2013年 5月

学ぶ姿勢

2013/05/11

子ども主体といっても、ただただ何もしないで子どもを放任することではないのです。放任は、子ども主体を隠れ蓑にしたただの怠慢でしかありません。

「幼児をただ遊ばせている」だけでは教育は成り立たない。幼児をただ遊ばせているだけでは,幼児の主体的な活動を促すことにはならないからである。

と幼稚園教育要領には記されています。

子どもが、自分の周りの様々なことに興味関心を持ち、学ぼうとする心の動きを丁寧に感じ取り、環境を構成することが大切になってきます。子どもが自ら学ぼう、伸びようとする力、意欲を引き出すことが必要なのです。

子どもは、様々なことから学ぼうとしています。大人の都合で、学びの芽を摘まないようにしなくてはなりません。私たち大人はどうでしょう?様々なことから学ぶ姿勢を持ち続けているでしょうか。特に子どもから学ぶ姿勢をいつももっているでしょうか。「子どもは何もわからないから、大人がたくさん教えてあげなくては!」という大人目線、大人都合の罠にはまっていないでしょうか?いつも自分をふり返って見る必要がありそうです。

良い先生というのは、子どもから学ぼうとする。良い先生は良い生徒でもある。学ぶ姿勢を覚えると。どんなことからも学ぶことができる。

「世界一受けたい授業」武田鉄矢先生の新・教育白書で、武田さんがおっしゃっていました。

どんなことからも学ぶ姿勢、まずは子どもから学ぶ姿勢、そして、自分にとって不都合なことから学ぶ姿勢を、持ち続けたいものです。

ひとりひとりの力

2013/05/10

広島県立安芸南高校サッカー部を指導していらっしゃる畑喜美夫先生は、子どもたちが自ら考えて練習をする。子どもたちの主体的、自発的な取り組みに重点を置いた練習方法で、前任校のサッカー部をインターハイ初出場にして初優勝に導いたそうです。

こんな練習方法について子どもたちはどのように感じているのでしょうか。インタビューを受けた部員は「先生がすぐに答えを出さずに、考えさせてくれるから2倍以上に成長できる。」「自分の好きなようにやらせてもらって、楽しんでいます。」とコメントしていました。

これができるのは、先生と生徒相互の信頼関係が根底にあるからです。畑先生は60人以上の子どもたちと毎日交換日記を交わしていらっしゃるそうです。子どもたちひとり1人に心を運び、寄り添い、それぞれにとって必要な関わりをされているのだと思います。そこからこそ信頼関係が生まれてくるのでしょう。

信頼関係の上に成り立つ、子どもが主体となって自ら考え判断し行動するという練習は体罰とは正反対のところにあります。強くなるために体罰を行うという理論は成り立たないということです。むしろ、体罰によって、成長の可能性の芽を摘んでしまうように思います。

畑先生が子どもたちを個人名で呼ぶという所に、武田鉄矢さんが注目してコメントしていました。「団体競技では、よく、選手をポジション名で呼ぶことが行われるが、そうすると、人間が道具化、記号化してしまう。だが、畑先生は選手を個人名で呼んでいる。個人名で呼ばれることによって個人の自覚が生まれる。ここには個人が団体を作るという先生の意識がうかがえる。」

ひとり1人の力が発揮できるように考え、環境を整え、子どもたちの持っているものを引き出すことで、ひとり1人が輝く、そんな個人が集まる集団が目的を共有すれば、それほど強いものはないということなのでしょう。

これは、なにもサッカーに限ったことではないと思います。

子ども主体

2013/05/09

体罰なんて全然入り込む余地のない方法で子どもたちが力を伸ばしている例がある。として、日本テレビの「世界一受けたい授業」武田鉄矢先生の新・教育白書(4月20日放送)で取り上げられていた高校がありました。

広島県立安芸南高校サッカー部、指導するのは畑喜美夫先生。部室や合宿所など、子どもたちが自主的に整理整頓している影像とともに映し出されていました。「自主的」「強制ではない」というテロップがながれ、子どもたちが自主的に整理整頓した場が映し出されていました。

畑先生は、「体罰をすることによって、人に言われなくては動けない指示待ち人間になってしまう」とおっしゃっていました。大人がやらせるのではなく、子どもが自ら主体的に動くことこそ子どもの実力に繋がるという発想だと思います。

サッカー部の練習メニューは1週間のうち土日が試合、月曜日から金曜日までの5日間で全体練習があるのが2日だけ、後の3日はフリーで、練習したくなければしなくても良いのだそうです。それで本当に強くなるの?と思いがちですが、畑先生は、子どもたちがフリーの時間に次の練習をどうするか、子どもたちが自分で考えるベースとなる時間をできるだけ多く取ることを目指していらっしゃるそうです。子どもたちが自分で考えるということがキーワードです。

週に2日しかない全体練習も、自分たちで決めた練習メニューをキャプテンが説明、子どもたちが自主的に練習をしていて、先生はそれをじっと「見守る」というスタンスです。そして、時々ひとり1人を呼んでは、なぜうまく行かなかった?何が悪かったと思う?と質問し、子どもたちが自分で答えを出せる環境を整えていらっしゃいました。そして、問題点は生徒同士で話し合うようにされていました。

印象的だった先生のコメントは、先生が「先走って言ってしまった時は、子どもたちの判断する場面を奪ってしまったな。失敗したな。と思う。そこをもっと我慢して、子どもたちが動き出す瞬間を大事にしてあげる。」ということでした。

先生が、ぐっと我慢することで、子どもたちが問題点を洗い出し、改善方法を見つけ出していました。先生は「僕の言おうと思っていたことはほとんど子どもたちが言っていた。」とおっしゃっていました。

徹底的に子どもたちを信じ、子どもたちの主体性に任せ、子どもたちが自ら考え、判断する機会をできるだけたくさん作り、そして子どもたちが自ら動き出すのをじっと我慢して待つ。そんな姿勢が、子どもたちの力を引き出すのでしょう。

こんな育て方こそ、当園が目指しているところです。体罰とまでは行かないにしても、どうしても大人の都合で、大人の思うように子どもを動かしたくなる。自分がやらせたい気持ちを抑えるのではなく、「教える」という美しいことばでくるんで、大人の我が儘を押し付けていないか、もう一度内省する必要がありそうです。

体罰

2013/05/08

体罰が問題になっていて、メディアでもよく取り上げられています。

日本テレビの「世界一受けたい授業」武田鉄矢先生の新・教育白書(4月20日放送)で武田鉄矢さんが体罰について授業をしていらっしゃいました。そこでは、様々なデータを用いながら、体罰の実態が紹介されていました。

たとえば、

小学校から大学までで体罰が一番多い学校は小学校で60%近い体罰が行われている。

体罰が部活の最中に起こったか授業中かという問いには70%近くが授業中に起こっている。

どんな体罰を受けたかでは、70%近くが殴られるという体罰を受けている。

体罰を認めるか否かでは、一切認めないが53%、一定の範囲内で認めても良いが42%

教師を目指す学生に体罰を認めるかどうかを尋ねたところ、体罰を経験した学生は体罰を経験していない学生の3倍以上が体罰を認める

部活別体罰経験率では、バレーボールや野球などの団体競技での体罰率が高い

といったデータが紹介されていました。

小学校で授業中に、殴るなどの体罰が今現在も行われており、部活では団体競技で体罰が多い。といったところでしょうか。

一般的には体罰を一切認めない人が半数強いらっしゃるにも関わらず、体罰を経験した学生は体罰を経験しない学生の3倍以上が体罰を認めた。つまり虐待と同様体罰も連鎖するということです。

こういったデータは何を物語っているのでしょうか・・・

手をつないで

2013/05/07

     ほうれんそうの花

畑の様子が日々変化しています。ほうれんそうは、あまり葉っぱが大きくならずに花が咲いてしまったことは、前にもお伝えしました。種ができるまで待ってみようと思っています。4月の末に葉っぱを少し摘んで食べてみたら、その甘かったこと。こどもたちに食べさせてあげたくなりました。

ほうれんそうは何本か生えているのですが、種を取るためには葉っぱを残しておいた方が良いようにも思うし、子どもたちと葉っぱを食べたいし・・・

      麦の花?

悩んでいましたが、今日少し食べてみました。そうしたら4月末に食べたときほど甘くはなく、どちらかというと苦味が勝った味になっていました。悩んでいないで、早く子どもたちと食べた方が良かったなと思ってしまいます。

それにしても自然の変化は激しいものです。1週間の間に全く味が変わってしまうのですから驚きです。

小麦は、穂がたくさん伸びてきて背の高さも1メートル近くになり、花が咲き始めました。日の光を浴びて風にゆれる色と姿が

    えんどう豆

とても美しいと思います。

えんどう豆は元気に大きくなっています。ところが、豆がつるを伸ばして、つかまるところがないのです。市販の竿を立ててみたのですが、あまり好きではないようでつかまろうとしません。聞いたところによると竿は太すぎてつかまりにくいのだそうです。ネットを使うと良いと教えていただいたので、ネットを張ってみました。ありあわせを使ったので、よその畑で使われている細いネットではありませんが、豆はつかまって登ってくれるでしょうか。

ネットを張ったときにえんどうを見ていた子どもが「豆が手をつないでいる」というので、子どもが言う方を見てみると、となりの豆どうしが、つるをからめあっています。「手をつないで助け合おうとしたはるのかな?」という子どものことばがとてもステキだと思いました。

自分の心と向き合う

2013/05/06

「平安時代の浄土教には美しさがある。齊藤眞成先生の作品は往生要集の世界を絵画で表している。」京都文化博物館で行われた齊藤眞成展の初日を見学させていただいた後のオープニングパーティーで梅原猛さんはこうおっしゃっていました。

また、「近年の齊藤眞成先生の作品は軽くなった。しかしただ軽いのではなく、軽さと深さを兼ね備えている貴重な作品だ。軽くて深いことはそう簡単にできることではない。」ともおっしゃっていました。

木村重信氏が「おどろおどろしさが消えた」とおっしゃっているように、暗く、重たい深さから、明るく、軽い深さへと齊藤師の作品が変わってきたと言うことなのでしょう。

齊藤師が自然対象を心のるつぼで溶かしてから、作品に表していらっしゃるということは、齊藤師のお心は明るく軽く、しかも深い世界に他ならないのだと思います。

それにしても、自分自身の素直な心、本心に向き合い、本心を知る、本心の声を聴くと言うことはなかなかできる事ではないと思います。そもそも、今自分の考えていることが自身の本心から出ていることなのか、それとも我が儘、我欲というフィルターを通して出現していることなのか、考えれば考えるほどわからなくなります。たぶん頭の先で考えるからわからなくなるのでしょう。考えるからわからなくなる。感じればわかるのだと思います。しかし、感じるためには自身の素直な心、本心が働かなくてはならない。どこか堂々巡りのようにも感じます。

徹底的に自分を見つめ、自分の心を見つめ、自分の素直な心に巡り会うことができれば、明るく、軽く、深い世界が感じられるように思います。

まだまだ、我欲にまみれた重く暗い淵に沈んでいる私ですが、自分自身の素直な心、本心に巡り会い、本心の声を聞けるようになりたいと思います。そのためには徹底的に自分自身と向き合い自分の心を見つめてゆく必要があるのでしょう。

齊藤眞成師が、パーティーで繰り返しておっしゃっていたことばがいつまでも心にこだまし響き渡っています。

「私は今まで佛前で自分の心と向かい合って描いてきました。くりかえします。佛前で自分の心と向かい合って描いてきました。」

心の深層

2013/05/05

芸術について何かを言えるほどの見識は持ち合わせていませんが、「佛心の造形 齊藤眞成展」を見学させていただいて感じたことを書かせていただいています。

佛心の造形でいう「佛心」というのは、人がそれぞれに持っている仏様の心、言い換えれば、心の奥深いところにある素直な心、本心ということだと思います。齊藤師はご自身の佛心、本心をみつめ、佛心、本心が赴くまま忠実に描いていらっしゃるのだろうと想像します。

長い間、齊藤師の作品を見続けていらっしゃる方が、以前は暗い色使いが多かったが、最近の齊藤師の作品は色使いが明るくなったとおっしゃっていました。明るく暖かな仏様の世界を感じながら描いていらっしゃるのかもしれません。

美術評論家の木村重信氏が、この展覧会の図録に寄せられた文書があります。そこには、齊藤眞成さんは「鬼」とか「業」の画家と言われ、鬼や地獄にまつわるイメージが濃かったが、近年抽象性がますます強まり、重く暗い画面は軽く明るい表情に変化した。とあります。

また、齊藤絵画は抽象ではなく非具象である。外見上は抽象絵画と変わらないように見えても、自然対象に徹底的に精神操作を加えて、心のるつぼのなかで溶かしてから出すので、抽象とは異なる。

と齊藤師の作品が「心」から生まれてくることをおっしゃっています。

また、齊藤絵画をビオモルフィック(生命形態的)と名付けたい。心理と生理、無機と有機が統一された形態を示すこと、そのような絵画を描くことによって齊藤さんは生命の生成の過程に立ち会ったのである。それは九十六歳の高僧にして達し得た画境でもある。と締めくくっておられます。

「生命の生成の過程に立ち会う」というところまでは、さすがに思いが至りませんが、精神活動の奥深いところ、(真理と言っても良いと思います)から生まれ出てくるのが齊藤師の芸術なのでしょう。

映し出される心

2013/05/04

芸術作品から何を感じるのか?それは、見る人それぞれであって良い。ということを齊藤師の作品を拝見して、自分自身が感じたことと照らし合わせてみると、自分の内面が見えてくるようで、少し怖いような気持ちになりました。多くの作品から、和みや安らぎ、調和などが感じられました。特に動物の姿が描かれた作品には、ユーモラスさのようなものを感じました。

ところが「念」と題された作品に対したときは、何か自分自身の心に突き刺さるような感覚を覚えました。「念」は良い意味で、念ずること、祈ることなのかもしれませんが、私には、良くない「念」が描かれているように感じられてのです。

作品は、僧侶のような人が祈りを捧げているように見える構図です。私にはそう見えました。それはどんな祈りなのかはわかりませんが、私には、作品の中で人物の輪郭のように使われている青色の線が、気になって仕方なかったのです。その青色が、どうも自分の心の中の我が儘であったり。こうなってほしという自分勝手な都合、我が儘を表しているような気がして、思わず作品の前で立ち尽くしてしまいました。

まさに作品を見る人の感じ方です。自分自身の心が、反映されているのだろうと思います。

自分自身、心の中の我が儘な部分や我欲にとらわれている部分が、作品に反射して、自分に返ってきているのです。我欲を離れ、様々なことを素直な心で感じ受けとめられるようになれるとどんなに幸せなことでしょう。自分の中の我が儘な心にとらわれ振り回されることのないように、常に自分の心を見つめ、自分の心の状態を把握し、自分を律してゆくことが大切になってくるのでしょう。

感じるところ

2013/05/03

「佛心の造形 齊藤眞成展」を見学していたら、ある宗教紙の記者さんが取材に来ていらして、齊藤師にインタビューをしていらっしゃいました。展覧会を見学し終わり、オープニングパーティー会場に移動する途中、その記者さんと話す機会がありました。

「取材したことを記事にするのは難しいんでしょうね。」なんて話していたら、「齊藤先生に変なことを聞いてしまいました。」と少し後悔していらっしゃる様子だったので、どんな質問をされたのかに興味が湧いてきて、どんな質問をされたのか、尋ねてしまいました。

記者さんは、「それぞれの作品に何か伝えたいメッセージはあるのでしょうか。」と質問してしまった。そうしたら齊藤先生は「それは見る人がそれぞれに感じてくだされば、良いことなんです。それぞれの見方、感じ方をしてくださることが大切なのです。」とお答えになった。それを聞いて、なんて変な質問をしてしまったのだろうと、恥ずかしくなったとおっしゃっていたのです。

確かに、おなじ絵を見ても、見る人のその時の心の状態、感じ方によって、作品はさまざまに見えるし、感じられるのだろうと思います。それは、作者の意図がどうであれ、それがそのまま響くときも響かないときもあるはずです。むしろ、齊藤師のおっしゃるように作者の意図やメッセージよりも、受け手の心情の方が、受け止め方に影響するのだと思います。ですから見る人こそ自分自身が今、どんな気持ちなのか、自分自身をある程度把握していることが必要なのかもしれません。

いやもしかしたらそんなめんどくさいことを言わず、素直な自分の心がどう感じているかを、しっかりと見つめていることが大切なのかもしれません。

素直な心で

2013/05/02

齊藤眞成師の個展を見学させていただきました。齊藤師の作品を見るたびに思うのが、この造形はどのようにしてできあがるのだろうということです。そんなことを考えずにただ作品を感じれば良いのだと思いますが、ついそんな思いが浮かんできます。

以前、齊藤眞成師の個展が京都造形芸術大学で開催されていたときに、見学に伺ったことがありました。その時はたまたま見学者がいらっしゃらなくて、齊藤師と少し話すことができたので、失礼ながら、どのように作品を作られるのか思い切って尋ねてみました。そうしたら、「いろいろですが、思いつくままを描いてゆくのですよ。電話しながらメモに落書きすることがあるでしょ?あんな感じで描き始めたものが広がってゆくのですよ。」と答えてくださいました。包装紙に落書きするような気持ちで描いていたら、包装紙の模様がおもしろかったのでそれをそのまま作品になってしまったというエピソードも聞かせてくださいました。実際にそんな作品も見せていただきましたし、今回の個展にも出品されていました。

それを伺って、師はご自身の素直な心を解放して、作品に表現していらっしゃるのだと感じました。最初から最後まで素直な自分、ありのままの自分で作品を仕上げることはなかなかできる事ではないと思います。

私などは、少しでも良く見せたいとか、自分の我欲から出てくるいろいろな思いがすぐに邪魔をしてきます。自分の本心とはなにか、今感じていることが素直な自分の心から出てきていることなのか、常に自分の心に向き合い、心を見つめている必要がありそうです。知らず知らずのうちに我欲が心を覆い「我が儘」にしたくなってしまうからです。

齊藤師は、ご自身の心に向き合いながら作品を作っていらっしゃるのだろう。そんなことを思っていたことを、思い出しながら作品を見学させていただきました。

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