2013年 4月

理想像

2013/04/20

「自分がどんな人になりたいと思っていますか?」そう聞かれたら、皆さんはすぐに答えられますか。先日、ある会社の社長さんの話を聞いたときに、そんなことをおっしゃっていたので、自分に照らして考えてみたのですが、すぐに適切なことばが見つかりませんでした。

その方は「この人に会えて良かった」と思っていただける人になりたい。とおっしゃっていました。そんな人になれたらどんなにステキでしょう。会っただけで、明るくなれる、話しをすれば元気がもらえる、勇気づけられる。そんな人になれたらいいですね。その方が、具体的にそうおっしゃっていたわけではありませんが、「この人に会えて良かった。」から私が想像したのは、こんなイメージでした。

自分自身はどうかと言えば、まだまだというより、全くだと思います。理想の自分の姿をしっかりとイメージできないと、そこに近づくことはできません。理想の自分をイメージし、現実の自分をしっかりと認識し、そのギャップを埋めてゆく学びを増やす必要があるのでしょう。

当園の目指す子ども像は「自ら考え、判断し、行動できる子」「相手の気持ちを受けとめられる子」「自分の気持ちを伝えられる子」「感謝の心を持てる子」「ゆっくりと深くいのちを感じられる子」というものです。ちょっと抽象的すぎるかもしれません。特に最後のは意味がわかりにくいかもしれませんね。「誰かのステキなところ、その人にしかできないところをしっかりと感じ、見つめることができる」と言い換えると良いかもしれません。

子どもだけではなくて、ある意味、自分自身がこういう人でいたいと思います。なかなか近づけませんが、自分がそれを目指さずに、子どもにそうなってほしいというのは、おかしいなのではないでしょうか。

もう一度、原点に戻って、自分自身を見つめ、理想像をはっきりと見据え、前進してゆきたいものです。

目指すところ

2013/04/19

ある社長さんのお話を聞く機会がありました。仕事をする上で、生きてゆく上で大切なことをいくつか教えていただいたので、紹介します。

あるがまま
いつも100パーセント完璧にいろいろなことをしておきたいと思っていたら、体調を崩し、お医者様に診てもらったら不安神経症と言われた。原因は何かと尋ねたら、「性格や!」と言われたので、それなら治そうと思った。そんなとき、「あるがままで良い」というアドバイスをいただき、あるがままの自分を受けとめることから始めようと決心した。と話していらっしゃいました。
自分にも当てはまるところがたくさんあります。あるがままの自分でいるって簡単なようですが、私にとっては難しいことです。自分自身の心を見つめ続けるということなのでしょう。
また、性格を直すには毎日の癖を変えるしかないともおっしゃっていました。自分自身をちゃんと知った上で、自分の癖(毎日の習慣)を変えてゆく必要がありそうです。

全てのことは必要があって起こっている
良いことも、良くないと思われることもいろいろなことが起こるが、全ては何かの意味があり、自分に必要だからこを起こっている。自分が智慧をもっていれば、悪いことであれば半分にすることはできるし、良いことは倍にする事ができる。今起こっていることは、天から何をしなさいと言われているのだろう?と考えるようにしているとおっしゃっていました。
これこそが、悪いことを良いことに変える力なのではないかなと思いました。

自分自身が普段から思っていることと同じことを他の人から聞き、その人もそれに向かって努力していらっしゃることを知ると、勇気が湧いてきます。

関わり

2013/04/18

新しい年度がはじまって20日が過ぎようとしています。新入園児さんたちが一日も早く園に慣れることができるよう、先生方が努力してくれているので、新入園児はずいぶん園に慣れてきて、泣き声もほとんど聞こえなくなりました。

新メンバーを迎えて、子どもたちにもいろいろな姿が見られます。泣きじゃくる新入園児の頭をなでなでしてをそっと慰める1歳児、ついこの間まで赤ちゃんって感じだったのに急に大きくなったように思えます。

勝手のわからない新入園児さんに、懇切丁寧にいろいろなことを教えている姿もよく見かけます。

ある日、子どもたちが園庭で遊んでいました。私は外出しようと、園庭の入口の前を通ると、昨年度から園にきている1歳児と今年入園してきた2歳児(だったと思います)が2人で遊んでいました。ニコニコ笑いあいながら遊んでいるので、しばらく見ていたら、おもちゃの取り合いがはじまりました。もみ合った後、おもちゃを手にした新入園児さんが、そのおもちゃで相手の頭をこつん。たたかれた方は泣き出してしまいました。するとどこかから4歳児の女の子が現れ、泣いている子を慰めています。

どこかでその様子を見ていたのでしょう、5歳児の男の子がツカツカとやってきて、たたいた子に何か言っています。どうやらたたいてはダメだといっているようです。大きなお兄ちゃんに言われてびっくりしたのか、たたいた子も泣き出してしまいました。そしたら、別の4歳児の女の子がやってきて、泣き出した新入園児さんの手をつないであげていました。

こうやって書くと長いのですが、あっという間の出来事でした。2人のおもちゃの取り合いにいろいろな子が自ら関わって、慰めたり教えたり、その場その場でのそれぞれの役割を果たしているのだと思いました。

じりつ 2

2013/04/17

自立とは、全く依存しないことではありません。しがらみを切ることが自立だと勘違いして、まわりとのつながりをどんどん絶ってゆくと、誰にも依存していないように見えるかもしれないが、それは自立ではなく孤立です。そもそも、人間が自分ひとりだけの力で生きてゆけるはずがありません。いろいろなものやヒトに依存してというより、助け助けられることが必要なはずです。

小児科医 熊谷晋一郎氏はご自身が脳性麻痺のために車いすの生活をされています。インタビュー記事が東京都人権啓発センターのホームページにありました。

地震でエレベーターが止まり、逃げ遅れた体験からこんなことをおっしゃっています。一部引用します。

“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。

大変興味深く読ませていただきました。

当園の「子ども像」に、自分で考え、自分で決定し、自ら行動するというのがありますが、決して他とのつながりを切り捨てることを目指しているのではありません。子どもが、自分のできる事とできない事をちゃんとわかっていて、できる事は自分でするが、できない事は誰かに頼むことができるのが自立だと言われています。自立の前提には、自分のことをわかる自己認識が必要なのです。これは、子どもに限ったことではないと思います。

じりつ 1

2013/04/16

「じりつ」ということが言われます。じりつには「自立」「自律」があります。「自」はもともと正面から見た鼻の形で、自分自身を指すときに鼻を指さしたり、鼻を触ることは昔も同じだったようで、そこから、「みずから、おのれ」の意味になったそうです。「立」は手足を広げて立つ姿を現す「大」と立つ位置を表す「一」とが組み合わさっています。「律」は筆の意味で一律に交付するという意味をしめし、「のり、おきて、さだめ」の意味となったそうです。(常用字解より)

自立 他の助けや支援なしに自分の力でものごとをやってゆくこと
自律 自分の行為を主体的に規制すること。外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること。

と辞書にはあります。

自立って何でしょう?
河合隼雄氏は日本人は西洋から入ってきた自立という概念を、なんでも人に頼らず自分でおこなうこと、そのためにはしがらみを切り捨ててゆくことだと誤解してしまった。依存を否定することが自立になると誤解した。そしてそれをやっているうちに、繋がっているべき家族がバラバラになってしまい、自立するつもりが、孤立してしまった。
誰にも依存せずに、ひとり1人がバラバラになることが自立ではない。誰にどのように依存しているかをよくわかっていて、依存したことに感謝できる人が、自立しているということだとおっしゃっていました。(河合隼雄講話集)

ヒトは1人で生きてゆくようにはできていないようです。自立する部分と依存する部分があると言うことは、お互いを尊重しつつ助け合うということだと思います。

2013/04/15

        小麦

春は花の季節です。今年の春も桜を中心に花についてずいぶんお知らせしてきました。本殿前ではソメイヨシノに代わって八重桜が見頃になっています。園では、職員が園庭の小さな花壇に植えた色とりどりの花が咲いています。園庭や園のまわりにあるヤブツバキも花をたくさんつけています。

畑では、小麦が大きく育ち、背の高さは50センチ以上になりました。まだ麦の穂は出てきていませんが、「早く麦が実ると良いなー」と願っています。

     えんどうまめ

小麦が実ったら、みんなで収穫して石臼で粉にひいて小麦粉を作ります。そして、何か畑でとれたもの、もしくは自然の中のなにかから天然酵母を起こして小麦に加えてパンが焼けたらいいな。なんて勝手に妄想を広げています。

えんどう豆も大きくなってきました。蔓を伸ばしているので、支柱を立てて上げましたが、あまり好きではないようで、登ってきてくれません。鉄とプラスティックでできた支柱はあまり好きではないのでしょうか。早く何か方法を考えてあげないと・・・

    ほうれんそうの花

車で走っていたら、どこかの畑でえんどう豆が花を咲かしせているのをみつけました。うちのえんどうはまだまだ小さいなと、思わず比べてしまいました。「よそはよそ、うちのえんどうくんはうちのえんどうくん!寒い冬を乗り越えて頑張って大きくなっているのだから、そのまんまでいいの!自分のペースでゆっくり育てばいいの!」と他のこと比べようとしている自分に言い聞かせているもうひとりの自分がいました。

そして、ほうれんそうです。まだまだ葉っぱがちいさく、これから大きくして食べようと思っていたのですが、なかなか大きくなりません。先日どうなったかと思って見に行ったら、ほうれんそうの葉のまん中から、小さな茎のようなのもが伸びてきているではありませんか。なんだろうと?思って、よく見てみると、どうやらそれはほうれんそうの花のようです。初めて見ました。花が咲いてしまったら、葉っぱはおいしくなくなるのかな?などと思って少し不安になりました。でも、考えようによっては、このままうまく花が咲いて実が実れば、種が取れます。種が取れたら、また挑戦することができます。どっちにしても、良いことだらけです。ありがとうございます。

狂言 2

2013/04/14

千本ゑんま堂大念佛狂言が奉納された日は、あいにく降ったりやんだりのスッキリしないお天気でした。前の日は台風並みに発達した低気圧の通過で春の大嵐になり、午後からはかなりの強風と大雨だったので、どうなることかと思いました。当日の朝、鞍馬から少し北に行った花脊峠では、うっすらと雪が積もったと聞きました。

     雀の目から涙が・・・

午前中に集まった園児と保護者は早速お面作りに取りかかっていただきました。形は既にできていて、子どもたちはペンを使って色をつけます。ちょっとイメージが湧きにくいのか、手こずっている姿もみられました。そういえば、最近スズメをひることが少なくなったように思います。

ある子が雀の目の下になにか描いていたので、何を描いたのか聞いたら、「涙!雀は舌を切られて泣いてるねん」と答えてくれました。

そうしてできた、お面をかぶって、まずは練習です。のりを食べる仕草をして、おばあさんに舌を切られたら飛んでゆくのです。

   おばあさん こわいかも・・・

冷たい風が吹くなか子どもたちが舞台に登場、たくさんのかわいらしい雀の登場に客席は和やかな雰囲気が広がります。子どもたちの扮する雀は、のりを食べ次に舌を切られるまでのあいだ舞台上で座って待つのですが、表情がどこか変な子が何人かいます。緊張して固くなっているということもあるのでしょうけれど、それだけではないちょっと変な顔をしています。

じつはおばあさん役の人がつけている面がちょっと怖いようでした。舌を切るために近づいて来るおばあさんの面に泣き出しそうになる子も。でも、みんな無事に役を演じることができました。舌を切られるときに本当に自分の舌を出して、客席を沸かせている子もいました。

そんなこんなで、無事に演じることができた舌切雀、子どもたちの心に残ったのはどんなことでしょうか。

狂言 1

2013/04/13

4月のこの時期、お寺では2週間にわたって花供養という法要が奉修されています。「花会式」「花供懺法会」とも言い、ご本尊に花を捧げて行う懺悔の法要です。古くは如法写経会という法会の前行という意味もあったそうですが、現在は独立した形で修されています。期間中、献茶や献花、箏曲をはじめとした音曲の奉納などが行われ、桜をはじめ様々な花が咲き木々も芽吹くうららかな春の山が一層華やかさを増します。

そんな奉納の一つに数年前から千本ゑんま堂大念佛狂言保存会の皆様が、千本ゑんま堂引接寺に伝わる念仏狂言を奉納していらっしゃいます。千本ゑんま堂の狂言については、以前のブログでもとりあげたので詳しくは書きませんが、起源は平安時代にまで遡る念仏狂言です。

その演目の一つに「舌切雀」があり、鞍馬で最初に行われた奉納公演の演目に入っていて、その時に当園の園児の中から希望者が雀の役で出演させていただきました。今年も、舌切雀を加え園児を誘っていただいたのです。例年の公演では演じられる演目は三つなのですが、それに舌切雀を加えていただいた形です。5歳児を対象に声をかけさせていただいたら15人中9人が参加してくださいました。

保存会の皆様にはとてもご配慮をいただきました。子どもたちが頭から雀のお面をかぶるのですが、お面が大きくて子どもたちの顔が見えないのはかわいそうだと考えてくださって、顔が見える形に作り変えてくださいました。そればかりではなく、子どもたちが自分で雀のお面を作る方が楽しいだろう。というところまでご配慮いただいたのです。もちろんお面を最初から全て子どもたちが作るのは難しいので、色を塗るといった簡単な方法でお面作りに関われるように、考慮してくださいました。

そこまで子どもたちに心を運んでいただいていることに、半ば驚くとともに感謝せずにはいられませんでした。ありがとうございます。

築山

2013/04/12

新しい年度がはじまり、園内もいろいろなところが少しずつ変わりました。各保育室では様々な工夫がされています。

先日、園庭にある築山移動計画が持ち上がりました。といってもそんなに大げさなことではなく、石垣に添って盛ってあった砂を園庭のまん中に盛り直そうという計画です。用務員さんが発案して、みんなの意見を集めて実行しました。スコップを使ってひたすら山を崩しては砂を移動してゆきます。作った頃は大きかった築山も砂が少しずつ流れて今ではずいぶん小さくなりました。そうはいってもスコップで掘っては新しい場所に移動するのは大変なことです。男性の職員が2人がかりで作業しましたが、2人ともすぐに腕や肩が痛くなったようです。実際に土や砂をいじるのは、見た目より重労働です。それでも、こどもたちがお昼寝をしている間に何とか完成したようでした。

夕方、保育園に戻ってみると、こじんまりとかわいらしい築山が、まん中にちょこんと座っています。よく見ると、なんと築山のてっぺんから滑り台がにょきっと生えているではありませんか。何のことはない、移動可能な滑り台の階段部分を土に埋めただけなのですが、発想のおもしろさと、ずっと前からあるべくしてそこにあったような違和感のなさが驚きでした。

お昼寝から起きてきた子どもたちが、集まって来たことは想像に難くありません。
それ以降も山の斜面に階段とも言えない足がかりができていたり、子どもたちが遊びを発展させるにしたがって、築山も少しずつ姿を変えています。
「園庭は生き物」を合い言葉に、もっともっと楽しい園庭にしてゆきたいと思います、

義経桜

2013/04/11

    本殿前のソメイヨシノ

花盛りは過ぎましたが、鞍馬ではさくらが美しく咲いています。山の上、本殿前のソメイヨシノやヤマザクラはもう散り始めていますが、八重桜の花が少しずつ開いてきました。園庭にある大きなヤマザクラをはじめ、山麓の山門や保育園付近のソメイヨシノやヤマザクラはまだまだ美しく咲いています。この2〜3日は冬がもどって来たかのような寒さですが、その前はとても暖かかったので、草花が一気に生長しました。もみじがかわいらしい新芽を出して日に日に大きくなり、ちいさな赤い花を咲かせています。山吹も咲き始めました。

     もみじの花

お寺の本殿の前庭に大きなソメイヨシノと八重桜の間に細い桜の木があります。「義経桜」という名前の桜です。お寺でこの桜のお話しを聞きました。

平成18年に宮城県の栗駒市の方からこの「義経桜」が奉納されました。栗駒市には判官の森と呼ばれる森があり、そこには義経の胴塚と言われている場所があります。その近くには、義経が馬の鞭として使っていた桜の枝を土にさしたのが根付いたという義経鞭桜という桜があるそうです。その桜なのかどうかは定かではありませんが、

      さくらと園舎

「義経桜」という桜が鞍馬にやってきました。

お寺ではそれを大事に育てていたそうです。ところが、ある日そのうちの一本が、人のいたずらか、鹿にかじられたのか、折れてしまって、1メートルくらいの棒を地面に立てたような姿になってしまいました。せっかく心を込めて奉納してくださった桜なのだから、なんとかもう一度芽を出さないものかと、鹿の被害に遭わなくて、条件の良い場所に移植して、毎日「元気になれよ」「頑張って芽を出してね」と声をかけ大事に育てたそうです。そうしてしばらくしたら、   

       義経桜

一本の棒きれのようになった桜から芽が出てきて、すくすくと順調に育ったのです。なんか「義経鞭桜」みたいです。

そうしているうちにずいぶん大きくなったので、昨年の冬に本殿前庭に植え替えたところ、今春、ついに花が咲いたのです。それにあわせるかのように、義経桜という名前のお菓子がお供えされたり、義経桜に関する問い合わせがあったりと、義経桜が少し話題に上るようになっているのだそうです。何だか少し不思議な気がします。

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