2011年 10月

ケヤキ 少しだけわかったこと

2011/10/11

少し前のブログに、ケヤキの葉が軒並み茶色になっているということを書きました。もちろん今でもそのままです。詳しい人に話を聞いたり、調べてみたりしましたが、なぜ今の時期に突然茶色くなったのか、未だ理由はわかりません。

ただ、ケヤキは実を遠くまで飛ばすために何枚かの葉がついた小枝ごと落ちるということがわかりました。つまり、実は葉を翼にして飛んでゆくのです。

確かに、枯れて落ちる姿は小枝に葉が何枚かついた形で落ちており、葉の付け根に実がいくつかついています。実のつく小枝の葉は他の葉より少し小さいそうです。植物の生き残り戦略なのですね。

落葉樹は秋になると葉が色づいてやがて散ります。これは葉の付け根に離層という組織ができて養分や水分が通らなくなり、やがてそこから切り離されて散ってゆくそうです。ケヤキも実のつく小枝の根元に離層ができてそこから切り離されるという説があったので、そう思っていたら、ケヤキの小枝には離層は形成されないという説もあり、どちらが本当なのだろうと思いました。

また、ケヤキは何らかの理由で、枝をつけていることが不都合になるとかなり大きな枝でも自ら落とすのだという古老の話を聞いたこともあります。

自然は不思議なことがいっぱいで、身近な自然でもわからないことだらけです。

数枚の葉と実のついたケヤキの小枝

実の部分を拡大してみました

個人と集団

2011/10/10

保育園では「集団生活をしているから・・・」とか「集団行動をとらなくては・・・」と言うことばをよく耳にしますが、そういった場合、往々にして、皆に合わせなくてはならない。自分の意見を出すことなく、命令や大多数に合わせなければならない。といった統制的なニュアンスが感じられる気がします。自発的に何かをするのではなく、強制的なニュアンスが強いといってもよいのでしょうか。

個を無視した集団は、だれかが多くの人を支配したりするためには都合が良いのでしょう。そこには集団から離れたところに集団を支配する人がいて、みんなに何かを「やらせる」という構造があります。

一方、集団を構成する一人ひとりが、役割を分担してそれぞれに自分の力を発揮して、自発的に何かをする。目標のためにみんなが力を合わせるという、個が発揮される集団もあります。

例えば、運動会で行う組み体操も、全てを先生が決めて子どもを動かす。「こうしなさい」とやらせるやり方もあれば、今年当園で取り組んだように、できるだけ子どもたちが相談して決め、それぞれが力を合わせて行うやり方もあります。前者は一糸乱れぬ動きが美しいですし、統一感もありますが、どうしても子どもたちの「やらされ感」が強くなります。後者は見た目はぱっとしないこともありますが、それができあがるまでには、子どもどうしでアイデアを出しあったり、みんなで作り上げようという自発的な動きがあります。もちろんどちらにも一長一短がありますが、私は子どもの自発的な動きを大切にしたいと思っています。

個人を大切にするというと、みんなが相手のことなど考えずにそれぞれに自分の好き勝手なことをする、みんながバラバラでというイメージもあります。

「集団」に重きを置けば「個」は軽んじられ、「個」を大切にすれば「集団」は成り立たないのでしょうか。私はそんなことはないと思います。「個」が生きる「集団」が「個」を輝かせ、その「個」の輝きが「集団」をさらに輝かせるという、個と集団が高め合うという相互作用が働く集団もあると思います。

外からライトで照らされて光る集団よりも、一人ひとりが灯火のように輝くことで、全体が光る。鞍馬山保育園は子どもも保護者も職員も、みんんがそんな人の集まりでありたいと願っています。

力を合わせる 心を合わせる

2011/10/09

職員のブログにもありましたが、先日職員がみんなで、園舎の周りや倉庫をきれいに片付けてくれました。みんなが心を合わせ、力を合わせてひとつのことに取り組む。その姿勢がとてもうれしく思いました。今年度から職員が委員会を作り、そこで話し合って決まったことをみんなでやってゆくという取り組みが始まりました。そのうちの環境委員のみんなが中心になって片付けを提案してくれたのです。

以前の当園は45名の定員を割り込むほどの園児しかいなくて、職員も今のようにたくさんはいませんでした。ですから、あえて委員会を作らなくても、自然と役割分担が行われていたり、勤続年数の長い職員が多かったのでことばにしなくてもいろいろなことをみんながわかり合っていたのだと思います。今は園児数も増え、職員数も増え、それぞれの経験も様々です。だからこそ、面倒がらずにことばにして伝える場を設け、それぞれが自分の思いを伝え、相手の思いを受け止め、みんなが納得してものごとに取り組むことが必要なのです。その前提として、皆が心を開いて思いを伝え合える関係になれなくてはなりません。そうすることによって、お互いの心の風通しが良くなります。それを繰り返し続けることによって「何を大切にするか」を少しずつ共有してゆけるのだと思います。

様々なトラブルの原因はコミュニケーションが上手く行かないことが多いと言われています。人は、自分の世界で物事をとらえ、考え、価値を見いだしています。それをことばにして伝え、自分の世界を開いて伝える努力をしないと、お互い勘違いのまま平行線をたどることが多いのです。

このあいだ職員の一人と私の所有する車の話しをしていました。Aという古い車とBという新しい車があるのですが、職員はB車をイメージして話し、私はA車をイメージしながら話していたようで、なんか変だなと思いながらもしばらく話してようやく、お互いイメージしている車が違ったのだと気付いて、笑ってしまいました。この程度のことなら笑い話ですみますが、話題によっては大変なことになります。

ですから、ちゃんと相手に伝わっているかを確認したり、自分はこう思うんだよと様々な角度から伝える努力が必要なのですね。

伝わり、わかり合えることは、うれしく、楽しいことだと思います。

職員はお互いにそういう関係を作ろうと努力をしてくれています。私もみんな以上に努力しようと思います。

金木犀

2011/10/08

急に秋が深まりました。秋田から帰ってきた次の日、園に行こうと歩いていると、ふといい香りが漂ってきました。金木犀が香りはじめたのです。出かけた日には全く感じなかったのに翌々日にはとても良い香りを漂わせています。突然、香るって不思議です。

金木犀の香りは、小学生の頃、放課後学校から帰って友だちと遊んでいたときの様子を思い出させてくれます。秋の光につつまれて全てのものがやさしく輝き、空気はひんやりと日ざしは暖かでどこか包み込まれるような、ホッとする感覚がよみがえってきます。

臭覚は他の感覚に比べて記憶や心の働きとつながりやすいという研究があるようです。脳内での臭覚情報の伝達経路が他の感覚器官とは異なっていて、臭覚だけは記憶をつかさどる海馬を経由するということを読んだ覚えがあります。だから記憶と結びつきやすいのかもしれません。

赤ちゃんのことを考えても、他の感覚はすべてお母さんのお腹の中で感じられるのに、においは空気を介して感じているので、においだけはお母さんのお腹から生まれ出てからしか感じられません。ただし、生まれてすぐの赤ちゃんでも自分のお母さんの母乳のにおいを嗅ぎ分けるそうなので、その能力は胎児のうちに備わっているのです。

脳の中での情報伝達経路が異なることと何か関係があるのかもしれません。

園の近くで園児を送ってこられたお父さんが、「金木犀が香り始めましたね。この香り好きなんです。」と声をかけてくださって、しばらく金木犀の話しで盛り上がりました。

子どもたちは園庭の生け垣に植えられた金木犀の花をつかって遊んでいます。オレンジ色の小さな花はかわいらしく、それをただ集めて宝石に見立てたり、砂で作ったケーキの飾りにしたり、子どもの想像力は無限です。

自然の贈り物はステキですね。

森から学ぶ

2011/10/07

秋田に行って森で様々なことを学び、考えました。

・森では子どもが自ら主体的に遊ぶこと
・子どもの今を受け止め、認め、信じて待つこと
・そのための子どもとの距離感や大人のスタンス
・自然と人間との関係

などなどです。

これらに共通するのは、「自立」と「自律」だと思います。子どもが自分で立って歩いてゆくために何が必要なのか。そのための大人の接し方はどうすればよいのか。

森では、子どもが自分の範囲をわきまえたうえで、自ら積極的に遊ぶ。そのために、大人は子どもに禁止や命令をしない。大人が禁止や命令ばかりしていたら、子どもは自分で判断しなくなります。それでは、「森の中では自分の身は自分で守る」という基本的な力を奪ってしまうことになり、それは危険を意味するのです。自分をわきまえ自分で判断する(自立)からこそ、これ以上は危険だからやめておこう。友だちが困るから我慢しよう(自律)とできるのです。

主体的に遊べる環境があれば、子どもは自分を発揮して、いきいきと遊び始めます。そんな子どもたちが「今、この瞬間を最も良く生きられる」ように、その子の今をまるごとしっかりと受け止め、認めることが大切です。目標値を設定して足りない部分にばかり注目し、そこを満たそうとする。いわば減点法の発想で大人が見ていては子どもは辛いだけですし、内側から湧き上がる子どもの力が発揮できません。這ってでも急斜面を登る力を自分から発揮し、やり遂げたときの達成感を感じた方が楽しいでしょう。ですから大人はある程度の距離感を持って子どもと接するのが良いのです。それには、「勇気」と「信じ切る」心の力が必要です。大人自身の自立と自律が求められるのです。

考えてみれば、これは森に限らず毎日の生活に通じることなのです。森は条件が厳しかったり、たくさんの楽しいことがあるので、必要なことが際だってくるのですが、上に述べたことは日常的に大切にすべきことなのです。

自然と人間の関係は、子どもに限らず、自然の一部である人間の「自立」と「自律」です。どうしても自然と人間という二項対立で物事を捉えがちで、森の中にトイレを作れば便利、階段をつければ坂が登りやすい。といった人間の都合だけで考えてしまいがちです。逆に森に合わせて、人間が自分を律するという考え方を持っている必要があると思います。

秋田の森でたくさんのことを学ばせていただきました。ありがとうございました。

森とともに

2011/10/06

秋の光はとてもやさしくて、木々の葉を透かして降り注ぐ日の光は、夏の若々しさとは違ってどこか落ち着いた感じがします。

夏至と秋分では太陽の正中高度が23.4も違います。光の当たる角度が違えば、物の見え方が違うのは当然なのですが、秋は春とはどこか違う落ち着いたやさしさがあります。山や森の中ではそれがとても良く感じられます。

特に秋田健康の森にはやさしさが感じられたので、鞍馬とどこが違うのだろうと考えました。まず大きな違いは、木々の間にクマザサや草がたくさん生えていることです。鞍馬ではほとんどが鹿に食べられてしまい、茶色い地面が露出しています。次に考えたのが、林相の違いです。針葉樹よりも広葉樹が多く、いろいろな種類の樹木や草が生えています。いわゆる雑木林です。杉や檜ばかりが植林された森とは様子が違います。もう一つが、岩や石が少ないことです。鞍馬で良く登る薬王坂は岩や石がごろごろしています。すぐに気がついたのはそんなところですが、どうもそれだけの違いだけではないような気がしながら歩いていました。ふと見ると林道の草が短くなっていたので、鹿に食べられたのだと思って近づいてみました。鹿ではなく人が刈ったようです。そうか!と思いました。佐藤さんが手を入れていらっしゃるのです。それも適度に。これかもしれないと思いました。佐藤さんが気持ちを注ぎ、手間暇かけていらっしゃるからこそこの森が維持され、そのやさしさを保っているのではないかと。

森の保育園を行う前には佐藤さんが必ず事前に調べてくださっていて、「今日は雨が強いから奥までは行かない」「熊が出た形跡があるから、あっちは近づかない方がよい」とアドバイスしてくださると園長先生から聞きました。森を知り尽くして大切に思い、気を掛け手間を掛けている方にしか言えない言葉です。こういう方がいらっしゃるからこそ、この森が維持されているのでしょう。

その佐藤さんが印象的なことをおっしゃっていました。

森にはトイレはないんです。以前は作っていたのですが、管理が大変だったり、動物が近づいてきたりするので撤去しました。そこにトイレがあると思うと、どうしてもそんなものだと思って甘えてしまう。トイレがなければしょうがないから、森で用を足すなど、それなりに対応するしかない。誰かが管理してくれると思うと無責任に使ってしまうんです。子どもも森にはトレがないことを知っていると、大人に言われなくても森に入る前にはトイレに行っておこうと自分で考えます。

この言葉を聞いて考えてしまいました。

今は便利な物がいっぱいあって、あれもこれもと身のまわりに物が増え、かえってそれにとらわれ振り回されている。今まで追求してきた便利や快適だけの価値観を見直す必要があるのではないかと。

森の中で

2011/10/05

森をしばらく進むと池があり、池の端に丸木橋が架かっています。子どもたちは対岸へ行きたくてその橋を渡ります。丸木橋ですから当然滑りやすく、よほど注意しないと池に落ちてしまいます。気をつけながら、さっさと渡りきる子もいれば、慎重に一歩ずつ進む子もいます。後ろに並んでいる子は決して「早くしてよ!」なんていうことはありません。急がせると危ないことがわかっているのでしょう。園長先生は見学者に「みなさんの近くで子どもが池に落ちたら助けてあげてください。」とおっしゃいます。見ているこちらは、ハラハラ、ドキドキ、ついつい何か言いたくなります。見学者を除けば、園長先生が一人で橋を渡っている子に「ゆっくりね。大丈夫だよ。」と声をかけていらっしゃるだけで、保育士さん達は他の遊びをしている子を見ていらっしゃいました。その様子を見ていて、子どもたちが自分自身をよくわかっているのだと思いました。

池を離れて山道をどんどん進みます。走って前に行く子、落ちている栗を拾っている子、様々です。当然、転ぶ子もいます。何度も転ぶところを見ましたし、私の歩いている近くで転んだ子は、そこに落ちていた栗の実をしっかりと握っていました。子どもたちは転んでも泣いたりしません。かなり派手に転んで、痛かったんじゃないかなと思うような転び方をした子も、痛そうな顔はしますが泣くことなく、すくっと立ってまた駆けてゆきます。子どもはとても集中して遊んでいるとき、その遊びが楽しいときは転んだりしてもあまり泣くことがないので、森に没頭してとても楽しく遊んでいたのかもしれません。

最後の関門は急斜面をよじ登る場面です。かなり急で、大人でも頑張らないと登れません。子どもたちはそれぞれに工夫して登ります。誰も遅い子を急かしたりしませんし、大人も手を貸すことはありません。ほとんどの子が登り切り、年少の子がひとり悪戦苦闘しながら登っています。先に登った年上の子どもが見かねて手伝おうと斜面を滑り降りてきますが、園長先生はその子たちに「ありがとう。でも○○ちゃんは自分で登るからね。」とやさしく声をかけていらっしゃいました。こういう場面って年上の子が優しさを発揮し、大人もそれを応援しがちです。それが良い時もありますが、いつもいつもそれが適切とは限らないかもしれません。自分で登ろうと頑張っている子にしてみれば、頼みもしないお手伝いは大きなお世話ですし、その子の自分からやっていようという気持ちを摘んでしまいます。子どもが自分のできる範囲をわかっていて、それを超える部分についてだれかに「助けて」といえる自立。お節介を焼かないけれども「助けて」と頼まれたときには進んで助けられる自立。そんな自立した関係が、子どもにも、大人にも必要だと感じました。

森へ

2011/10/04

いよいよ森へ出発です。黄金色の稲穂が、少しひんやりとした風にそよぐ畦道を歩いて森の入口へ向かいます。先頭の子は走るくらいの勢いでどんどん先に行って見えなくなりました。どこまで行ってしまったのだろうと思っていたのですが、ちゃんと森の入口で待っていてくれました。見学者がそろうまでには少し時間がかかったので、子どもたちは先に森に入ることになりました。一緒に出発すると、子どもたちが見学者の方に気を取られてしまって、しっかりと森を感じられなくなるから、子どもたちを先に森に入れる。という佐藤さんのご配慮です。

しばらく歩くと、粘土質の土がむき出しになっている斜面があり、子どもたちは登ったり降りたりして遊んでいます。長い急斜面をすべり台のように滑り降りたり、短い斜面を駆け上がったり子どもたちは服が汚れるのなんて気にせず自由に楽しんでいます。「子どもにやらせて大人が見ているだけではなく、大人も一緒にやらなきゃ!」という佐藤さんの声がけに見学者も斜面のぼりに挑戦して楽しみました。

そこを離れて林道を少し進むと、クマザサと雑木の間をぬって斜面を登るコースに行きました。木につかまらないと登れないところもある斜面です。「冬は雪がたくさん積もるので、この斜面をみんなで滑り降りるんです。」と園長先生が楽しそうにおっしゃっていました。想像しただけで楽しくなります。

私たちの近くで最近入園したばかりというの3歳児の女の子が、一人で懸命に坂を登っています。園長先生は、「ガンバレ!」ではなく、「ゆっくりで大丈夫だからね。ゆっくりでいいんだよ。」とやさしく声をかけていらっしゃいました。「○○ちゃんガンバレ!」私ならそういってしまいそうですが、その子は自分の力をめいっぱい使って斜面を登っているのです。そこに追い打ちをかけるように「ガンバレ!」といわれても、それ以上頑張りようがありませんし、辛くなるだけです。それよりも、その子の今をそのまま認め、それでいいんだよと安心できることばがけや、先生が後ろにいてくれるという安心感を持てるようにしてあげた方が、子ども自身の力が湧いてくるのだろう。そんなことを思いながら、クマザサをよけてゆっくりと歩みをすすめました。

森の保育園

2011/10/03

「森の保育園」という活動を展開されている保育園の園長先生から、公開保育をするので見に来ませんかと誘っていただいたので、男性保育士とはるばる秋田県まで行ってきました。この公開保育を行われた秋田チャイルド園は、子どもたち一人ひとりがより良く成長してゆくためには何をすべきかを第一に考え、子どもが主体的に活動することを中心とした保育、異年齢保育など当園と似た考え方で保育を行っていらっしゃる保育園です。

初日はまず「森の保育園」活動を見学です。北は仙台から南は沖縄まで、全国各地から集まった保育関係者約30名をバスで空港まで迎えに来てくださり、「森の保育園」活動が行われる森へ向かいました。この「森の保育園」は秋田チャイルド園の3歳児4歳児5歳児約70名が2グループに分かれ、毎月交代で森に入るという形で行われています。1人の子どもは2ヶ月に1回の割合で森を経験します。ですから、子どもたちにとっては日常ではなく待ち遠しい行事なのだろうと想像します。

活動の場となっている森は、十代以上にわたって農業林業を営んでいらっしゃる佐藤清太郎さんという方が、森林を活用して心身のリフレッシュを図ったり、森を歩くことでリハビリテーションが出来ないものかと考え「秋田森の会・風のハーモニー」という会を設立、ご自身の所有されている山林の一部を開放して活動されているところです。

出発地点となっている、佐藤さんのご自宅前広場に到着。秋田チャイルド園の子どもたちもちょうど到着したばかりでした。そこで、見学者は森に入る前に佐藤さんから注意事項を聞きました。1つ目は「森には、ハチもいますし熊もいます。ハチには自分で気をつけてください。刺されたときはあきらめてください。また、熊にあったら自分の力で逃げてください。助けることはできません。もし、森に入りたいならそれを覚悟した上でどうぞ。それがいやな方は森には入らないでください。」です。森に入るなら、誰かが助けてくれるだろうという無責任な考えは捨てて、自分の身は自分で守る覚悟が必要だということでしょう。また、森は様々な動物のテリトリーで、そこに人間が入らせていただくという感覚を忘れるなということだと思います。ドキッとしました。わたしもよく山に入りますが、その感覚を忘れかかっていたように思います。

それよりもっと衝撃的だったのは、「森では、子どもたちにそれをしてはダメと禁止をしたり、こうしなさいと指示、命令はしないでください。」ということばでした。これはいつも私が考えていることと同じで、そのことを保育を専門とされているのではない、森林のプロフェッショナルから聞いたことで、ショックを伴って心に響いてきました。

森はやさしくもあり、厳しくもあります。その中で活動する力は、子ども自身が自分で身につける必要があります。自分のできる範囲をわきまえる。危険を感じて回避する。そして、自分の興味に応じて楽しむ。これはいくら大人が頑張ってもしてあげられるわけではなく、子ども自身が身につけ、自立をしていないとできないことです。ですから、子どもの自立を妨げる、禁止や命令は、かえって子どもの力を奪ってしまうのです。それは森の中ではいのちを危険にさらすことにつながりかねないのです。

そんなうれしいショックを感じながら、森へ出発しました。

コロッケ

2011/10/02

給食のおかずにコロッケが出ました。当園は規模が小さいので、常勤の調理員が一人しかいません。彼女はいつも1人で70食ほどの昼食を作っています。ですから、手の込んだメニューや揚げ物などの手間暇のかかるメニューは非常勤の職員が出勤するときに取り入れています。

少しでも業務省力化とメニューを増やす目的で、今年度初めにスチームコンベクションオーブンを導入しました、それ以来調理員はいろいろなメニューに挑戦しています。蒸す、焼く、煮るというスチームコンベクションオーブンで作りやすい料理にはどんどん使っていますし、煮込むものや揚げ物も工夫しています。以前、職員のブログにあったように、非常勤調理員と協力しあってだしを取った後の昆布を甘辛く煮込んでおいしい昆布の甘煮を作っていました。

新しいメニューに挑戦するには時間の余裕が必要なので子どもの数が比較的少ない土曜日にやってみることが多いようです。昨日もレシピを自分で考えたコロッケに挑戦していました。スチームコンベクションオーブンで揚げ物を作ると、どうしてもおいしそうなきつね色にはなりにくいのですが、できたてを試食したら外はサクサク中はふんわり、きつね色とはいかないまでも焦げ目もついています。味も、調味料を後からかけなくてもすむようにと考えて少し濃いめにしてあります。とてもおいしくできていました。

いよいよ昼食の時間、子どもたちの反応が気になるのか、調理員は窓越しに様子をうかがっていましたが、子どもたちはみんな「おいしい!おいしい!」といってたくさん食べていました。

きっとおいしかったのでしょう、私と同じテーブルに座っていた子ども達がコロッケの中身はなんだろうと、言い始めました。そこで、「みんなで調べて、後から給食の先生に正解かどうか聞いてみれば。」と声をかけると、みんなでじっくり見たり、味わったり、なかにはにおいをかいだりといろいろと調べ、「ジャガイモ、ニンジン、ピーマン、これはお肉かな?シーチキンかな?あっ!タマネギも入ってる。」とさかんに言い合っていました。ごちそうさまを済ませて、調理員に聞きに行ってみると子どもたちの答えはほぼ正解。よくわかったな。と感心していると、「何で味付けをしたでしょう?」と調理員、そこまではわからないでしょうと思っていると、子どもは「塩、醤油」と答えていました。知っている調味料の名前を言ってみただけかもしれませんが、両方とも正解。その他にはウスターソースも入っていたようです。

調理員が、食材を活かし子どもたちにできるだけおいしい食べさせてあげたいと努力し、子どもたちがおいしく食べ、食材に興味を持つ。子どもも調理員もそして食材も、みんなのいのちが輝いていると感じました。

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