も自然の一部である感覚を取り戻すことが必要なのではないでしょうか。

近代文明の発達とともに、自然を支配し、自然を思うままにできると過信してきた大人は、「センス・オブ・ワンダー」を鈍らせたか、なくしてしまったのでしょう。そのために、全てをわかったつもりになって自分たちが頂点に立っているような錯覚にとらわれているのではないでしょうか。その幻想の美酒に酔ってしまい、揺すられても水を浴びせられても、なかなか目が覚めない状態に陥ってしまっていないでしょうか。

自分自身の生活を振り返ることから、今一番大切にしなくてはならないものはなにかをもう一度見つめ直してみる必要があると思います。

土壌を耕す

2011/09/24

レイチェルカーソンの『センス・オブ・ワンダー』にこんなことばがあります。

私は、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭を悩ませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要でないと固く信じています。子どもたちが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒や豊かな感受性は、この種子を育む肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。(『センス・オブ・ワンダー』新潮社P24)

ここに大切にしなくてはいけないことがあると思います。豊かな実りのためには、まずはしっかりとした土壌を作ることです。時期が来ていないのに慌てて種をまいても、無理に早く育てようとしても、作物はかえって育たなくなったり、余計なことをすればするほど、弱ってしまったりするものです。

子どもが自ら、何かに取り組もうとする力をしっかり養えば、子どもは自分に必要なことを自ら学んでゆきます。では、その力はどこから来るのでしょう。ひとつは、情緒が安定していることです。お互いの信頼関係の中で認められ、すべて受け止めてもらえる「安心基地」としてのお母さんやお父さん、保育士がいることで安心でき安定できます。失敗したり傷ついたりしたときに、無条件で受け止めてもらえるところがあってこそ、外の世界に向けて飛び出してゆけるのです。どこへいっても指示や命令ばかりで、自分をまるごと受け止めてもらえるところがなければ安心安定はできません。

もう一つは好奇心、探究心です。もともと子どもたちは生まれながらにして探究心をいっぱい持っています。その探究心を発揮して、いろいろなことに興味を持つことが大切です。子どもは必要ではない脳の機能を刈り込み、削ってゆくことで発達することは前にもここで取り上げました。だからせっかく生まれながらにして持っている好奇心探究心を子どもが削ってしまわないようにするのが大人の役割です。

そして、この好奇心や探究心とともにあるのが、感受性です。いくら美しいことに出会っても、おもしろそうなことがあっても、それに気づかなければただ通り過ぎてしまうだけです。

これは教えることはできません。だれかが何かを「美しいな」と感じたり、「すごいな」と感動し、「おもしろい」と興味を持ち、「楽しい」と取り組んでいいる場に居合わせる、皆で一緒に経験し、感動し、楽しむことが大切なのです。

乳幼児期にはこの部分がしっかりと育つことこそが大切です。なぜなら、自ら「美しいな」「すごいな」「なぜだろう」と心を動かされ、「さらに知りたい」「もっとわかりたい」と思って取り組んだことこそ本物の知識になるからです。

大人は知識だけを振り回して、すぐに教えよう、何かをさせようとしがちですが、大人と子どもが一緒に、自ら行い感じる。そんな実践を積み重ね、そこから共に感じ取ることこそが本物になるのでしょうね。

決して向かい合って教える(知識を伝える)のではなく、一緒に同じ対象同じ方向を見つめて、体験を共にしてゆきたいものです。

きらきら

2011/09/23

一気に秋の空気が流れ込んできて、ひんやりと肌寒くなったある朝、少し高くなったように感じられる空に、刷毛で掃いたような雲が浮かんでいます。

ふと、窓の外に目をやると、すぐ側にある樫の木がキラキラッ!キラキラッ!と輝いて、まるでイルミネーションで着飾ったクリスマスツリーのようです。近づいてようく見てみると、葉っぱ一枚一枚の先に夜露のしずくがついてその一つ一つが、昇ったばかりの日の光を受けて光っているのです。そこへひときわ涼しい風がサッとやってきて葉を揺らすと、それぞれのしずくが瞬くように輝きます。その美しさに思わずカメラを構えてしまいました。でも写真でその空気感を表現するのはむずかしいものです。人間の目ってすごいですね。目だけではなく他の感覚も同時に使っているからかもしれません。

向かいの山の杉の木の梢の輪郭がが朝の光にくっきりと浮かび上がり、何気ない日常の風景がとても美しかったので、しばらく見とれてしまいました。

葉っぱの先のしずくは相変わらず瞬いています。じっと見ていると、しずくの中に虹が入っているかのように七色に輝きます。しずくが揺れるので、太陽の光の屈折率が変化するのでしょう、。青っぽく見えたり赤っぽく見えたり白く光ったりしています。

こんな美しさに接すると、疲れも、心に引っかかっていることもすべて溶けて、穏やかな気持ちになります。

 

「レイチェルカーソンの感性の森」

2011/09/22

先日、久しぶりに映画を見ました。映画館に行って映画を見るなんて何年ぶりでしょう。見たのは「レイチェルカーソンの感性の森」劇場は京都シネマです。

レイチェルカーソンは、海洋生物学者であり作家、その有名な著書『沈黙の春』において、世界で初めて農薬や殺虫剤による環境汚染の危険性を告発しました。これがきっかけとなって、アメリカではDDTの使用が禁止されるなど、大きな影響を与えました。

レイチェルカーソンの遺作となった『センスオブワンダー』を映画化したのがこの作品です。

センスオブワンダーのセンス(sense)は感覚や感じ、感性の意味。ワンダー(wonder)は驚異、驚く、不思議に思う等の意味です。「ぅわー! なにこれ !? すごい! なんで?」と感じられる、そう思えるセンスがあるという感じでしょうか。日本語訳の『センスオブワンダー』(レイチェルカーソン著 上遠恵子訳 新潮社)には「神秘さや不思議さに目をみはる感性」と訳されています。ちなみにワンダー(wonder)がたくさんある、(wonder)で満たされるのがワンダフル(wonderful)です。

61席の小さなシネマは平日の午前中にもかかわらず、半分以上の席が埋まっていました。映画が始まって最初に驚いたのは、「この映画は2本のインタビューから成っています。」と字幕に出てきたことです。「1時間のあいだ、ずっとインタビューシーンが続くの?最後まで見られるかな?」と思ってしまいました。確かに、レイチェルカーソン役のカイウラニ・リーが一人で話し続けるのですが、レイチェルカーソンが1964年に帰らぬ人となっていることを意識しなおさないと、レイチェルカーソン自身が出演していると思ってしまうほどです。それもそのはず、主演のカイウラニ・リーは、一人劇「センスオブワンダー」の脚本を自ら執筆し18年間にわたって世界中で演じ続けてきた女優さんです。

映画の前半は、メイン州の海岸にあるレイチェルカーソンが実際に過ごしたコテージで撮影され、周りの豊かな自然を織り交ぜた美しい映像と、その自然をレイチェルカーソンが愛でる様子が魅力的でした。また、亡くなる8ヶ月前、自宅で講演の準備をしながら話すレイチェルカーソンの少し疲れたような様子を描いた後半も印象的でした。『沈黙の春』を執筆したことによる賛否両論の渦に巻き込まれ、病と闘い、疲れ果てながらも自ら伝えたいことを伝え続けようとする姿は感動的で、勇気をもらいました。

お彼岸

2011/09/21

秋のお彼岸の入りとなりました。春分、秋分の日とその前後3日をあわせた7日間をお彼岸といい。彼岸会が行われ、お墓参りなどご先祖様の供養をするということが一般的です。

彼岸とは、悟りの世界を言います。生死を繰り返す迷いの世界である此岸、こちら側の岸に対して、向こう岸、つまり悟りの世界ということです。梵語のパーラミターの訳語で、正確には到彼岸と訳し、迷いの此岸から悟りの彼岸に到ることをいいます。つまり、日本独特の彼岸会は彼岸に到る法会という意味です。

彼岸の中日、春分の日や秋分の日には太陽が真東から昇って真西に沈むので、太陽が沈む真西、その先には阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土があり、悟りを開くことが容易な極楽浄土を彼岸とするなら、春分秋分の日の夕日は極楽浄土への道を指し示すと考えられるのです。この極楽浄土への往生を願うことに、彼岸会の起源があるとも言われています。

お彼岸については様々な説明があります。春分秋分の日は昼の長さと夜の長さが同じであり、昼にも夜にも偏らないことから、仏教で大切にする「中道」つまり両極端を離れることで得られる中正な道を表していると考えられた。また、春には種をまいたり苗を植えて五穀豊穣を祈り、秋には収穫に感謝するという農耕儀礼に関係している。などです。

鞍馬寺ではお彼岸には酬徳会(しゅうとくえ)というご先祖様に感謝を捧げる法要が修されます。酬徳とは徳に酬いるという意味で、ご先祖様の徳に酬いるということです。

私たちが、今ここにこうしているのはご先祖様がいらしたからこそです。そのご先祖様に感謝を捧げ、徳に酬いるためには、私たちは何をすれば良いのでしょう。その答えの一つは「私たち自身がよりよく生きる」ということです。「より良く、というけれど何が良い生き方なの。」と自問自答することも含めてです。みんなが幸せになるためには、みんなのいのちが輝くためには、何をすれば良いのかを考え実践すること。そのことが、ご先祖様の徳に酬いるということではないでしょうか。

お彼岸の期間を、もう一度自分自身、自分の心を見つめ直す期間にしたいと思います。

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