2014年 7月

おいしくいただく たのしくいただく 2

2014/07/09

      七夕ちらし

七夕の日のお昼ごはんについて紹介しています。
メニューのなかの、七夕ちらしはちらし寿司のうえに、天の川に見立てた錦糸たまごとその両側に織り姫と彦星に見立てて星形に型抜きしたハムが盛りつけてありました。

煮物には冬瓜と油揚げ、星形に型抜きしたにんじんをあしらってあり七夕ムードを盛り上げてくれています。味もできるだけ薄味にして、素材の美味しさがしっかりと感じられるように工夫してあります。

酢の物はさっと塩ゆでした薄切りのキュウリと茹でエビのうえに手作りのポン酢ジュレがかかっています。

      冬瓜の煮物

このポン酢ジュレがとてもおいしかったので作り方を聞くと、市販品のポン酢を使うのではなく、一から手作りしたそうです。隠し味にライムを使ったそうで、その発想の豊かさには驚かされました。ライムというと私にはカクテルに添えてあるくらいのイメージしかなかったのですが、さっぱりとした酸味が味を引き締めていて、とてもさわやかに仕上がっていました。なぜライムを使うことにしたのか興味が湧いたので尋ねてみると、何となく思いついたそうです。料理はレシピに忠実に作ることも大切ですが、発想豊な遊び心が大切だと思いました。

  きゅうりと海老のポン酢ジュレ


そして和食には似合わないかなと思われがちなとんかつが、味のバリエーションを豊かにしてくれていました。これにもポン酢ジュレをかけると、またちがったさっぱりとした味が楽しめます。

花麩のおつゆは薄味ながら、豊かなだしの香りが感じられるようにしてあります。

一品一品よく考え工夫して作られたお昼ごはんを、みんなでいただくと美味しさも格別です。子どもたちはもちろん、大人もとても満足そうでした。おいしいは、みんなを笑顔にしてくれますね。

おいしくいただく たのしくいただく 1

2014/07/08

前にも紹介しましたが、当園では、端午の節句、七夕、七五三、ひなまつりなどの日に合わせて幼児クラス(3・4・5歳児)の子どもたちが1人ずつお膳を使ってお昼ごはんをいただく機会があります。昨日は七夕まつりのあとにお膳で昼食をいただきました。この日は乳児クラス(0・1・2歳児)の子どもたちはランチプレートに配膳してもらって全園児と職員が一堂に会して一緒に昼食をいただき、子どもも大人も全員で共食する機会となっています。

子どもたちはいつもとちがう雰囲気に少し緊張しながらも、楽しんで食事をしています。はじめは正座をして食べる事が難しい子どもたちも、何度か経験するうちに、正座をして背筋を伸ばして食べるようになります。せっかくみんなで一緒に食べるのだから、子どもたちはもちろんのこと、先生方にも楽しくおいしく食べて欲しいという思いから、調理担当の先生たちは様々に工夫を凝らしたメニューを用意してくれています。品数が多かったり、手の込んだ一皿があったりして、調理室はとても忙しいのですが、朝早くから出勤してがんばって調理してくれています。
今年の七夕の日は「たのしくいただきます」でも紹介しているように

・七夕ちらし寿司

・トンカツ

・冬瓜の煮物

・きゅうりと海老のポン酢ジュレ

・花麩のおつゆ

というメニューでした。

  みんなでいただくとおいしいね

     おぜんでいただきます

聞くということ 7

2014/07/07

感覚器官を通して入ってくる刺激を感じる感覚と、その感覚によって生じる感情や思いを一緒にとらえていることが多いのですが、そこを切り離して、感覚は感覚として捉え、感情に結びつかないようにしてみます。

そうすると、感覚器官から入ってきた刺激が心の中で連想や妄想を起こすのを、初期の段階で食い止められそうです。

「暑い」と感じたら、これが暑いということなんだなー!くらいにとどめておきます。ほほを伝って汗が流れたら、ああ、汗が流れている。あごから落ちた。って感覚だけを感じます。暑いから嫌だとか、汗が流れて不愉快だとかは考えません。

今、感じていることだけに意識を集中するのです。

動作でいえば、自分の今していることに意識を集中します。歩くことであれば、足の動きや手の振りについて、右足はどうなっている、左足はどうなっている、手の振りはどうか、様々な動きの一つ一つに意識を集中させます。また、その時に感じる感覚、風がほほをなでたり、髪の毛が揺れたりしていることを順に感じてゆくだけにします。自分の動作や、感覚に集中していると、他のことを考える余裕はありません。ですから、変な連想や妄想がふくらんでゆくこともなくなるのではないでしょうか。妄想が起こらなければ、それに振り回されて苦しむことも少なくなるような気がします。

聞くということ 6

2014/07/06

ところで、自分自身の感じている感覚や、一挙手一投足とそれに伴う感覚に神経を集中したことがありますか。例えば、この時期なら、とても蒸し暑く、じっとしているだけでも汗が流れ落ちてきます。普通なら暑いからいやだなーとか、汗が流れて気持ち悪い
とか思ってしまいます。そうではなく、暑いとはこういう感覚!と感覚だけに意識を集中することにとどめ、その先を考えない、そこに嫌だとという価値判断をつけない。汗が流れている感覚だけは感じるけれど、汗がほほを伝って流れ、顎から落ちていった。と事実だけを感じることに集中して、気持ち悪いとか、何とかしたいとかということを考えるところまで結びつけないのです。

動作なら、歩くことを考えてみてください。上げた右足がかかとから地面についてゆき、つま先で地面を蹴ったら今度は、上げた左足が地面に着く。そんな動作とそれに伴う感覚、足の裏が地面をとらえる感覚や、歩くことで感じる風の流れに神経を集中してみる。足が痛いとか、歩くのがきついとか、考えることはしないのです。

普段はあまりそんなことは意識せずに、暑かったら、暑いから嫌だなー!とか、汗だくで気持ち悪いとか、感覚と感覚から起こってくる感情とを一緒にしているのではないでしょうか。

聞くということ 5

2014/07/05

自分の心の中で起こる、妄想の連鎖、特に広がりやすい負の妄想の連鎖は暴走し出すとなかなか止めることができません。でも、この心の暴走をなんとか止めないと、結局、自分自身がどんどん苦しくなってゆきます。

どうしたらそれがとめられるのでしょうか。そのためには自分の心に起こっていることを冷静に、客観的に見つめられるようになることが、第一歩かもしれません。どんどん連想が進んで妄想が膨らみ、何度も反芻するようにそのことを考えていたら、だんだんそれが固定概念のようになって思考に染みついてきます。そうするとそこから抜け出すのは難しくなるので、そうなる前のできるだけ早い段階で、負のスパイラルに陥るまでに食い止められるといいとおもいます。

まず最初は、感覚器官から情報が入ってきて、それに心が反応する時です。ですから、感覚器官から入ってきた刺激はそのままに受けとめて、それについてとやかく考えなければ良いのかもしれません。つまり感じたことを感じたままに受けとめて、それに良いとか悪いとかいう価値判断をしなければ、連想が膨らむことがなさそうです。

聞くということ 4

2014/07/04

聞くことを始め、様々な感覚器官から入ってきた刺激に心が反応して連想が始まり、いつの間にか妄想になってしまう。その妄想も、良い方ならまだしも、不平不満や、誰かに対する批判、悲しい、苦しい、腹立たしい妄想が広がりやすいように思います。

こう書くと、とんでもないことのようですが、意外と気がつかないうちに自分自身にも起こっていることだと思います。気づかないうちにといいましたが、まさに気づかないうちにそうなっていることの方が多いようです。特に自分が正しいと思っているとき、そう思い込んで、心が硬直しているときにはなおさら気づきにくくなります。だって、正しい自分とちがうことを行ったりしたりする人は、自分が正しいという想いにとらわれている人にとっては、間違っているとしか思えないですし、「あの人は間違っている」というイメージにとらわれてしまうと、その人の良いところまで、「間違っている」と思い込んでしまいます。

でも、こんな負のスパイラルには陥りたくないものですし、深く陥る前に抜け出したいものです。だって一番苦しいのは自分自身ですから。

聞くということ 4

2014/07/04

聞くことをはじめ、様々な感覚器官から入ってきた刺激に心が反応して連想が始まり、いつの間にか妄想になってしまう。その妄想も、良い妄想ならまだしも、不平不満や、誰かに対する批判、悲しい、苦しい、腹立たしい妄想の方が広がりやすいように思います。

こう書くと、とんでもないことのようですが、意外と気がつかないうちに自分自身にも起こっていることだと思います。気づかないうちにといいましたが、まさに気づかないうちにそうなっていることの方が多いようです。特に自分の主張ややり方が正しいと思っているとき、そう思い込んで、心が硬直しているときにはなおさら気づきにくくなります。だって、自分が正しいという想いにとらわれている人にとって、正しい自分とちがうことをする人は、間違っているとしか思えないですし、「あの人は間違っている」というイメージにとらわれてしまうと、その人の良いところまで、「間違っている」と思い込んでしまいます。

でも、こんな負のスパイラルには陥りたくないものですし、深く陥る前に抜け出したいものです。だってそこで最も苦しむのは自分自身ですから。

聞くということ 3

2014/07/03

感覚器官は、耳だけではなく、他の感覚器官からも様々な刺激を受けていますから、心の池にはいつも様々な波が立っていることになります。
おいしそうなご馳走を見て、食べたいという波が心に起こる。食べてみたらおいしいので、もっと欲しくなる。でも少ししかなくて、他の人も欲しがっている。どうしても自分が食べたくなる。食べられないのは嫌だと思う。何とかして自分が食べようとする。食べたいけれども食べられない。

このどうしても食べたい!という気持ちが強ければ強いほど、食べられないことに対する苦しみは大きくなります。

また、心の中だけで想いが勝手に広がることもあります。誰かに自分の至らないところを指摘される。自分の至らなさは棚に上げて、指摘されたことに腹を立てる。指摘した人のことを嫌だと思う。いったん嫌だと思うと、そこからそういえばあのときもこんな意地悪をされた。きっとあの人は自分のことを嫌っているんだ。性格が悪い人だ。どうしようもない人だ。という思い、というか妄想がひろがり、その妄想にとらわれる。妄想にとらわれると、その人のことが、本当に意地悪に見えてくる。一旦そういう目で見ると、その人のステキなところがあってもそこを見ようとせず、悪いところばかりが目につくようになる。それどころか、親切にしてもらっても、何か裏があるのではないかと疑ってしまってしまうこともある。もうそうなるとどうしようもありません。ネガティブな妄想ばかりがどんどん広がり、その妄想に飲み込まれ、巻き込まれていってしまって、ますます抜け出せなくなる。どこかでこの負のスパイラルを打ち切らないと、結局自分自身の心が苦しくなってゆくばかりなのですが、なかなかそれに気付く事はできません。

聞くということ 2

2014/07/02

耳から音が入ってきて、それを感じる。その刺激が心にいろいろな想いを描かせる。その想いを発端として、いろいろなことが連想される。一旦、連想が始まると、次から次へといろいろなことが心に浮かんできます。意識をしないでいると、その連想や想いの中に入り込んでしまいます。そして、そこに自分の良いとか悪いといった価値判断やそれに対する感情も伴ってきて、いろいろなことをぐるぐると巻き込みながら、とんでもない方向に発展していったりするものです。

まるで、静かな池の水面に小石を投げると、そこから波紋が広がって、岸にぶつかった波紋は反射してまた広がる。波どうしがぶつかって、水面は様々に入り組んだ波で覆われる。波と波がぶつかって新しい波が生まれたり、打ち消し合ってきえたり、最初に小石が作った波は、全く別のものになってしまいますし、そのべつのものが増幅されて、また違うものになっていったりもします。

私たちの心の中で起こることも、この池の波に似ているかもしれません。耳という感覚器官を通して感じた音という刺激が、心に様々な波を起こして広がり、またその波が別の波をおこす。聞いたこと、聞こえたことに心が様々に反応し、感情が生まれ、その感情がまた別の心の動きや感情を産みだし、それがまた次の感情につながり、連鎖反応を起こします。ひとつのきっかけから次々といろいろなことが心に浮かんできて、たのしくなったり、うれしくなったり、悲しくなったり、嫌な気持ちになったり、腹が立つことがあります。そしてそれらの感情がまた次の連想を生んで際限なく広がり続いてゆくのです。

聞くということ 1

2014/07/01

モリアオガエルのたまごを観察に行った帰りに、「聞く」ことに意識を集中してみたことから聞くこと、聞こえることについて少し考えてみました。私たちはいろいろな音が耳に入ってきていても、その中から自分に関係のある音だけを聞いている。そして何を聞くかを選ぶ程度も、ひとり1人違うというのだろうということを思いました。

音を聞いたら、その音についていろいろなことを考えてしまいます。耳を通して音という刺激を感じ、その刺激がいろいろなことを思い起こさせる。目を閉じているのに、まるで見ているかのような映像が心に広がる。鳥が枝でさえずっている様子、小さく光って飛んでゆく飛行機、風にゆれる木の枝、こすれ合う葉っぱたち・・・

こうして、耳を通して入ってきた音という刺激が心に届くと、様々なイメージが浮かんでくる。そうするとそのイメージからまた、別のイメージが浮かんできたりします。鳥の声を聞いて、「どんな鳥かな?」「仲間同士で情報交換しているのかな?」とか、飛行機の音から旅を連想し、旅の思い出がよみがえってきたり、どこかに行ってみたいという想いがわき上がってくることもあるでしょう。

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