shigaraki (鞍馬山保育園 の投稿者) - 113ページ目 (186ページ中)

想像力

2013/01/22

単純なことなんだけど、僕たちは地球の上に生きていて、生かされている。地球がないと生きられない。だから、生き続けるにはどうしたらいいか、そこが立脚点です。国境は地球が引いたのではなく、人間が作ったもの。風は国境を越えて感じられます。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉洋海さんは言います。

あたりまえといえば、あたりまえのことです。でも、みんなが心からそう考えてそう行動しているでしょうか。地球がなくなってしまったら、なくならなくても環境が激変したら、みんな生きてゆくこと自体ができなくなってしまうのです。

震災では大量の放射能が太平洋にまき散らされました。日本はロシアやアメリカへ詫びにいったけれど、カヌーでマグロを捕って生活している海洋国家ミクロネシアなど小さな国にはだれ一人行っていない。それでも、テレビの普及率が千人に1台のニューギニアの村で、震災のニュースを見て23万円分の寄付が集まりました。日本は世界の大国しか相手にしていないから想像力も細っていく。同質な国だけでなく、多様な国と出会って対話する中で日本人というものが見えてきます。
大人はいろんな関係があって簡単には変われません。僕が期待しているのは子どもたちです。しがらみがないですから。彼らが地球への思いを持ち続けてくれれば、少しずつでも世界は変わるはずです。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉さんのことばは、締めくくられています。

多様な人や国と目には見えないところでつながっている。そのことに思いを馳せる想像力が必要なのに、目の前に見えることだけを短い時間のスパンで見てしまう癖がついているのかもしれません。いろいろな人たちがいて、多様な価値観があることを、多様な人たちと接して対話することによって感じ取る必要がありそうです。

長倉さんは、子どもたちに期待すると言っています。子どもたちに期待するためには、乳幼児期にもっている豊かな想像力を、思う存分発揮できる環境を用意すること。子どもを管理し、大人の思うようにさせようとするのではなく、子どもが思う存分自分を発揮して、ぶつかり合ったら自分たちで対話して解決してゆくということ経験をたくさんしておくことが大切なのだと思います。ついつい大人の思うように子どもを管理する。大人にとって都合の良いように子どもをコントロールしがちなのではないでしょうか。子どもがひとりの主体的な人として育つことが大切だと思うなら、小さいときからそれを体験している必要があります。

対話するって?

2013/01/21

携帯電話やメールが発達したこともその要因かもしれませんが、相手と対面してコミュニケーションすることが少なくなっています。息づかいや表情、目線で伝わるものが多いのに、それは対面しなくてはそれは伝わりません。

対話の対という文字はもともとは「對」で鋸刃のついた道具を手に持って土をうち固める姿を現しています。二人が向かい合って土をうちかためたことから、「むかう、あう、こたえる」という意味に使うようになったそうです。

相手と向かい合わず、携帯やスマホの画面ばかりを見ていることが視界を狭め、閉じこもる方向に向かいう可能性があります。そのことが周りを排除することにつながり、排除は自分の中でのバランスを欠いたときに外への暴力に変わる可能性があるそうです。「バーミヤンの大仏を破壊したタリバン、テロに対する暴力の応酬も、ヒステリックな排除の論理につながっています。」(京都新聞1月7日朝刊)と長倉洋海さんはいいます。

面と向かって話しをする、対話による相互理解、相手を排除するのではなく、相手を受けとめようとする姿勢、理解しようとする態度が必要なのに、排除しようとしてしまうのはなぜなのでしょうか。

イスラムの「ジハード(聖戦)」には二つあって、敵と戦う小ジハードと、自分の弱い所、エゴイスティックな部分と戦う大ジハードがある。対話する以上、まず自らに問いかけなくてはいけない。その前提がないと意見はぶつかり合うだけです。(京都新聞1月7日朝刊)と長倉さんは言います。

対話の最初は自らに問いかけることなのかもしれません。自分の弱い所、エゴイスティックな部分、つまり我欲に流されて発信するのか、本当の自分というか、自分は真摯に自らの役割を果たそうとして発信しようとしているのか、常に自分に矢印を向けて考えてから、真心の自分の声を聴いてから発信しようとしているのかを見極めなくてははならないということなのだと理解しました。

でもどうしても、我欲に引きずられた弱い自分で発信してしまいがちなのです。わかっているつもりでも、わかっていない自分がいるのも事実です。「我欲に持って行かれることもある自分もいる。」それも含めて自分自身なんだと心の底から思える、自分自身を丸ごと受けとめられる自分でいたいと思いますが、簡単にはできそうにありません。

未来を共有する視点

2013/01/20

フォトジャーナリストの長倉洋海さん。戦場にカメラを向ける一方で、力強く生きる人々を様々な地域で撮り続けています。京都新聞社会面の新春企画「対話のカタチ」(1月7日朝刊)で長倉さんの印象的なことばが綴られていて心を動かされました。

まず、アマゾンの先住民クレナック族のことが紹介されています。勇敢な部族として知られているクレナック族は、土地と資源を求めてやってきた白人の入植者とは最後まで戦わずに故郷を去ったという話です。白人が来たときクレナック族が最初にしたのは、「戦いはやめよう」とみんなで念じた、懸命に祈ったそうです。人を憎んだり、暴力をふるったり、嫉妬したりすると自分の輝きが落ちてゆく、戦いは自分の魂をも傷つけると彼らは考えるそうです。白人には通じなかったけれど、相手と通じ合おうとする気持ちは大事なのです。とあります。

究極の祈りであり、相手を受けとめようとする姿勢です。戦わないという信念を守り、故郷を去ったというのですからその覚悟は想像することもできません。

そして、
神や精霊、先祖、自然に根付いた豊かな精神世界が薄れるなか、日本人は地球とも対話していない。現代社会は自然との間にフィルターを作って直接感じ合わない。地球のリズムに合わせるゆとりがない。と自然を感じたり精神世界に思いを馳せることが少なくなっていることを指摘しています。

南米インディオやニューギニア、北シベリアの先住民たちは鳥や獣、巨木、水などさまざまな「命」に話しかけます。クレナック族は「人間は死ぬと、すべてを創造するエネルギーの塊のもとに帰る」という。肉体はたかだか50年から100年だけど、精神のつながりはもっと広く伸びてゆく。未来を共有している。一つの豊かさがそこにあります。(引用)

ここを読んで、どうしても近視眼的に目の前のことだけに対処しよう、そこだけを何とかしようとしてしまいがちになってはいないか。ふり返って見ました。未来を共有する他の命のことにも思いを馳せる、広く高い視野が必要なのだと思います。子どもを育てることにこそそういう視点が必要なのではないでしょうか。

久しぶりの畑

2013/01/19

強い寒気が入ってきて、1月18日は朝から雪になりました。久しぶりの積雪です。一日中雪が降り続き、寒い日になりました。夕方には雪はやみましたが、夜には更に冷え込み19日の朝の気温は氷点下4度くらいでした。雪はすっかり止んで、美しい青空が広がり、残った雪の白とのコントラストが美しい朝となりました。

たまっていた事務仕事を少し片付けて、久しぶりに畑に行ってみました。年末年始はバタバタしていて、畑の作物たちが気になりながら見に行くことができなかったからです。

猿に全て食べられたと思って、そのままにしていた豆には、サヤの中に実が残っているものもあったので、すべて刈り取って、残っている実を収穫しました。霜や雪にあっていますし発芽するのかどうかはわかりませんが貴重な黒豆です。乾かして春には蒔いてみようと思います。とてもおいしい黒豆が実ることを期待してつつ。

 8センチくらいの大きさになった麦


黒豆の足下に種を蒔いた小麦がしばらく見ないうちに少し大きくなりました。豆を刈り取るのにうろうろしていたら麦を踏んでしまっていたようです。麦踏みというのがありますが、麦を踏むことで、霜柱などで根が浮き上がってしまっている場合には根を土の中に押し戻す効果があるそうです。そして、もうひとつの麦踏みをする理由は、麦の茎を太く強くすることです。踏むことによって傷口からエチレンとうい物質が放出され、これが茎を太くする作用があるのです。茎は太くなりますが背はあまり高くならないので、実が実ったときに倒れにくくなるのです。また、株が分かれて枝が増える効果もあるそうです。

  ほうれんそうも大きくなりました

たまたま踏んでしまって、後から麦踏みのことを思いだしたのでは、麦に失礼ですね。今度は心を込めて踏んであげようと思います。

となりに蒔いていたほうれんそうも少し大きくなっていました。寒いのでとてもゆっくりですが、確実に成長しています。まだまだ食べられそうにはありませんが、じっくりと見守ってゆこうと思います。雪の間から出ている葉もありました。

えんどう豆も芽を出して、3センチくらいの大きさに育っていました。こんなに寒いのによく頑張ってくれています。思わず「寒いのに頑張ってるんだね」と声をかけてしまいました。

えんどう豆も芽を出して育っていました

やはり、蒔き時を間違えたにんじんはさすがに芽を出していないようです。

寒くても、季節は進み、作物はゆっくりゆっくりですが、着実に生長しています。自然のいとなみやいのちの力強さを改めて感じました。

お猿のその後

2013/01/18

昨秋、突然現れた猿。20日間ほど当園のまわりをうろうろして、園児と遊びたくては近づいて来ていたのですが、園児には怖がり保護者の皆様も困っていらっしゃいました。そこで、猿がよく出没する朝夕には、私が猿を追いはらう役をしていました。それも、いつまでも続けるわけにもゆかず、困ったとな思っていたのですが12月の上旬に無事に保護されました。しかし、最終的な行き先がなかなか見つからず、紆余曲折しましたがようやく引取先が見つかりホッとしました。

多くの方々がこの猿のためにいろいろと心をつかって、力を尽くしてくださいました。みんなの気持ちと力が合わされば、困難があっても乗り越えられるのだと思いました。

いろいろ大変なこともありましたが、今回猿が現れたことで多くの人々の優しさに接することができ、とても温かい気持ちになりました。当園の職員もそれぞれに心配してくれていましたし、アイデアを出してくれる人もいました。とてもたくさんの人が心配し、忙しいのに力を尽くしてくださったのです。みんなに気にしてもらって、ほんとうに幸せな猿です。

引き取られていった先の施設では、鞍馬から来たから「くらのすけ」という名前までつけてもらって、他の猿と共に暮らしているそうです。聞いた話によると、先輩の猿にも仲良くしてもらっているようで、友だちもできたそうです。猿にとって最も良いところに落ち着けたと思います。

いつか、機会があったら会いに行きたいと思います。もしかしたら、向こうから会いに来てくれるかもしれません。

お猿の鞍之助の知らせを聞いて

2013/01/18

人間の勝手でいらなくなったら捨てられる。

決してお猿さんが悪いわけじゃないのに、猿の群れに帰れるわけもなく鞍馬をさまよい続けていたお猿さんのことを知った時は、なんとかならないのかと胸が痛かった〜

でも無事に保護されてやっと面倒を見て下さるところが見つかったと聞いた時は嬉しかったです。

今では、保護されたところで鞍馬から来たから鞍之介君という名前まで頂いて元気にしているそうです。

更に嬉しかったのは、面倒を見たり、遊んだりしてくれる先輩猿の友達ができたと、園長先生から聞いたことです。

もう一人じゃなく、遊べる仲間ができた鞍之助君。本当に良かったです。

雪情報

2013/01/18

2013年1月18日(金)道路・雪情報

積雪量:約5〜10センチ

雪が積もっています。十分注意してください。

     修養道場前

      鞍馬街道

かがみもち

2013/01/17

 一生懸命切っていらっしゃいます

1月15日は小正月でこの日までを松の内とかしめのうちといい、門松やしめ縄を飾っておくとされています。関東地方では1月7日までだされているそうです。

お正月のお飾りには門松、しめ縄、鏡餅などいろいろあります。園でも大きな鏡餅をお供えしましたし、お寺でもお正月には鏡餅をお供えします。とてもたくさんのお餅なので、お供えしたあとのお餅はあられになります。

ご奉仕の皆さんが、何日かかけてお餅を切ってくださいます。大きな鏡餅を巨大な押し切りであら切りし、

   こうして切って仕上げます

次に1センチくらいの厚みの板状に切ります。そして更にそれを棒状に切ってから最終的に1センチ角の大きさにまで切るのです。

なにしろ量が多いので、時間もかかり1日中作業をしているとかなり疲れます。そのうえ、固くなった鏡餅でも切れるほどの鋭利な刃物を扱うので、気が抜けません。それでも多くの方が交代で、切ってくださるのです。

そうやって切り上がったお餅は少し乾かしたあと、業者さんにお願いして、あられに焼き上げていただきます。

  こんなにたくさんあります

焼き上がったあられは袋に詰めてご縁のある方々に配られるのです。お陰様で毎年、園にもいただいています。

このあられはとてもおいしいので、毎年楽しみです。お供えの鏡餅を、多くの方々が心を込めて切ってくださり、天然の調味料だけを使って焼き上げたあられなので、おいしくないわけがありません。

あられだけいただいてもおいしいのですが、節分の年の豆と一緒にいただくとまたちがったおいしさを味わうことができます。

今年もおいしくできあがると思います。今からとっても楽しみです。

正月

2013/01/16

お正月というと何日までをイメージしますか。1月1日から3日の三が日でしょうか。松の内やしめのうちといわれる1月7日もしくは15日まででしょうか。それとも、お仕事がお休みの間でしょうか。もちろん1月は1日から31日までですが、「正月」ということばから思い起こすイメージはいろいろありそうです。

正月は年神様を迎えて五穀豊穣や無病息災を祈った行事で、門松やしめ縄、鏡餅は年神様を迎えるためのものだともいわれます。そして、迎えた年神様と一緒に過ごします。お正月のおせち料理をいただくのに、柳箸という丸くて両端が細くなったお箸を使います。これは、一方を人間がもう一方を神様が使うという意味があるのです。柳箸というのは柳の木を用いて作られているからですが、柳の木は木肌が白く事物を清浄にして邪気を払うとされています。また、春一番に芽を出すことから生命力が強い縁起の良いともされています。

こうして年の初めを一緒に過ごした神様を送るために、左義長やとんど焼きなどが行われしめ縄や門松などを火にあげられます。様々な風習に様々な意味が込められ、昔から伝わっています。

昔は様々なことが神様と共に行われていたのですね。今も受け継がれている風習があるのですから、そのこころを思い直してみると良いのかもしれません。神様というと迷信とか非科学的とか言われそうですが、目に見えないものはないわけではありません。最近は目に見えないものやことの方こそが重要な気がしています。

丁寧に

2013/01/15

1月12日と13日は、京都ではこの時期にはめずらしい暖かい日が続きましたが14日は強い雨が1日中降っていました。夜に首都圏が大雪というニュースが流れていて驚きました。交通機関も混乱し成人式とも重なって大変だったようです。奈良県や和歌山県など近畿南部でもかなりの積雪になったようでした。みなさん大丈夫だったでしょうか。

鞍馬では夜になって雷が鳴ったのを境に気温が下がり、雨が雪に変わり、朝には雪がうっすらと積もっていました。実はこれは山上の話で、保育園のある山麓ではほとんど積雪がありませんでした。山の上と下でも状況が全く違います。

話は変わりますが、当園はお寺の境内にあります。ですから、園舎の外観もできるだけ景観にマッチするようなデザインになっています。園庭のすべりだいや登のぼり棒も茶色と緑という地味な色にしています。

玄関の横に塀があるのですが、それも板塀です。大和打ち板塀とか大和塀という種類です。柱を立てて柱と柱の間をつなぐ材(横胴縁)をとりつけ、その両側に交互に板を張り付けてゆく構造になっています。表の板と裏の板の間に胴縁の厚み分だけすき間ができるので、向こう側は見えないけれども、風は通るという特徴があります。

先日、玄関から園舎に入ろうとして塀を見ると、どこかいつもと違う感じがしたので、よく見てみると、塀の板の片面が外されていて向こう側が見えるのです。何が起こったのかと思い近づいてみたら、塗装をした跡があります。そういえば以前用務員さんに塗装をして欲しいと頼んでおいたのを思い出しました。塀の下の部分が雨や雪で濡れて乾きにくく、そのまま放置すると傷みが早くなりそうだったので、汚れを落としてから塗装をし直して欲しいという話をしていたのでした。

しかしまさか塀の板を外してまで行うとは思っていなかったのでちょっと驚くとともに嬉しく思いました。板を取り付けたままだと、塗りムラができてしまうので、それを避けたかったそうです。丁寧に美しく仕上げたいという彼のこだわりと、根気には脱帽です。

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