2013年 1月

対話するって?

2013/01/21

携帯電話やメールが発達したこともその要因かもしれませんが、相手と対面してコミュニケーションすることが少なくなっています。息づかいや表情、目線で伝わるものが多いのに、それは対面しなくてはそれは伝わりません。

対話の対という文字はもともとは「對」で鋸刃のついた道具を手に持って土をうち固める姿を現しています。二人が向かい合って土をうちかためたことから、「むかう、あう、こたえる」という意味に使うようになったそうです。

相手と向かい合わず、携帯やスマホの画面ばかりを見ていることが視界を狭め、閉じこもる方向に向かいう可能性があります。そのことが周りを排除することにつながり、排除は自分の中でのバランスを欠いたときに外への暴力に変わる可能性があるそうです。「バーミヤンの大仏を破壊したタリバン、テロに対する暴力の応酬も、ヒステリックな排除の論理につながっています。」(京都新聞1月7日朝刊)と長倉洋海さんはいいます。

面と向かって話しをする、対話による相互理解、相手を排除するのではなく、相手を受けとめようとする姿勢、理解しようとする態度が必要なのに、排除しようとしてしまうのはなぜなのでしょうか。

イスラムの「ジハード(聖戦)」には二つあって、敵と戦う小ジハードと、自分の弱い所、エゴイスティックな部分と戦う大ジハードがある。対話する以上、まず自らに問いかけなくてはいけない。その前提がないと意見はぶつかり合うだけです。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉さんは言います。

対話の最初は自らに問いかけることなのかもしれません。自分の弱い所、エゴイスティックな部分、つまり我欲に流されて発信するのか、本当の自分というか、自分は真摯に自らの役割を果たそうとして発信しようとしているのか、常に自分に矢印を向けて考えてから、真心の自分の声を聴いてから発信しようとしているのかを見極めなくてははならないということなのだと理解しました。

でもどうしても、我欲に引きずられた弱い自分で発信してしまいがちなのです。わかっているつもりでも、わかっていない自分がいるのも事実です。「我欲に持って行かれることもある自分もいる。」それも含めて自分自身なんだと心の底から思える、自分自身を丸ごと受けとめられる自分でいたいと思いますが、簡単にはできそうにありません。

未来を共有する視点

2013/01/20

フォトジャーナリストの長倉洋海さん。戦場にカメラを向ける一方で、力強く生きる人々を様々な地域で撮り続けています。京都新聞社会面の新春企画「対話のカタチ」(1月7日朝刊)で長倉さんの印象的なことばが綴られていて心を動かされました。

まず、アマゾンの先住民クレナック族のことが紹介されています。勇敢な部族として知られているクレナック族は、土地と資源を求めてやってきた白人の入植者とは最後まで戦わずに故郷を去ったという話です。白人が来たときクレナック族が最初にしたのは、「戦いはやめよう」とみんなで念じた、懸命に祈ったそうです。人を憎んだり、暴力をふるったり、嫉妬したりすると自分の輝きが落ちてゆく、戦いは自分の魂をも傷つけると彼らは考えるそうです。白人には通じなかったけれど、相手と通じ合おうとする気持ちは大事なのです。とあります。

究極の祈りであり、相手を受けとめようとする姿勢です。戦わないという信念を守り、故郷を去ったというのですからその覚悟は想像することもできません。

そして、
神や精霊、先祖、自然に根付いた豊かな精神世界が薄れるなか、日本人は地球とも対話していない。現代社会は自然との間にフィルターを作って直接感じ合わない。地球のリズムに合わせるゆとりがない。と自然を感じたり精神世界に思いを馳せることが少なくなっていることを指摘しています。

南米インディオやニューギニア、北シベリアの先住民たちは鳥や獣、巨木、水などさまざまな「命」に話しかけます。クレナック族は「人間は死ぬと、すべてを創造するエネルギーの塊のもとに帰る」という。肉体はたかだか50年から100年だけど、精神のつながりはもっと広く伸びてゆく。未来を共有している。一つの豊かさがそこにあります。(引用)

ここを読んで、どうしても近視眼的に目の前のことだけに対処しよう、そこだけを何とかしようとしてしまいがちになってはいないか。ふり返って見ました。未来を共有する他の命のことにも思いを馳せる、広く高い視野が必要なのだと思います。子どもを育てることにこそそういう視点が必要なのではないでしょうか。

久しぶりの畑

2013/01/19

強い寒気が入ってきて、1月18日は朝から雪になりました。久しぶりの積雪です。一日中雪が降り続き、寒い日になりました。夕方には雪はやみましたが、夜には更に冷え込み19日の朝の気温は氷点下4度くらいでした。雪はすっかり止んで、美しい青空が広がり、残った雪の白とのコントラストが美しい朝となりました。

たまっていた事務仕事を少し片付けて、久しぶりに畑に行ってみました。年末年始はバタバタしていて、畑の作物たちが気になりながら見に行くことができなかったからです。

猿に全て食べられたと思って、そのままにしていた豆には、サヤの中に実が残っているものもあったので、すべて刈り取って、残っている実を収穫しました。霜や雪にあっていますし発芽するのかどうかはわかりませんが貴重な黒豆です。乾かして春には蒔いてみようと思います。とてもおいしい黒豆が実ることを期待してつつ。

 8センチくらいの大きさになった麦


黒豆の足下に種を蒔いた小麦がしばらく見ないうちに少し大きくなりました。豆を刈り取るのにうろうろしていたら麦を踏んでしまっていたようです。麦踏みというのがありますが、麦を踏むことで、霜柱などで根が浮き上がってしまっている場合には根を土の中に押し戻す効果があるそうです。そして、もうひとつの麦踏みをする理由は、麦の茎を太く強くすることです。踏むことによって傷口からエチレンとうい物質が放出され、これが茎を太くする作用があるのです。茎は太くなりますが背はあまり高くならないので、実が実ったときに倒れにくくなるのです。また、株が分かれて枝が増える効果もあるそうです。

  ほうれんそうも大きくなりました

たまたま踏んでしまって、後から麦踏みのことを思いだしたのでは、麦に失礼ですね。今度は心を込めて踏んであげようと思います。

となりに蒔いていたほうれんそうも少し大きくなっていました。寒いのでとてもゆっくりですが、確実に成長しています。まだまだ食べられそうにはありませんが、じっくりと見守ってゆこうと思います。雪の間から出ている葉もありました。

えんどう豆も芽を出して、3センチくらいの大きさに育っていました。こんなに寒いのによく頑張ってくれています。思わず「寒いのに頑張ってるんだね」と声をかけてしまいました。

えんどう豆も芽を出して育っていました

やはり、蒔き時を間違えたにんじんはさすがに芽を出していないようです。

寒くても、季節は進み、作物はゆっくりゆっくりですが、着実に生長しています。自然のいとなみやいのちの力強さを改めて感じました。

お猿のその後

2013/01/18

昨秋、突然現れた猿。20日間ほど当園のまわりをうろうろして、園児と遊びたくては近づいて来ていたのですが、園児には怖がり保護者の皆様も困っていらっしゃいました。そこで、猿がよく出没する朝夕には、私が猿を追いはらう役をしていました。それも、いつまでも続けるわけにもゆかず、困ったとな思っていたのですが12月の上旬に無事に保護されました。しかし、最終的な行き先がなかなか見つからず、紆余曲折しましたがようやく引取先が見つかりホッとしました。

多くの方々がこの猿のためにいろいろと心をつかって、力を尽くしてくださいました。みんなの気持ちと力が合わされば、困難があっても乗り越えられるのだと思いました。

いろいろ大変なこともありましたが、今回猿が現れたことで多くの人々の優しさに接することができ、とても温かい気持ちになりました。当園の職員もそれぞれに心配してくれていましたし、アイデアを出してくれる人もいました。とてもたくさんの人が心配し、忙しいのに力を尽くしてくださったのです。みんなに気にしてもらって、ほんとうに幸せな猿です。

引き取られていった先の施設では、鞍馬から来たから「くらのすけ」という名前までつけてもらって、他の猿と共に暮らしているそうです。聞いた話によると、先輩の猿にも仲良くしてもらっているようで、友だちもできたそうです。猿にとって最も良いところに落ち着けたと思います。

いつか、機会があったら会いに行きたいと思います。もしかしたら、向こうから会いに来てくれるかもしれません。

かがみもち

2013/01/17

 一生懸命切っていらっしゃいます

1月15日は小正月でこの日までを松の内とかしめのうちといい、門松やしめ縄を飾っておくとされています。関東地方では1月7日までだされているそうです。

お正月のお飾りには門松、しめ縄、鏡餅などいろいろあります。園でも大きな鏡餅をお供えしましたし、お寺でもお正月には鏡餅をお供えします。とてもたくさんのお餅なので、お供えしたあとのお餅はあられになります。

ご奉仕の皆さんが、何日かかけてお餅を切ってくださいます。大きな鏡餅を巨大な押し切りであら切りし、

   こうして切って仕上げます

次に1センチくらいの厚みの板状に切ります。そして更にそれを棒状に切ってから最終的に1センチ角の大きさにまで切るのです。

なにしろ量が多いので、時間もかかり1日中作業をしているとかなり疲れます。そのうえ、固くなった鏡餅でも切れるほどの鋭利な刃物を扱うので、気が抜けません。それでも多くの方が交代で、切ってくださるのです。

そうやって切り上がったお餅は少し乾かしたあと、業者さんにお願いして、あられに焼き上げていただきます。

  こんなにたくさんあります

焼き上がったあられは袋に詰めてご縁のある方々に配られるのです。お陰様で毎年、園にもいただいています。

このあられはとてもおいしいので、毎年楽しみです。お供えの鏡餅を、多くの方々が心を込めて切ってくださり、天然の調味料だけを使って焼き上げたあられなので、おいしくないわけがありません。

あられだけいただいてもおいしいのですが、節分の年の豆と一緒にいただくとまたちがったおいしさを味わうことができます。

今年もおいしくできあがると思います。今からとっても楽しみです。

正月

2013/01/16

お正月というと何日までをイメージしますか。1月1日から3日の三が日でしょうか。松の内やしめのうちといわれる1月7日もしくは15日まででしょうか。それとも、お仕事がお休みの間でしょうか。もちろん1月は1日から31日までですが、「正月」ということばから思い起こすイメージはいろいろありそうです。

正月は年神様を迎えて五穀豊穣や無病息災を祈った行事で、門松やしめ縄、鏡餅は年神様を迎えるためのものだともいわれます。そして、迎えた年神様と一緒に過ごします。お正月のおせち料理をいただくのに、柳箸という丸くて両端が細くなったお箸を使います。これは、一方を人間がもう一方を神様が使うという意味があるのです。柳箸というのは柳の木を用いて作られているからですが、柳の木は木肌が白く事物を清浄にして邪気を払うとされています。また、春一番に芽を出すことから生命力が強い縁起の良いともされています。

こうして年の初めを一緒に過ごした神様を送るために、左義長やとんど焼きなどが行われしめ縄や門松などを火にあげられます。様々な風習に様々な意味が込められ、昔から伝わっています。

昔は様々なことが神様と共に行われていたのですね。今も受け継がれている風習があるのですから、そのこころを思い直してみると良いのかもしれません。神様というと迷信とか非科学的とか言われそうですが、目に見えないものはないわけではありません。最近は目に見えないものやことの方こそが重要な気がしています。

丁寧に

2013/01/15

1月12日と13日は、京都ではこの時期にはめずらしい暖かい日が続きましたが14日は強い雨が1日中降っていました。夜に首都圏が大雪というニュースが流れていて驚きました。交通機関も混乱し成人式とも重なって大変だったようです。奈良県や和歌山県など近畿南部でもかなりの積雪になったようでした。みなさん大丈夫だったでしょうか。

鞍馬では夜になって雷が鳴ったのを境に気温が下がり、雨が雪に変わり、朝には雪がうっすらと積もっていました。実はこれは山上の話で、保育園のある山麓ではほとんど積雪がありませんでした。山の上と下でも状況が全く違います。

話は変わりますが、当園はお寺の境内にあります。ですから、園舎の外観もできるだけ景観にマッチするようなデザインになっています。園庭のすべりだいや登のぼり棒も茶色と緑という地味な色にしています。

玄関の横に塀があるのですが、それも板塀です。大和打ち板塀とか大和塀という種類です。柱を立てて柱と柱の間をつなぐ材(横胴縁)をとりつけ、その両側に交互に板を張り付けてゆく構造になっています。表の板と裏の板の間に胴縁の厚み分だけすき間ができるので、向こう側は見えないけれども、風は通るという特徴があります。

先日、玄関から園舎に入ろうとして塀を見ると、どこかいつもと違う感じがしたので、よく見てみると、塀の板の片面が外されていて向こう側が見えるのです。何が起こったのかと思い近づいてみたら、塗装をした跡があります。そういえば以前用務員さんに塗装をして欲しいと頼んでおいたのを思い出しました。塀の下の部分が雨や雪で濡れて乾きにくく、そのまま放置すると傷みが早くなりそうだったので、汚れを落としてから塗装をし直して欲しいという話をしていたのでした。

しかしまさか塀の板を外してまで行うとは思っていなかったのでちょっと驚くとともに嬉しく思いました。板を取り付けたままだと、塗りムラができてしまうので、それを避けたかったそうです。丁寧に美しく仕上げたいという彼のこだわりと、根気には脱帽です。

伝える 受けとめる

2013/01/14

外交でも「相手の考えを聞き理解しようとする姿勢を長年続ければ、人脈も広がります。」と東郷氏。

理解のためには、発信する必要があります。受けとめるといっても黙っているだけでは、相互理解にはなりません。時には議論することも必要です。あたりさわりのないところだけで話していては、うわべだけになるので、素直な本心を使って相手に伝えることが大切です。

「今の小学生はいじめられることを極端に恐れ、ボスや周りの空気に合わせ、目立たないように振る舞うという。恐ろしいことです。子どもたちが自分で意見を言わず、周りに合わせる生き方を続ければ社会は縮小する。」と東郷氏は言います。

そうであるなら、幼児期に自分の思うことを伝える経験をたくさんして欲しいと思います。そのためには、まず子どもの言葉をしっかりと聴く必要があります。聴いてもらえるからこそ、子どもは話そうとするし、聴こうとするようになるのです。

「違った人間がいることをたがいにみとめ、火花を散らすことによって人間は成長する。若いうちから本を読んでものを考えろと、言葉を勉強して外国に出て自分の目で見てみろと。自分は自分であっていいんだと伝えていきたいですね。」と記事は締めくくられています。

当園の目指す子ども像には、「相手を受けとめられる子」「自分の想いを伝えられる子」という項目があります。相手を丸ごと受けとめ、真心で伝えられるそうなるためには、心を開いて伝えたことを丸ごと受けとめられることをたくさん経験してほしいと思っています。

51対49

2013/01/13

元外交官 東郷和彦氏へのインタビュー記事「対話のカタチ」2(京都新聞1月4日)を読んで、感じたことを書かせていただいています。理解すること、理解しようと努力し続けることの大切さを改めて心に思いました。そこから信頼関係が生まれてくるのですね。

東郷氏は祖父から三代続く外交官だそうです。東郷氏の祖父が大切にしていたことが取り上げられていました。それは「51対49」の哲学です。外交官は交渉の最前線にいて、相手の主張の本質や相手が譲れない線を一番よく知る立場にいます。相手に51を譲り、こちらは49で満足する気持ちで国内を説得することが、長い目で自国にとって一番良い結果になるという信念なのだそうです。

自分が51ではなく相手が51なのですね。どうしても、自分の考えを押し付けようとしたり、相手を自分の思うように動かそうとしてしまいます。それは「我」の自分が、我欲を通したいためにそうしてしまうからです。51どころか、80、90までも自分の思うようにしたくなります。でも、「我」の自分に流されているかぎりは、何も変わらないのでしょう。先ずは相手を受けとめ、理解しようとする努力が必要なのでしょう。そこから始まるのです。

子どもも、大人の思うようにしようなどと思ったら、無理が生じます。かといって放任してしまうと育つことができません。その子を丸ごと信じて受けとめ、その子が最も輝けるところを、磨き出せるようにサポートしたいものです。

本心で受けとめ理解する

2013/01/12

「相手を理解すること、それが外交において一番重要なこと」元外交官の東郷和彦氏は言います。

外交交渉と聞くと、自国の利益のために相手に条件をのませるといたイメージが強かったのですが、そうではなく相手を理解することが最も大切だというのです。当然といえば当然なのかもしれませんが、相手を本当に理解するというのはとても難しいことだと思います。相手を理解することは相手を受けとめることから始まるのでしょう。

自らが心を固く閉ざして相手を理解しようとせず、自分の考えだけを押し付ければ、相手も心を閉ざして主張するだけになってしまうかもしれません。そうなればただのぶつかり合いです。そこから良いものが生まれてくることは少ないでしょう。外交などといわず、日常生活でもよくあることです。

どうしても思い込みにとらわれている自分がいて、相手にもそれをさせようとしてしまうのです。それは、オレが(我)、わたしが(我)という「我欲」にとらわれ、動かされている自分がそうしているのではないでしょうか。

かといって、自分を殺して相手に合わせるのではなく、「我」にとらわれない自分の本心に素直でいる。素直な心で、相手を受けとめる、受けとめよう、理解しようとする姿勢をもつことができると良いと思います。

本心の自分と「我」にとらわれている自分、今の自分はどちらの自分なのか、いつも自分に問い続けていると、本心の自分がわかってくるのかもしれません。本心の自分で「受けとめよう、理解しよう」を実践してゆきたいものです。

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