2013年 1月

理解

2013/01/11

「対話のカタチ」2人目は、元外交官 東郷和彦さんです。東郷氏は外務省条約局長・欧亜局長・駐オランダ大使などを歴任し、現在は京都産業大学世界問題研究所長として活躍されています。

東郷氏は、外交の本質は「相手を理解する」ことであり、それは全ての人間関係の基本だと言っています。外交で一番重要なのは相手の立場も理解し、長期的に国益を考えてゆくこと。なのだそうです。同じ国の人間なら、関係性が悪化しても同じ価値観やルールのもと立て直しやすいが、外国人の場合は一度失敗すると立て直しが大変難しくなると言います。

同じ文化的基盤を持った日本人同士でも難しいことがあるのに、外国の方が相手となるとその難しさは想像もできません。ただ、ひとりの人間と人間との信頼関係が基本にあり、その上で交渉があるのだろうと感じます。その根本に「相手を理解する」ということが必要不可欠なのでしょう。しかし、「相手を理解することは思うほど易しくない」ともいいます。
確かに易しくはないし、そうとう努力する必要があると感じています。

「日本は主張すべきを主張していない」というのが最近の風潮ですが、こちらの考えを相手にガンガン言えばいい、それが外交だという考えは完全な間違いです。

とても反省させられることばです。外交のような大がかりなことではなくても、日常のコミュニケーションでさえ、ついつい自分の主張ばかりを一方的に押し付けようとしてしまいがちです。相手を理解するためには、自分の心を否定のバリアで囲わずに、相手を丸ごと受けとめることからはじめなければなりません。そこからがスタートのはずなのに・・・

日々のふり返りを大切にしながら、進んでゆくしかありません。

目に見えない世界

2013/01/10

京都新聞の新春特集「対話のカタチ」に掲載された河合俊雄氏の「グローバル化の中で」という記事が興味深かったので、取り上げてみました。

グローバル化に反比例して人々の視野は狭まり、自分に近いグループのことしか気にしなくなる。その背景には、同心円的な広がりをもつ共同体の崩壊があるといいます。河合氏はこうも言っています。健康な共同体がなくなってゆくと、それを保つため「暴力」という反動が生まれる。だからいじめ問題が絶えない。

共同体の崩壊は人と人との実質的なつながりが希薄になり、個々人がバラバラになってしまう状態なのでしょう。西洋では個人主義が強くても、個人がよって立つ基盤に「神につながる」という普遍性が残されました。遠くに、もしくは目に見えない世界にある普遍性がなくなると、人々は身の回りの自分に近い存在に依存するのでしょう。

河合氏は、「目に見えない世界」の普遍性に注目し、「自然科学で全てがわかるだけでは、人は生きる気力が湧きません。むしろ自然科学を超越した「全然違う次元」を知り、触れることで豊かになる。目には見えない夢や理想が生きる力になるのです。」と言っています。

河合氏はかつては宗教が果たしていた、目に見えない世界(異次元)とつなぐ役割を文学や芸術といった新しいクリエーションに求め、例えば村上春樹氏の小説を心理学的に読み解くといった研究を進めていらっしゃるそうです。

日々に追われていると、ついつい目の前で起こることだけに目を奪われがちですが、本来見つめるべきは、見えないものであったり、遠くにあるものなのだと思います。足下のでこぼこ道にばかり気を取られていて、遠くの目に見えないもの、普遍性を見据えることを忘れてしまわないようにしたいものです。

共同体

2013/01/09

京都新聞文化面で「対話のカタチ」という新春特集が組まれていました。様々な対立があらわになって来ている今こそ、対立を乗り越え、ともに前へ進むための対話が必要という観点から、歩み寄ることの難しさと可能性の大きさを知る5人に聞くというシリーズです。1月3日には、京都大学こころの未来研究センター教授の河合俊雄氏でした。

河合氏はまず、情報技術がグローバル化するのに反比例して、人間の視野は狭くなっているといいます。かつてあった共同体意識や原理、普遍性がなくなったことが背景にあるそうです。近代の前には共同体の暮らしの中で、共同体に属する人々のことを肌で感じることができました。日本では集落という共同体を中心として、集落を囲む山の向こうに「あの世」があり、その向こうに「目には見えない世界」が同心円的につながる共同体意識を持っていました。近代になって「個人」という概念が出てきてそれが大きく変わったと言います。

西洋では個人主義が強いのですが、個人がよって立つ基盤に神や自由、博愛という原理があり、人々はそれを共有しているといいます。近代化によって共同体意識はつぶれましたが、キリスト教に基づいた「神につながる」という普遍性は残されているのです。日本はそういったものまでなくしてしまったのでしょうか。

前近代的な共同体意識が意味を失った後に登場したのがグローバル主義ですが、共同体がなくなると皆がバラバラになり、ネットなどを介して偶然につながるだけの世界になってしまいます。そうして人間にとって必要な原理、普遍性が失われたから、人々は身の回りや自分に近い特定の存在に依存するようになるのだそうです。「かつてあった同心円的な広がりを持ったつながりではなく、日本の学生たちが自分のグループばかりを気にするように非常に小さな島になっているのです。」と河合氏は言っています。
(文責園長)

以前は共同体というお互いが物理的にも心理的にも近くつながりあい守り合う場があり、その外側に広い世界が、そして最も遠いところに宇宙とか目に見えない世界という普遍性があったのでしょう。ところが、共同体が意味を失ってグローバル化が進み、いきなり大海に放り出された個人は身近なものだけにしがみつこうとしているというのが、現代の状況なのだと理解しました。

だからこそ、グローバル化の荒海に放り出される前の子どもの時代に、身近な養育者との愛着関係をベースとして、子ども同士を中心に様々な人との関係を築く、様々な人と生活する共同体の体験が必要な気がします。その共同体で生活してゆくなかで、夢や理想を持って生きてゆく経験が大切になってくるのだろうと感じます。

七草がゆ

2013/01/08

「せり、なづな、ごぎょう、はくべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七種」1月7日、春の七草をお粥に入れていただく七草がゆの習慣があります。

七草がゆの習慣は正月7日の人日(じんじつ)人を占う日に、7種の野菜を入れたあつものを食べた中国の習慣が伝わったものだそうです。日本に伝統的にあった若菜摘みの風習とも結びついたようです。江戸時代には幕府が人日の節句を他の節句と共に公式行事としたこともあって、一般にも広まりました。

雪を割って芽を出す早春の植物の生命力をいただき、新しい年の無病息災を祈ったのでしょう。昔の人は自然と近く、自然と共に生きていたのですね。

ちなみに、秋の七草は、おみなえし、おばな、ききょう、なでしこ、ふじばかま、くず、はぎの7つで、秋の草花が咲く花野を散策し、歌を詠むなどして楽しんだのです。

1月7日、調理担当者が、子どもたちに季節感を感じたり、昔からの風習に接してくれればとの思いから、七草がゆを作ってくれました。お昼のご飯をおかゆにするとおなかがすいてしまうかもしれないという配慮から、おやつにしたようでした。そんな心遣いが嬉しく感じられました。

七草がゆを食べつつ「なんではっぱがはいってんの?」と聞く子どもたちに、「これは七草がゆといってね・・・」と保育士が説明している様子がとてもステキに感じられ、

「あっ!ちっちゃい大根が入ってる!」と目を輝かせている子どもの笑顔が印象的でした。

冬休みの小学生

2013/01/07

今朝は少し温かく、気温は0度でした。氷点下になるのと0度でとどまるのではずいぶん体感温度が異なります。園児たちもたくさん登園してきました。3・4・5歳児は午前中にお寺の本殿まで新春のお参りに行ったので、0・1・2歳の子どもたちと園でお参りをしました。小さいながらみんなそれぞれにお参りをしていましたが、やはり大きな鏡餅が気になったようで、お参りのあとみんなで触ってみました。持って見ると思っていたより重くて、びっくりしていた子もあったようです。

     今日の予定は・・・

小学生はまだ冬休み中なので、学童保育には15名ほどの小学生が遊びに来てくれました。たくさん集まってくれて嬉しく思います。朝に行ってみると、ちょうどお参りをしているところでした。お経を唱えるまではしませんが、全員で座って今日一日よろしくお願いしますとお祈りをします。みんな心を落ち着けて静かにお祈りをしていました。
その後、全員で車座に座り、出欠の確認と自分で決めた今日の予定をそれぞれ発表します。朝から勉強をする子、午後にする子と様々ですが、自分の決めたペースで、自分の気の合う友だちと、楽しんでいたようです。

     すごろく作り


担当の保育士が、小学生もずいぶんいろいろなことをしてきて、少し飽きてきたところもあるので、いろいろなことができるように環境を豊かにする必要がありそうだと言っていました。子どもたちに合わせて環境を変えてゆかないと、子どもたちは遊ばなくなります。いつも同じものばかりでは飽きてしまいます。限られたスペースと資材で、いかに多様な環境を作り出すか、選択肢の用意の仕方や提示の仕方も含めて、保育者の腕の見せ所かもしれません。担当の保育士は、かなり具体的なプランを立ててくれていたので、できることから形にしてゆけば良いのです。ここで行動を起こさないと形になりません。

     すごろくのコマ

ここで止まってしまうことが多いので、そうならないようにみんなで一緒に形にしてゆけると良いと思います。

小学生はといえば、自分たちのオリジナル双六を作っていいる子、じゃんけんで負けたら足を少しずつ開いていって、先におしりをついた方が負けるというゲームを考えて楽しんでいる子、ブロックで何か作っている子、ジグソーパズルに取り組んでいる子。それでもみんなそれぞれに楽しんでいたようです。
      
      

じゃんけんぽん! まだまだ大丈夫!

新年のあいさつ

2013/01/06

5日から保育がはじまり、子どもたちが登園してきました。小学校がまだ冬休みということと土曜日が重なって、お休みの子どもも多かったのですが、みんな元気そうに、楽しそうに登園してきてくれました。1週間ほど会わないだけなのにみんなとても大きくなったように感じます。新しい年を迎え一つ大きくなったのでしょう。

今ではあまり用いることは少なくなりましたが、数え年では生まれたときが1歳でお正月が来るたびに1つ年をとるという加齢方法がとられていました。12月31日に生まれた人は生まれた日に1歳で翌1月1日には2歳になるという計算です。小さい頃、「お正月がきたから一つ大きくなったね。」といわれ、何のことかよくわからなかったのを思い出します。

数え年が用いられた理由はいろいろとあるようですが、お母さんのおなかの中にいるあいだも、年齢に数えるからだという説があり、妙に納得しました。赤ちゃんは受精した瞬間からひとりの人として主体的に生きているという考え方からもうなずくことのできる話しです。

5日は土曜日でしたが、新年のあいさつも兼ねて、3・4・5歳児の子どもたちと朝のお参りをしました。「あけましておめでとうございます。」としっかりあいさつもしていましたし、いつになく真剣にお参りをしていました。お参りが終わると、お供えしてある鏡餅が気になっていたようだったので、一度みんなで見てみました。持ち上げて重さや固くなったお餅の感触を感じたり、乾燥して割れてしまっていることを見つけて、なぜ割れているの?なぜ丸いの?と疑問を持ったりしていました。

子どもの、不思議を見つける力と、探求心にはいつも感心させられます。子どもと同じようにとは行きませんが、いつも探求心を持っていたいものです。

丸ごと受けとめる

2013/01/05

全ての人が仏様になる性質「仏性」をもっているといわれます。仏様になれる性質、仏様と同じ部分があるということです。それと同時に人間でもあります。それどころか十界といって、ひとりの人間の中に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の性質をもっているといわれています。

あらゆる恐怖や苦痛につねに翻弄されている地獄、目の前の欲望だけに激しく支配される餓鬼、本能のままに動いている畜生、つねに武力によって戦い争っている修羅、平常心でいるときの人、様々な喜びを感じることができる天、仏法をはじめ様々なことを学ぶ声聞、仏法を聞いて悟りを得る縁覚、一切の衆生を救おうという慈悲の境地の菩薩、悟りを開いた仏です。
この地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界のひとつずつがそれぞれ十界の性質をもっている。このことを十界互具といいます。つまり、人は仏の性質を持つと同時に菩薩や地獄、餓鬼、畜生の性質も持っているということなのです。餓鬼のようになってむさぼったり、修羅のように争ったり、菩薩のように慈悲に満ちあふれたり・・・

自分自身をふり返ってみても、そんないろいろな心の状態になっていると思います。もちろんいつも菩薩様や仏様の心でいられれば良いのですが、なかなかそうはいきません。しかし、反対に地獄や餓鬼などの性質がないとそれがどんなものかはわかりません。同じ気持ちになって寄り添い、相手を理解することができないのだと思います。

仏様や菩薩様の心を持っている自分もいれば、地獄、餓鬼、畜生の心を持っている自分もいる。どうしても嫌な自分をなかったことにしたり、蓋をして見ないようにしたり、自分の影の部分から目を背けようとしてしまいます。そのことを見つめ、まるごと受け入れ、認めることが必要なのだと思います。自分自身を丸ごと認めることなしには、誰かをまるごと認めることはできないのでしょう。まずは自分に向き合う必要がありそうです。難しい、しかし避けては通れない課題ですね。

本心

2013/01/04

1月4日の朝は本格的な積雪になりました。といっても10センチから15センチくらいの積雪量です。今朝の気温は氷点下3度でした。日中も雪が降り続き気温は1日中氷点下でした。朝から1時間ほど雪かきをしたあとで最初に雪かきをしたところに戻ってみると、既にうっすらと雪が積もっています。雪かきはたいていこんな感じです。

でも、朝から身体を動かしたのでとてもさわやかでした。枝からさらさらと落ちる雪が朝日を受けてきらきらと輝く美しさに出会うこともできました。自然の姿は美しいですね。

真っ白な雪のように純粋な本心、誰もがそんな心を持っているのだと思います。全ての人がそれぞれに持っているステキな部分です。そんなステキな部分をしっかりと見つめられると良いと思います。

「気になる子ども」ということばがよく使われます。もちろん、特別なケアが必要な子もいますが、大人の価値観に合わないと気になってしまうこともあるように思います。一人ひとり違う子どもの一人ひとりの純粋な本心を見つめることができれば、どんなにステキでしょう。

法華経というお経の中に常不軽菩薩品という部分があります。常不軽菩薩という菩薩が、全ての人を「あなたは仏様になる方です」と尊び拝んだということが書かれています。常不軽という名が表すように、常に全ての人を尊び軽んずることがない。たとえ罵られても傷つけられても、常に全ての人を礼拝するという行を行った菩薩です。
法華経などの大乗仏教の経典では、全ての人が仏様になる性質「仏性」を持っているということが説かれます。

それぞれが持っている、純粋な本心はこの「仏性」に通じるように思います。常不軽菩薩のようにはできませんが、全ての人を尊ぶ心を持てると良いと思います。そうすれば、誰あろうその人自身がもっとも幸せになれるのではないではないでしょうか。

自分に素直に

2013/01/03

こうありたい自分、ああなりたい自分、目標をもって努力することは、大切なことだと思います。

しかし、「〜でなければならない!」と頑になってしまったり、肩に力が入りすぎると、無理が生じてきます。あまり自分が無理をしすぎると、あれもしなければならない、これもしなければならないと負担感ばかり大きくなって、楽しくなくなってしまいます。そうなると、ついつい周りの人たちにも無理をさせようとしてしまい、周りの人も楽しくなくなってしまいます。

そうならないためにも、自分の本心のままに、自分の本心に素直に考え、話し、行動すると良いのかもしれません。「自分に素直に」ということです。

どうしても、「園長はこうあるべきだ」という立場で話をしたり、「人からよく見られたい」という我欲から、様々な都合やしがらみに縛られ、変な計算をしてしまったり、事情に流されてしまいます。そういう余計なことに気持ちを使ってしまうことで、自分の本心が見えなくなってしまうのだと思います。

自分に素直にというと、気まま、わがまま、好き勝手と誤解されそうですが、そうではなく、自分自身の心の奥底にいる本来の自分の声を聞く、言い換えれば、魂の声を聞くということなのかもしれません。

人は一人ひとり異なる存在です。ということは、一人ひとり自分の役割を持って生まれてきているのです。だから、ひとり一人がそれぞれに尊いのです。その本来の役割というのか使命というのか、それを果たす事が幸せや楽しさにつながるのではないでしょうか。その人にしかない役割、使命に忠実に生きる。そのことが自分に素直にということだと思います。言い換えれば、しっかりと自分の魂に向き合うことなのかもしれません。

しかし、自分自身というのはとてもわかりにくいものです。自分の本心とは何か、自分の魂は何を求めているのか。自分の使命は何か。それを知るためには、周りにくっついた余計なものをはがしてゆく、取り除いてゆく必要があります。というより、余計なものは見ないで本心だけを見つめることができれば良いのだと思います。いつもいつも自分に問いかけることがその方法なのかもしれません。

やわらかく・あかるく・あたたかく

2013/01/02

元旦の初日の出を拝むことができました。太陽からの強くまぶしい光と温かさが心まで届き、今まですっきりしなかった部分を照らし出し、氷のように固まっていたものを少し溶かしてくれたように感じました。太陽のように明るく温かい心でいなさいということだと感じました。

2日の朝は前日のような冷え込みは和らぎました。空はよく晴れていましたが、山々には少し雲か霧がかかっていたのでしょう、近くの山は濃い色に、遠くの峰は薄くかすみ、濃淡のグラデーションがまるで水墨画のお手本のようです。

比叡山の上に、オレンジ色のまあるい太陽が昇ってきました。昨日のように眩しく強い光ではなく、穏やかな美しさです。

強く輝くときもあれば、やわらかい光で包んでくれることもある太陽。内に明るく強い光と熱さや温かさを、外にはやわらかい光と温かさ。心に太陽ではありませんが、そういられると良いと望んでしまいます。

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