2013年 7月

喜び

2013/07/21

他人の喜びを自分のことのように感じ、他人の喜びのために何かしたいと思う。そういった視点が、今の経済学には欠けていると、大阪大学大学院経済学研究科教授で、経済思想史が専門の堂目卓夫氏はいいます。個人の喜びは、手にしたモノやカネからのみ生じ、相手の喜びに共感して得られる喜びは考慮されないのが今の経済学なのだそうです。

このような世界では「何のために働くのか」という問いには、「対価として支払われるモノやカネのためという答えしか返ってこないだろう。そして、「他人の悲しみや苦しみを和らげ、喜びを増すため」という答えは、綺麗事か偽善と見なされるだろう。しかし現実の世界では、他人の笑顔や感謝の言葉は、すべての人の「働きがい」や「生きがい」になっているはずである。(2013年6月3日京都新聞夕刊「現代のことば」より)

もちろん、労働の対価として支払われるモノやカネも大切ではありますが、それこそが絶対の目的ではないはずです。「誰かの喜んでくださる顔が見たいから」「ありがとうと言ってもらって嬉しいから」という喜びがあってこそ、働くことが楽しくなるし、もっと誰かに喜んでもらいたいと思えるようになるのではないでしょうか。この喜びと喜びが響き合うところに共感が生まれる。共感の喜びを表す形としてモノやカネが行き来する。モノやカネは「うれしい」「ありがとう」をはこぶメッセンジャーなのかもしれません。

「経済」の意味は「経世済民」、すなわち、「民を苦しみから救い、世を治めること」である。本当に重要なのは、モノやカネの総量ではなく、それらを取り巻く人間関係であり、相互の共感によって和らげられる苦しみや悲しみの総量、そして増幅される喜びの総量である。(2013年6月3日京都新聞夕刊「現代のことば」より)と堂目氏もいっています。

ついつい、目の前に見える現象ばかりに目を奪われ、本当に大切なことが見えなくなりがちです。だからこそ、自らの「ことば」「行動」そして「想い」にいつも注意を払い、何のためにそれをしようとしているのか、どういう意味で言うのか、なぜそう思うのか、平静な心で見つめる必要がありそうです。

喜びのために

2013/07/20

自分の興味関心のあることについては、妬みの気持ちが起こることが多いようですが、そうでない場合は妬みの気持ちが起こることは少ないようです。例えば、特に親しいわけでもない他人の結婚式に参列するのとお葬式に参列するのでは、どちらを選びますか。と尋ねられたら、多くの人が結婚式と答えるのではないでしょうか。私たちはたとえ他人であっても、だれかの悲しみや嘆きに触れるお葬式よりも、喜びや祝福を感じられる結婚式に参列したいと思うのです。なぜなら、私たちには、人の気持ちを自分の気持ちのように感じる、つまり共感する能力があるからです。この共感によって人の悲しみを自分のもののように感じるし、反対に他人の喜びを自分の喜びとする事ができるからです。そこに妬みの感情が強く働くことがなければ・・・

誰かの喜びを自分の喜びとする事ができれば、ひとりで生きるよりも何倍も喜びを感じることができるし、悲しみを何分の一かに減らすこともできます。ですから、自分だけでなく他人の悲しみや苦しみが減り、喜びが増えることを喜びと感じ、そこに自分も貢献したくなるのです。前にこのブログで取り上げた、ボイスケアのど飴の開発も、開発チームの「声を使う人に喜んでもらいたい」という強い思いがあったからこそ、何度も挫折しそうになりながらも完成したのでした。

誰かの喜びのために自分も役に立ちたい。誰でもそんな気持ちを持っています。子どもたちが持っているそんな気持ちを発揮できる機会を増やしたいと思います。
夜回り先生として有名な水谷修氏が、苦しんでいる子どもたちが立ち直るための最初の一歩が、だれかに「ありがとう」といってもらう経験をすることだとおっしゃっていたように記憶しています。

妬みと憧れ

2013/07/19

ところで、子どもに妬みのような感情はあるのでしょうか。調査研究したわけではないのではっきりとは言えませんが、園で子どもたちを見ていると妬みというよりもあこがれの気持ち方がずっとずっと大きいように思います。

妬むとは、他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む。というように、憎む気持ちが多少なりとも入っていますが、あこがれるは、理想とする物事や人物に強く心が引かれることです。

そういえば、あこがれを漢字で書くと「憧れ」、りっしんべんに童です。童の心があこがれなのでしょう。大人になっていろいろのことを刷り込まれて素直さがなくなり、素直にあこがれることができず、憎しみの心が入ってしまうと、妬みになってしまうのかもしれません。

子どもたちは「○○くんはさかあがりができて、かっこいいなー!ぼくも○○くんみたいにさかあがりができるようになりたい!」と素直に思って、一所懸命に練習して、そのうちできるようになります。「できるようになりたい!」「だから練習する」とても素直でシンプルですよね。この素直さを大切にしたいと思いますし、見習いたいとも思います。

ときには、「どうせ、ぼくはできないから」と諦めたようなことをいう子もありますが、本当はできるようになりたいのです。子どもが「できるようになりたい」という自分の気持ちを確かめられるようにことばを添えてあげたり、必要としているところは手伝う、そして勇気づけることができると良いと思います。

できるできないの結果だけを大人が評価すると、子どもも結果だけを気にするようになり、本当に大切なのはプロセスのはずです。「できるようになりたいから努力する」という気持ちで努力を続ける子どもの姿を、大人が素直に喜べると良いと思います。

しかし大人は、どうしても結果だけをとらえ、しかも他の子どもと比べて良い悪いという評価をしてしまいがちです。これを続けていると、子どもは自分よりできる子に対して憧れるのではなく、妬んでしまうようになるのではないでしょうか。子どもの素直さが伸びるようなお手伝いができると良いと思います。

妬みと思いやり

2013/07/18

妬みの感情が起こる場合というのは、自分にとって関連や関心の高い分野において、優れたものや特性を他人がもっているときで、自分も手に入れたいとか、その人がそれを失えば良いのになどと思ってしまいますが、他人がもっているものがいくら優れていても自分にとって興味や関心のないものであれば、妬みはあまり生じません。自分にとって価値があるものは、自分が生きてゆく上で必要なもののはずなので、そこにより価値の高いものを求めるのは自然なことなのかもしれません。

妬みに関係する脳の部位に前部帯状回という部分があるそうですが、前部帯状回は同時に相手の心を理解しようとすること、同情や誰かのために何かをする利他的なこと、共感などにも関係しているともいわれます。

また、前部帯状回は、物事の順序にこだわたり、たとえそれが無意味だとわかっていても、これをやらなくてはならないといった観念に駆られるなどの強迫性、つまり「こだわり」と関係しているともいわれており、前部帯状回の活性が適切な刺激がないにもかかわらず過剰に高まると脅迫障害のような症状が起こるそうです。

前部帯状回は脳内のいろいろな部分からの情報を統合して行動の意欲や動機づけ、感情に関する情報処理の優先度を設定する役割を持ち、いろいろな脳の領域と相互に関わって、認知や行動に関わる機能や記憶に関係しているともいわれています。

私たちは、ついつい妬みと、人の心を思いやったり、共感することは対立概念だと考えがちですし、時歳そういう側面もあるのですが、生きてゆく上で必要な心の動きを様々な形で表出させるという観点からすれば、それほど大きな違いはないのかもしれません。

妬み

2013/07/17

他人の喜ぶ姿と苦しんだり悲しんだりする姿のどちらが見たいと思いますか?「喜ぶ姿」と答える人が多いのかと思いますが、もしかして自分の心のどこかに、誰かの幸せを妬んだり、哀しみや苦しみを喜んでしまうところはないでしょうか。妬みの感情を持ったときに活発に活動しているのは脳内の前部帯状回という部分だということがわかっているそうです。前部帯状回は、血圧や心拍数の調節などの自律的機能の他に、注意機能といった認知機能や大脳辺縁系の一部として情動反応、また痛みや葛藤の処理にも関わっているそうです。ですから、妬みにだけ関係しているわけではないようで、妬みを含む

また、他人の不幸を喜んでいるときに活発に反応しているのが、脳内の線条体という部分で、運動機能に関わると同時に、心地よい感情や意志決定など情動や認知過程にも関わると考えられているようです。

この2つは密接に関係しています。他人の不幸を喜んでしまうのは、どんな人に対してでも喜ぶのではありません。妬みを持っている人に不都合なことや、不幸が起こったときに、喜ぶようです。それまで妬んでいた相手に対して持っていた劣等感が優越感に変わる感じなのでしょうか。

そして、妬みに関連する前部帯状回の活動が高い人ほど、他人の不幸に対して線条体が強く反応するのだそうです。

他人の不幸を喜ぶなんて、よくないことだといわれそうです。しかし、この機能は私たちが生きてくる上で必要なことだったのかもしれません。誰かの優れたとところをみて、「ああなりたい」とか「まねしてみよう」といった前向きに変えることができるとよいのではないでしょうか。

まめの葉の上で

2013/07/16

 葉脈標本のようになった大豆の葉

昨年園の畑でとれた大豆がまだ余っていたので、いくつか自宅でプランターに植えてみました。すぐに芽を出して、すくすくと育っていたのですが、ある日葉っぱが葉脈標本のようになっているのを見つけて、小学校の理科の時間に作ったのを思い出しました。葉っぱを重そうなど溶液に入れて加熱後、歯ブラシで優しくたたいて葉脈だけにするあれです。他にも葉脈標本になりかかっている葉っぱがあったので、よく見てみると葉の裏に小さな毛虫のような虫がたくさんついて、葉を食べています。それにしても、上手に葉の柔らかいところだけを食べるものです。他にも小さなバッタのような虫が来て大豆の葉を食べていることもありました。

    葉脈標本の製作者達


園の畑の大豆は、少しは虫に食べられていますが、葉脈標本のようになっているのは見かけません。自宅のプランターは近くに植物はあまりありませんが、園の畑は大豆のまわりに雑草と呼ばれる他の植物がたくさんあるので、虫たちは大豆も食べるけれども他の葉っぱも食べるので、大豆に集中することがないのかもしれません。そうだとすると、雑草と呼ばれる草も決して邪魔者ではありませんね。

人間が育てている植物が虫に食べられるのを少なくしてくれるという、全く人間の都合だけから考えても、雑草は役に立ってくれているところもあるのです。人間の都合を離れた自然の大きな巡りの中では、雑草も害虫もきっと何かの役割を果たしているに違いありません。邪魔だから取り除く、退治するだけではなく、雑草や害虫が生きていることにはどんな意味があるのだろう?と、少しだけでも考えてみるようにしてみたいと思います。

最近の畑

2013/07/15

      大豆の花

麦を収穫したときの畑の様子をお伝えしましたが、最近の様子もお伝えしようと思います。

大豆はますます背が伸びて、元気に大きくなっていました。ピンク色の小さな花がかわいらしく咲いています。それに対して黒豆は少し元気がありません。まわりを草に覆われすぎているのか、虫がついたのか、新しく出てきた葉がしわしわになったり、枯れたりしています。「元気で大きくなってね!」と声をかけましたが、ちゃんと実をつけてくれるでしょうか少し心配です。

自然農法のトウモロコシ 小さめです

トウモロコシも花が咲いていました。トウモロコシは、一つの株に二種類の花が咲きます。一番上にさいているのが雄花で、穂のように出ているのはたくさんのお花の集まりです。雄花の下の方に、雌花があり、め花の先にあるひげがめしべです。雄花が花粉を落とすとひげのようなめしべにくっついて受粉するのだそうです。そうです。トウモロコシの実にくっついているひげは、めしべなのです。うまく受粉ができるように手伝ってあげた方が、たくさん実が入るかもしれませんね。

となりの慣行農法で3歳児たちが植えたトウモロコシはとても大きく育っています。2メートルくらいの高さになり、しっかりとした雄花と雌花が咲いています。さすが、店頭で売っている苗ですね。こちらもうまく受粉できて、たくさん実が入るといいなと思います。

にんじんの花の白い色は緑色の中でひときわ映えます。小さな花がたくさん集まって咲いていて、かわいらしい感じです。たくさんの虫たちがにんじんの花に集まって来ていました。他のにんじんは花が咲く前に収穫してみようと思いますが、いつ頃が収穫時なのかよくわかりません。

大きく育った3歳児のトウモロコシ

一本抜いてみるとよいのかもしれません。

畑の片隅に、植えたわけでもないのに、どこから来たのか紫陽花が美しく咲いています。

     にんじんの花

にんじんお花にあつまる虫たち

小麦収穫後の畑

2013/07/14

    少し大きくなった大豆

麦の収穫のために畑に行ったら、1週間ほどで、畑の様子が全く変わっていたのには驚きました。

まず、黒豆と普通の大豆がずいぶんと大きくなっていたのです。小さい間に間引いたり、世話をしようと思いながら、ついつい何もできないままになって、そのまま育ったので、2本の大豆がすぐ近くに生えている状態です。それでも、背丈は40センチメートルくらいになっていました。

近くに、こちらもあまり世話をしなかったトウモロコシが種を蒔いた分だけ芽を出し、林立していました。背はあまり高くなっていません。間引いてないからだと思います。

    トウモロコシ


種を取ろうと、トウモロコシの近くにそのままにしていたほうれんそうは、どこを探しても見当たりません。どこに消えてしまったのでしょうか。

黒豆とトウモロコシを植えた場所には、名前を知らない草が生い茂り、黒豆の背丈に迫る勢いでした。それを見て思い出したのは、黒豆と黒豆の間に種を蒔いたトマトです。小さな双葉が出ていたことは確認したのですが、背が高くなった草に阻まれて消えてしまったのかと思いました。草をそっと分けながら探すと、2株のトマトが、草に埋もれそうになりながらもけなげに伸びようとしているのを見つけました。「草に負けるな!がんばれよ!」と声をかけながら、まわりの草を少し刈っておきました。

そういえば、にんじんはどうなったのかと思って探してみると、一つの茎がとても伸びていて、先に白い花をつけています。以前見たときは葉っぱが少し大きくなりすぎているのかなと思っていたくらいだったのに、こんなに早く花がつくのが信じられないくらいでした。

     にんじんの花


この時期の畑は1週間でずいぶん様子が変わる者です。畑の中のいろいろな生き物が、それぞれのいのちを精一杯生きていることが感じられる、小麦の収穫でした。

2013/07/13

先日、畑に植えていた小麦を収穫しました。もっと早く収穫したかったのですが、なかなか手がかけられず、7月に入ってしまいました。1日の夕方、少しだけ時間ができたので雨が降る前に収穫しようと思い急いで刈り取りました。どうして良いのかわからなかったので、剪定用のハサミでジョキジョキ、根元から切り取りました。鎌を使うと穂をそろえるのが楽だったのですが、あいにく鎌を研いでいなかったので断念。使ったら、手入れをしておかないと、次に使いたいときに困ります。ついついおろそかになりがちですが、こうした小さなことを丁寧に行ってゆくことが大切なのでしょうね。

切り取った小麦の穂を一カ所に集めたら一抱えほどありました。思ったより収穫に時間がかかり、予定時間終了。そのまま雨のあたらないところに置いて、翌日、実のついた部分を切り取りました。脱穀をするのに千歯扱きを使うなら、切り取らない方が良いのですが、茎の部分をつけたままだととてもかさばるので、切り取りました。脱穀は手揉みでしてみようと思います。

麦わらがたくさんできたので、どうしようかなと考えていたら、「麦わら帽子」ということばが頭に浮かんできました。そういえば麦は生活に密着していながら、あまり意識しないように思います。麦そのものの形で食べることが少ないからでしょうか。麦ごはんは食べることが少なくなりました。小麦からできているものはたくさん食べますが、パンやうどんから小麦は想像しにくくなっているのかもしれません。麦の秋、小麦色など麦のつくことばもいくつかあります。

収穫が遅すぎたのか、小麦色は少しあせていましたが、なんとか無事に収穫できました。

  たわわに実った小麦

水遊び

2013/07/12

平年より早く梅雨に入った近畿地方でしたが、梅雨に入ったとたんに雨が降らなくなり、水不足が心配されるほどでした。後半ようやく梅雨らしくなったかなと思ったのもつかの間、急に猛暑がやってきて、梅雨が明けていました。京都では祇園祭の山鉾巡行の前後に雷が鳴って梅雨が明けるというパターンが多いように思いますが、今年はずいぶん早いです。七夕あたりから京都の最高気温は連日35度を超えていて、37度に近い日が続いています。鞍馬は市街地とは違って気温は高くても30度くらいですし、風が吹いてくるとずいぶん涼しいです。特に湿度が低めの時はさわやかです。

園庭では子どもたちの水遊びやプール遊びが増えてきました。子どもたちはいろいろな方法で水の感触を楽しんだり、水の流れ方、砂をまぜるとどうなるのかなどいろいろな遊び方をしています。そんな姿を見ていると、子どもは遊びの中で学んでゆくこということが納得できます。

先生達もスプリンクラーを置いて水をまくなど、工夫していろいろ楽しいことを考えています。先日0・1歳児のためのプールというか水遊びスペースができていました。といっても専用の何かを買ってきたのではありません。原理は簡単、砂場にブルーシートを敷いて浅く水を張っただけです。子どもたちはこれが楽しいらしく、とても喜んで遊んでいました。シートの下は砂なので、転んでもあまり痛くありませんし、形も好きなように作ることができます。砂浜のような傾斜をつけたり、くぼみを作ってみたり、先日は古タイヤをビニールシートの下に置いてみたら子どもたちに人気だったと報告してくれました。

子どもたちも楽しいし、楽しそうな子どもを見ている大人たちも楽しい。楽しいがたくさん広がると良いと思います。

    砂場プール?

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