2013年 1月

気をつかわせてごめんね

2013/01/09

新しい年のスタートです。

お正月休みが終わり・・・・少々体重が増え・・・・・胃が大きくなってしまってて・・・・・でも・・・・・

胃を小さくしなあかんなぁ・・・・と思いながら先日給食を食べていた時のことです。

5歳児の女の子にお正月の事を聞かれました。

「先生はお正月何してたん?」

「お父さん、お母さん、お兄ちゃんとか、親戚の人とかと一緒にご飯食べたりしたよ。」と言うと、

「お年玉は?」とすかさず質問が返った来ました。

「お年玉はもうもらえへんなあぁ・・・・」

「へー、かわいそう。」

「うん、大人やし・・・・」

子どもに気をつかわせてしまいました。

その後は、楽しくお正月の話をしていました。

きょうのごはん

2013/01/08

・ごはん

・ぶりのてりやき

・野菜のごま和え

・みそ汁

冬休みの学童保育(めぐみ精舎)

2013/01/08

冬休みになるとめぐみ精舎(学童保育)も小学生も多くなり、毎日にぎやかです。イベントも多く、クリスマス会では映画鑑賞やクリスマスケーキ作りをしました。炊飯器でスポンジケーキを焼いて、みんなでトッピングを楽しみました。ケーキの甘い匂いが部屋に広がってとても幸せな気分になりました!

しめ縄作りにも挑戦しました。ワラに埋もれて1日がかりで作ったけれどいろんな形のしめ縄が完成。
お正月には家の門に飾ってもらえたかな?

保育園児と一緒にお餅つきもしました。

年が明けて第一日目は寺の本殿まで新春お参りに行きました。かがり火の所に網を持ってきてもらってオモチを焼いてたべました。
雪合戦にも熱が入ったね〜

めぐみ精舎で楽しい冬休みがすごせたかな。

七草がゆ

2013/01/08

「せり、なづな、ごぎょう、はくべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七種」1月7日、春の七草をお粥に入れていただく七草がゆの習慣があります。

七草がゆの習慣は正月7日の人日(じんじつ)人を占う日に、7種の野菜を入れたあつものを食べた中国の習慣が伝わったものだそうです。日本に伝統的にあった若菜摘みの風習とも結びついたようです。江戸時代には幕府が人日の節句を他の節句と共に公式行事としたこともあって、一般にも広まりました。

雪を割って芽を出す早春の植物の生命力をいただき、新しい年の無病息災を祈ったのでしょう。昔の人は自然と近く、自然と共に生きていたのですね。

ちなみに、秋の七草は、おみなえし、おばな、ききょう、なでしこ、ふじばかま、くず、はぎの7つで、秋の草花が咲く花野を散策し、歌を詠むなどして楽しんだのです。

1月7日、調理担当者が、子どもたちに季節感を感じたり、昔からの風習に接してくれればとの思いから、七草がゆを作ってくれました。お昼のご飯をおかゆにするとおなかがすいてしまうかもしれないという配慮から、おやつにしたようでした。そんな心遣いが嬉しく感じられました。

七草がゆを食べつつ「なんではっぱがはいってんの?」と聞く子どもたちに、「これは七草がゆといってね・・・」と保育士が説明している様子がとてもステキに感じられ、

「あっ!ちっちゃい大根が入ってる!」と目を輝かせている子どもの笑顔が印象的でした。

きょうのごはん

2013/01/07

・ごはん

・だしふりかけ

・肉じゃが

・ツナサラダ

・具沢山汁

冬休みの小学生

2013/01/07

今朝は少し温かく、気温は0度でした。氷点下になるのと0度でとどまるのではずいぶん体感温度が異なります。園児たちもたくさん登園してきました。3・4・5歳児は午前中にお寺の本殿まで新春のお参りに行ったので、0・1・2歳の子どもたちと園でお参りをしました。小さいながらみんなそれぞれにお参りをしていましたが、やはり大きな鏡餅が気になったようで、お参りのあとみんなで触ってみました。持って見ると思っていたより重くて、びっくりしていた子もあったようです。

     今日の予定は・・・

小学生はまだ冬休み中なので、学童保育には15名ほどの小学生が遊びに来てくれました。たくさん集まってくれて嬉しく思います。朝に行ってみると、ちょうどお参りをしているところでした。お経を唱えるまではしませんが、全員で座って今日一日よろしくお願いしますとお祈りをします。みんな心を落ち着けて静かにお祈りをしていました。
その後、全員で車座に座り、出欠の確認と自分で決めた今日の予定をそれぞれ発表します。朝から勉強をする子、午後にする子と様々ですが、自分の決めたペースで、自分の気の合う友だちと、楽しんでいたようです。

     すごろく作り


担当の保育士が、小学生もずいぶんいろいろなことをしてきて、少し飽きてきたところもあるので、いろいろなことができるように環境を豊かにする必要がありそうだと言っていました。子どもたちに合わせて環境を変えてゆかないと、子どもたちは遊ばなくなります。いつも同じものばかりでは飽きてしまいます。限られたスペースと資材で、いかに多様な環境を作り出すか、選択肢の用意の仕方や提示の仕方も含めて、保育者の腕の見せ所かもしれません。担当の保育士は、かなり具体的なプランを立ててくれていたので、できることから形にしてゆけば良いのです。ここで行動を起こさないと形になりません。

     すごろくのコマ

ここで止まってしまうことが多いので、そうならないようにみんなで一緒に形にしてゆけると良いと思います。

小学生はといえば、自分たちのオリジナル双六を作っていいる子、じゃんけんで負けたら足を少しずつ開いていって、先におしりをついた方が負けるというゲームを考えて楽しんでいる子、ブロックで何か作っている子、ジグソーパズルに取り組んでいる子。それでもみんなそれぞれに楽しんでいたようです。
      
      

じゃんけんぽん! まだまだ大丈夫!

ちょっとだけちがう

2013/01/07

ちょっと季節を巻き戻して、クリスマスのツリー制作の日の出来事。

段ボールを三角に切り抜いて、つなぎ合わせた大きなツリー。10枚の三角に色を塗るその前に…

外の木を眺めて、よくよく見ると緑一色の木ってないねぇ、じゃ一枚ずつ色を変えてみよう!!と似ているけれどちょっとずつ違う10枚の三角が完成しました。「黄色を混ぜるとどうなるかな?」「もちょっと赤をいれてみようかな?」「黒は?」「白は?」とどんどんと興味を広げながらの制作でした。色の違いがわかりますかねぇ??

新年のあいさつ

2013/01/06

5日から保育がはじまり、子どもたちが登園してきました。小学校がまだ冬休みということと土曜日が重なって、お休みの子どもも多かったのですが、みんな元気そうに、楽しそうに登園してきてくれました。1週間ほど会わないだけなのにみんなとても大きくなったように感じます。新しい年を迎え一つ大きくなったのでしょう。

今ではあまり用いることは少なくなりましたが、数え年では生まれたときが1歳でお正月が来るたびに1つ年をとるという加齢方法がとられていました。12月31日に生まれた人は生まれた日に1歳で翌1月1日には2歳になるという計算です。小さい頃、「お正月がきたから一つ大きくなったね。」といわれ、何のことかよくわからなかったのを思い出します。

数え年が用いられた理由はいろいろとあるようですが、お母さんのおなかの中にいるあいだも、年齢に数えるからだという説があり、妙に納得しました。赤ちゃんは受精した瞬間からひとりの人として主体的に生きているという考え方からもうなずくことのできる話しです。

5日は土曜日でしたが、新年のあいさつも兼ねて、3・4・5歳児の子どもたちと朝のお参りをしました。「あけましておめでとうございます。」としっかりあいさつもしていましたし、いつになく真剣にお参りをしていました。お参りが終わると、お供えしてある鏡餅が気になっていたようだったので、一度みんなで見てみました。持ち上げて重さや固くなったお餅の感触を感じたり、乾燥して割れてしまっていることを見つけて、なぜ割れているの?なぜ丸いの?と疑問を持ったりしていました。

子どもの、不思議を見つける力と、探求心にはいつも感心させられます。子どもと同じようにとは行きませんが、いつも探求心を持っていたいものです。

丸ごと受けとめる

2013/01/05

全ての人が仏様になる性質「仏性」をもっているといわれます。仏様になれる性質、仏様と同じ部分があるということです。それと同時に人間でもあります。それどころか十界といって、ひとりの人間の中に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の性質をもっているといわれています。

あらゆる恐怖や苦痛につねに翻弄されている地獄、目の前の欲望だけに激しく支配される餓鬼、本能のままに動いている畜生、つねに武力によって戦い争っている修羅、平常心でいるときの人、様々な喜びを感じることができる天、仏法をはじめ様々なことを学ぶ声聞、仏法を聞いて悟りを得る縁覚、一切の衆生を救おうという慈悲の境地の菩薩、悟りを開いた仏です。
この地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界のひとつずつがそれぞれ十界の性質をもっている。このことを十界互具といいます。つまり、人は仏の性質を持つと同時に菩薩や地獄、餓鬼、畜生の性質も持っているということなのです。餓鬼のようになってむさぼったり、修羅のように争ったり、菩薩のように慈悲に満ちあふれたり・・・

自分自身をふり返ってみても、そんないろいろな心の状態になっていると思います。もちろんいつも菩薩様や仏様の心でいられれば良いのですが、なかなかそうはいきません。しかし、反対に地獄や餓鬼などの性質がないとそれがどんなものかはわかりません。同じ気持ちになって寄り添い、相手を理解することができないのだと思います。

仏様や菩薩様の心を持っている自分もいれば、地獄、餓鬼、畜生の心を持っている自分もいる。どうしても嫌な自分をなかったことにしたり、蓋をして見ないようにしたり、自分の影の部分から目を背けようとしてしまいます。そのことを見つめ、まるごと受け入れ、認めることが必要なのだと思います。自分自身を丸ごと認めることなしには、誰かをまるごと認めることはできないのでしょう。まずは自分に向き合う必要がありそうです。難しい、しかし避けては通れない課題ですね。

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