2013年 9月

声明 2

2013/09/20

もう少し声明について書いてみようと思います。声明を唱えるには様々な要素があり、その一つは音の高さです。十二律といわれる1オクターブのあいだに12の音を配した標準的な音の高さ(平均律ではない)をもとにします。その12の音の名前は次の通りです。

壱越(いちこつ)・断金(たんぎん)・平調(ひようじよう)・勝絶(しようぜつ)・下無(しもむ)・双調(そうじよう)・鳧鐘(ふしよう)・黄鐘(おうしき)・鸞鏡(らんけい)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・上無(かみむ)

その12の音のなかから、宮(きゅう)、商(しょう)、 角(かく)、 徴(ち)、 羽(う)の五音や五声といわれる5つの音を使って曲が構成されます。時に7つの音を使うこともあるので七声ともいわれます。

そして、この5音をどう決めるかに、呂、律、中の3種類の決め方があるのです。これを三種の旋法といいます。

そして、12律のどの音を宮(きゅう)に定めるかでその曲の調子が決まります。壱越(いちこつ)の音が宮(きゅう)であれば、壱越調(いちこつちょう)の曲です。壱越調(いちこつちょう)、律の旋法であれば、宮=壱越、商=平調、 角=双調、 徴=黄鐘、 羽=神仙

ピアノでいうと1オクターブの中に12の鍵盤があります。これが十二律だとします。ある曲を唱えるのに、その中の「レ」「ミ」「ソ」「ラ」「ド」の5つの音を使いますよ。と決めます。別の曲では「レ」「ミ」「ファ♯」(ソ♯)「ラ」「シ」(ド♯)と7つの音を使うと決めることもあります。この5つ(もしくは7つ)の音の決め方に3種類の決め方があるのです。

こうして、その曲の音の高さ、どの音を用いるのかが決まります。

声明

2013/09/19

声明(しょうみょう)とは、仏教の儀式音楽で、経文に一定の旋律をつけて、法要などで唱えるものです。名前の由来は、サンスクリットの「シャブダビドヤ」の訳語です。シャブダとは「音声」「言語」という意味、ビドヤはものごとを明らかにするという意味です。この「シャブダビドヤ」とは古代インドの学問分野である五明(ごみょう)の一つで、音韻学・文学を指す声明、工芸・技術論という意味の工巧明、医学を指す医方明、倫理学を指す因明、自分の宗教に関する内明の5種類の学問分野です。インドで音韻学、文学を表す語が、日本では仏教の儀式音楽という意味で使われるようになったようです。中国では梵唄とよばれていました。

仏教が日本に伝わるとともに声明も伝わってきたのでしょう。天平勝宝四年(752)に修された東大寺大仏開眼供養会は、一万人の僧侶を請して修された大法会で声明が唱えられていました。平安時代になると、最澄と空海が唐より声明を将来したと言われています。空海の将来したものは真言声明として伝わりましたし、最澄が伝えた天台声明は円仁が入唐によって将来した声明によって興隆しました。現在も仏教各宗派で声明が唱えられています。

そうして仏教の儀式音楽として唱えられていた声明は邦楽の源流ともいわれ、邦楽の発展に大きな影響を与えています。

声明はどんな方法で伝承されるのでしょうか。もともと声明は面授口決といって、お師匠様から教えられたように唱えることが基本で、何度も唱えているうちに覚えてゆくものなのです。ですから、楽譜はありませんでした。のちに博士(はかせ)と呼ばれる楽譜に変わるものが考案され、音の高さや旋律型を表すようになりましたが、博士はもともと備忘のために記されたと言われています。五線譜のように時間的経過を表す要素がないので、みんなで唱える時は、うまく合わせる必要がありますが、そこはなんとなく合ってしまいます。声明ではなくても「お経は耳で唱える」と言われるように、まわりの人の声を聞きながら唱えているのです。

楽譜

2013/09/18

コミュニケーションのとり方による伝え方の違いを見ていたのでしたが、しばらく話題がそれて、行事や台風になってしまいました。

日本は世界の中で最も高コンテクスト社会だとアメリカの文化人類学者エドワード・ホール氏は言っています。高コンテクスト文化を持つ社会では、ことば以外の社会的習慣や人間関係などに依存する割合の高く、聞き手に「察する」「文脈を読む」ことが求められることが多く、低コンテクスト文化を持つ社会では、ことば以外のものに依存しない傾向が強く、一から十までことばで説明する必要があり、直接的ではっきりした表現が必要とされるという考え方です。

伝統的な職人技などは、ことばで説明するだけで伝えきれるものではありませんし、それは程度の差こそあれ、洋の東西を問わずそうなのだと思います。

音楽においてもそんな傾向があるかもしれません。園で先生達がピアノを弾くときは、五線譜を使っています。現在音楽、特に西洋音楽を楽譜に表すための記譜法で用いられているのはこの五線記譜法が一般的です。五線の上に音符や休符が並べられ、音の高さや音の長さ、時間的要素を表します。その他様々な記号を用いて、演奏に必要な要素を表しています。歌がある場合は歌詞も付されるでしょう。かなり細かな要素まで決められていて、楽譜が読めれば、演奏ができます。

お寺では、よく声明(しょうみょう)が唱えられます。声明は経文に一定の旋律をつけて、法要などで唱えられるものです。簡単にいえばお経に音楽がついていると思っていただいてもいいでしょう。この声明を唱えるにあたっては、ピアノを弾くときのような五線譜は基本的には用いません。音の高さや旋律を表す博士(はかせ)といわれる印が使われます。これがしっかりと読めれば、唱えられないことはありませんが、音の長さなど時間的要素はそこには表されていません。それでも、みんなで唱える、いわゆる合唱することができます。

日本の文化は、音楽を楽譜に表すにも、すべてを表すことはしないのでしょうか。

自然の厳しさ美しさ

2013/09/17

特別警報がこんなに早く、しかも身近で発令されるとは思いませんでした。朝、ラジオから番組のパーソナリティーのこんな話が聞こえてきました「放送で特別警報が解除されたと言ってしまうと、警戒しなくても良くなったような誤解を視聴者与える。特別警報が警報に切り替わっただけで、引き続き厳重な警戒が必要なことにはかわりはないいので、伝え方には細心の注意を払わなくてはならない。」
それを聞いて、特別警報が発令されたから、特別警報が解除されたから、大丈夫という考えが自分自身にもあったように思いました。警報が発令されたら警戒すべきなのに、その上のランクの特別警報というのができたことで自分の中で警報の重大さの位置づけが下がってしまったのではないかと思ったのでした。

16日の早朝は猛烈な雨風でしたが、時間と共におさまってきて10時頃には雨もほとんど降らなくなり、雲間から薄日も差すようになりました。周辺に被害がないか確認しましたが、幸い大きな被害はありませんでした。あれだけ強い雨が長時間降ったのにも関わらず、ありがたいことです。しかし、普段は水なんてないような所から水が出ていたり、谷の水かさが大幅に増えていたりしています。お寺の職員さんと一緒に危険箇所がないか見て回っていたら、突然大きな音がしたので、山崩れか、倒木かと思って音のした方を見に行ってみたら、直径60センチはある大きな木が倒れて他の木や土砂と共に参道を塞いでいました。つい10分ほど前に私たちが通った所です。もう少し遅かったらと思うとぞっとしました。風雨が収まってからでも、倒木や土砂崩れは起こりうるということを目の当たりにし、台風の猛威はもちろん自然の厳しさを感じました。

今日は台風一過、昨日までが嘘のような美しい青空が広がっていました。自然の厳しさと美しさの両面を改めて感じさせてくれた台風18号でした。

特別警報

2013/09/16

台風18号が近づき、通り過ぎてゆきました。9月15日日曜日の夕方から雨量が多くなってきたり、強い風が、雨を斜めに降らせます。風の強さよりも雨の降り方が気になりました。とにかくすごい勢いです。それでも夜のはじめまでは息をつくように雨脚が強くなったりそうでもなくなったりしていました。ところが、夜が更けてくるにつれ猛烈な雨が絶え間なく降り続くようになってきます。風も強まってくるので、不安が募ります。園の裏山は崩れていないだろうか、何か飛んでいっていないだろうか。木が倒れてこないだろうか、窓ガラスが割れたりしていないだろうかと気にはなりますが、どうしようもなく、ゴーゴーと雨風が暴れる音を聞きながら休みました。目覚まし代わりに使っているスマートフォンから、突然いつものアラーム音とは違う音が響き渡り、緊急地震速報かと思って慌てて飛び起きました。画面には、「緊急速報 大雨特別警報発表5時05分京都府全域に多め特別警報が発表されました。これまでに経験したことのないような大雨になるところがあります。最大級の警戒をしてください(京都府)」とあります。5時7分のことでした。

特別警報は平成25年8月30日に気象庁により運用が開始されました。これまでは、大雨、地震、津波、高潮などにより重大な災害の起こるおそれがある時に、警報が発表されていましたが、これに加えて、警報の発表基準をはるかに超える豪雨や大津波等が予想され、重大な災害の危険性が著しく高まっている場合、「特別警報」を発表し、最大限の警戒を呼び掛けるというものです。特別警報が出た場合、数十年に一度しかないような非常に危険な状況にあります。周囲の状況や市町村から発表される避難指示・避難勧告などの情報に留意し、ただちに命を守るための行動をとってください。とされています。

この特別警報の運用が開始されたときは、「数十年に一度しかないような非常に危険な状態」とあったので、滅多に発表されることはないのだろうと思っていたのですが、まさか1ヶ月足らずで、しかも京都府に発表されるとは、驚くとともに不安になりました。それでなくとも、相変わらず猛烈な雨と風の音が聞こえているので、不安は募ります。窓から外を見てみましたが、暗くてよくわかりません。

10分後に京都市より「大雨特別警報に伴う情報」として、追加情報が送信されてきました。「浸水が想定される区域では2階以上に避難するなど身の安全を守る行動をとってください。」など具体的な内容が追加されています。

明るくなってきたので、外に出てみました。強い雨と風です。谷の水かさが上がり、ものすごい勢いで流れています。時折大きめの石が流れてゆく音が響きますが幸い近くを見た限りは大きな異常はありませんでしたが、私は見に行かなかった鞍馬川はかなり増水していたようです。

特別警報の発令を知らずに周囲の状況を見ているだけでは、不安の度合いは違ったかもしれません。「数十年に一度」ということばが頭の片隅にあるので、木が倒れてこないだろうか。山が崩れてこないだろうかと、とても気をつけながら歩いている自分に気がつきました。

警報は良く発令されるので、どこか「また警報」という感覚になりがちですが、本当は警報でも充分に気を引き締める必要があるのです。特別警報が運用開始されたことで、警報を軽視してしまわないように気をつけないといけないと思いました。

嵐山の被害状況が報道されていましたが、京都市内はじめ府下、全国各地で被災された方にお見舞い申し上げます。

義経祭にて

2013/09/15

今年も、お寺で源義経を偲ぶ法要「義経祭」が奉修されました。台風18号の接近で未明から激しい雨が降っていたので、法要だけでなく、様々な奉納も行われ、たくさんの人が参加、見学されるのに、大丈夫なのだろうかと心配になっていました。なにより、園児達が出仕することになっていたので、雨が強くなると心配です。5歳児の有志と保護者がが日曜日にもかかわらず出仕に協力してくださったのです。幸い園児達が来る頃には雨は小降りになり、法要の直前には薄日がさす時間もありました。園児達の役目は、毎年同じですが、義経さんにお供え物を捧げることです。どの子もとても丁寧にお供え物を運び供えていました。子どもたちの動きとといいその時の雰囲気といい、心を込めてお供えしている感じが、とてもステキでした。

昨年も書きましたが、いろいろな奉納をされる方々もいらっしゃいます。近隣の合気道の道場の皆さんが今年もいらしてました。日曜日ということもあって、3歳くらいのこどもからおとなまで50名ほどの方々の奉納演舞は見事ですし、小さな子どもでも姿勢や動きがとても美しかったのはとても印象的でした。

他に、奉納があったのが、「しずのおだまき」の踊りの奉納がありましたし、天狗舞鼓という芸能奉納が今年もありました。

奉納の中でも、一絃琴の演奏奉納は心に響く音色が印象的でした。一絃琴とは、文字通り一枚の桐の板に一本の絹糸を張っただけのシンプルな琴です。演奏法は、右手人差し指、左手中指に象牙の蘆菅(ロカン)と呼ばれるつめをはめ、右手で絃をはじき、左手を移動させることで音の高さを変えて演奏します。ギターのようにフレットがあるわけではないので、滑らかな音の変化も表現できそうです。このシンプルな楽器は、静かながらとても深い響きがあって、演奏されると厚みのある音が響きます。

一般的には演奏しながら歌うことが多いようで、今回は清虚洞一絃琴の家元が義経の生涯を題材にした曲を演奏していらっしゃいました。

清虚洞一絃琴は「特に琴学に基づく精神性を重んじている」(清虚洞一絃琴ホームページより)そうで、「清虚とは心が清らかで私心がないこと、月の都にあると言われている宮殿」という意味があるそうです。
私心のない清らかな心。どうすればそんな心になれるのでしょうか。

全て説明する

2013/09/14

私たちは様々な製品に取り囲まれて生活しています。これらの製品の取扱説明書には「警告」や「注意」として、いろいろなことが書かれています。これらの表示が増えたのは平成6年に製造物責任法が施行されてからだと思います。PL(product liability)法といわれ、製造物の欠陥により人の生命、身体又は財産に係る被害が生じた場合における製造業者等の損害賠償の責任について定めた法律です。

ここええいう欠陥には、設計自体に問題があるために安全性を欠いた場合(設計上の欠陥)、製造物が設計や仕様どおりに製造されなかったために安全性を欠いた場合(製造上の欠陥)、製造物から除くことが不可能な危険がある場合に、その危険に関する適切な情報を与えなかった場合、取扱説明書の記述に不備がある場合(指示・警告上の欠陥)があるそうで、取扱説明書に、警告や注意が事細かに書かれていないと、指示・警告上の欠陥にあたる可能性があるのです。

取扱説明書のこういった表示を呼んでいると、「そんなことわざわざ書かなくても・・・」と思うことが書いてあることがあります。やはり、いちいちことばで説明しないとダメなのです。「〜をしてはいけない」と書いてなかったので、〜したら、損害を被ったと言われかねないと言うことです。

ある博物館の方からこんな話を聞きました。その博物館の自然科学部門の展示の中に、標本瓶に入ったホルマリン漬けのきのこの標本があります。ある日、担当社の方がふと見たら、観覧者が標本瓶のふたを開けて、中のきのこを触ろうとしていたというのです。そんなことしたら危ないですよ。というと、その観覧者は触ってはいけないと書いてなかったので、触ろうと思ったのだと言ったそうです。
また、人文系の展示の中に、文人の書斎を家屋のまま観覧できる展示がありますが、その書斎に上がり込んで、お弁当を食べている人がいたという嘘のような本当の話があったそうです。そこに入っていただいては困りますというと、入るなとは書いてなかったから入ったとおっしゃったそうです。若い人は皆まで言わないとわからないのかなと思ったら、結構年配の方だったそうです。ちょっと信じられないかもしれませんが、本当の話です。
ここまでくると、高コンテクスト、低コンテクストとかいう問題で葉ないような気もします。なんでも逐一説明しないといけなくなっているのでしょうか。

技を伝える

2013/09/13

日本は高テクスト文化で、逐一ことばで説明しなくても話が通じやすい文化だと言われているそうです。職人さんが技を伝えるのに、逐一説明したりはしません。もちろんことばで説明して習得できるものではないということもあります。「見て覚えろ」とか「技を盗む」ということが言われます。そうやって技を身につけるには、習う方の弟子が「できるようになりたい!」という強い意欲が必要です。意欲に裏打ちされた努力の積み重ねが技を身につけることに繋がります。親方はそんな弟子をうまく励ましたり、たしなめたりしながら、適切な距離感を持って見守ることで育てたのだと思います。ところが、最近はそうではないことがあると聞きました。ある職人さんがおっしゃっていたのは、「最近の若い人は、逐一ことばで説明して欲しいようで、説明をしないと何も教えてくれないと言ってやめてしまう人が多い」ということでした。そして、「説明したら説明したで、わかったような気になってしまって努力をしない。実際に技を身につけようとしたら、自分で練習して技を身につけるしかないのだけれど・・・」ともおっしゃっていました。

そんな話を聞いて、子どもの頃から、あれもこれも大人が主体となって教え込むことで、かえって知りたい、やってみたいという好奇心や探求心、学ぼうとする意欲を奪ってしまっているのかもしれない。と思いました。学ぶ方が主体的に学ぼうとしない限り、なかなか身につくことはありません。ですから、子どもの時に育てておきたいのはこの、「意欲」なのです。

逐一説明することにも良い面と悪い面があるということが、さきほどの職人さんの話からもわかります。全て説明すると、頭でわかった気になって、習得の努力を怠ってしまうこともありますし、全く説明しないと、何も教えてくれないと思ってしまう。うまくバランスをとりながら、育てる必要がありそうです。

世界のとらえ方

2013/09/12

高コンテクスト文化の代表とも言える日本。私たちが使う日本語には、ことばの持つ雰囲気や響きを大切にするところがあります。もちろん音としての響きもそうですが、ことばのもつ意味や役割の響きも同時に大切にします。

「余韻」ということばで表すのが良いのか「間」というのが良いのか、ことばが持っている意味そのものだけではなく、そのことばがまとっている雰囲気みたいなものです。だから短歌や俳句のように限られた字数で無限の世界を表すような文学が成立するのかもしれません。表面的に表されることばの意味の周囲に広がる世界が豊かなのでしょう。

それは、もともと日本人がもっている世界観や、世界の理解の仕方によるのかもしれません。季節に伴って移り変わる豊かな自然と、そこからもたらされるめぐみによって生きてきた日本人は、八百万の神々ということばにも表されるように身の回りの自然界の様々なものに神を見て暮らしてきました。唯一絶対の神が創造し支配する世界ではなく。身の回りの全てに神が宿っている世界です。ですから世界を理解するのに、唯一絶対から見るのではなく、あらゆる方向から見るのです。立つ位置(立場)によって見方も変わりますし、聞き方も変わります。

世界を理解するために、ことばは世界を切り取ります、切り取ることでわかりやすくはなりますが、そのことばでは表しきれない世界もあります。表しきれない世界を余韻の中に表しているのが日本語なのかと思います。

いくらグローバル化が進んでも、全て完全に説明しきってしまうのではない部分があっても良いと思います。

この発想自体が、わかりにくいと言われそうですが・・・

話す力聞く力

2013/09/11

高コンテクスト社会と低コンテクスト社会、エドワード・ホール氏は日本は最も高コンテクスト社会だと言いました。直接的表現より単純表現や凝った描写、曖昧な表現を使い、多くは話さない、いわゆる「察する」文化の代表と言えます。これは共通した文化的な背景を持つ人同士の間でないと機能しにくいのです。しかし世界がグローバル化し、外国から来た人と共に仕事をしたり、海外で働くこともあるかもしれません。文化的背景を異にする人とコミュニケーションが必要な場合は、「察する」は通じにくいでしょう。また、日本人同士でも世代間でコミュニケーションがとりにくくなっていることもあるようです。伝承されるべきものが伝承されにくくなってきているのかもしれません。

では、全てのことをことばで説明する。ことばにして伝えなくてはならないのでしょうか。全てをことばにして伝えなくてはならない低コンテクスト社会では、話し手の責任が重大です。きちっと論理的に説明できず、意味がわかりにくいのは、話し手に責任があります。いわば、いかに話すかが重要視されています。それに対して、高コンテクストの社会では、聞き手の受取方に依存するところが多いのです。聞いた人がそれをどう受け取るかです。こう言うと、話す方に責任があるのが当然だと言われそうです。しかし、同じことを10人の人に話したときに、いくら話し手が論理的に明確に説明したとしても、受取り方は十人十色、人によって微妙に異なるはずです。

話し手にフォーカスするのが低コンテクスト社会、聞き手の聞く力に任せるのが高コンテクスト社会です。ですから、高コンテクスト社会では、「聞くこと」が重要視されるのです。前にも書きましたが、この聞くことというのが意外と難しいことなのです。発せられたことばの表面上の意味だけをとらえるのではなく、ことばの背景には「何か意味があるのだろう」とことばの意味の余韻や背景までをも感じ取ろうとして聞く姿勢が大切であり、求められているのだと思います。心を傾けて聞く「傾聴」ということが大切になってくるのです。

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