2012年 7月

やっぱり楽しい

2012/07/11

大人が楽しんで行うことが保育の質の向上につながりますが、ただ好き勝手なことをすれば良いというのではありません。そこには「みんなのいのち輝く」という理念があり、子どもの学びや育ちが含まれている事が大切です。

保育の仕事は、いろいろなことが子どもの学びや育ちにつながる、ありがたい仕事です。趣味にしている楽器も、絵を描くことも、好きな映画も、本も、保育に活かそうと思えばなんでも活かせます。子どもは様々なところから学ぶからです。時には大人が思いもしないところから学びます。ということは裏を返せば、保育者の全てを子どもが学ぶということです。言い換えれば、何を大切に思って保育するのか、保育者がどう生きるのかという根源的な部分までが子どもの育ちや学びに関わってくるということです。「保育は学問ではなく、生きる道だ」とおっしゃる先生がいらっしゃいますが、まさにそういうことだと思います。

お泊まり保育でどんなことをしようか・・・私もそのわくわくの仲間入りをさせてもらいました。お泊まり保育での私の役割があったのです。毎年、私はキャンプファイヤーの点火を担当していて、そこでは火の大切さと危険性を子どもに伝え、キャンプファイヤーを通して子どもたちが感動すること、ファンタジーの世界に浸れることを大切にしようと思っています。なので、昨年までは空から火の玉が下りてきて火が付くという方法をとっていました。その方法は毎年子どもたちにも語り継がれていましたが、今年はそれが難しくなったので、どんな点火方法が良いのか考えました。何か子どもたちが驚くような点火方法はないものかと考えた末、火を着けなくても勝手に燃え出す仕掛けを作ろうと思いついたので、男性保育士に相談したら、乾電池を使って遠隔点火する方法をネットで調べてくれました。それをやってみようということになり、保育士が発火部分を私が電源とコントロール部分を作ることにしました。私が作ったのは、発火装置に電源を供給するだけの単純なものなのですが、こんな仕組みにしようと考え、DIYショップで電池ボックス、スイッチ、それらのケースにするタッパを購入し、組み立てました。電源部分とコードが切り離せた方が移動や保管が楽だとか、誤ってスイッチを入れてしまった場合に備えて、2重のスイッチにした方が良いとか、いろいろ考えながら組み立てていたら、それをとても楽しんでいる自分に気付きました。もともと何かを作るのは好きです。下手の横好きというやつです。最近忙しくて、あまりしていませんでしたが、「やっぱりこういうの好きかも・・・」と思ってしまいました。

そんな、自分再発見の機会を与えてくれた子どもたちに感謝です。

もちろん、このことは子どもたちには内緒ですよ!保護者の皆さん!

楽しんで

2012/07/10

話し合いを経て、お泊まり保育のプランができあがりました。そのプランを具体的な形に作り上げてゆくなかで、職員がそれぞれにいろいろなことをやってみたいとアイデアをふくらませました。

例えば洗濯です。食事のように必ず行わなくてはならないものではありませんが、子どもたちが普段家の人にしてもらっている洗濯を自分でやってみて欲しい。という担当者の思いから洗濯をすることにしたようです。それも洗濯板を使って洗濯するというのです。問題はどうやって洗濯板を調達するかです。担当の保育士が子どもと一緒に洗濯板を作るところからやりたいというアイデアを、用務員を兼任している保育士に相談したら、用務員も「そこまで言うならなんとかしよう。」といろいろ考えていたようです。そして、木材の面取りをしたり溝を付けたりする機械を使って、子どもたちと一緒に作っていました。1つの目的のためにそれぞれの得意技を活かして貢献する。チームプレイです。

私は「そこまでするの?」と思いましたが、実際に作業をしている子どもたちはとても楽しそうにしていました。保育士達には、お泊まり保育のために作った洗濯板を使って家でも洗濯してくれたら嬉しいなという思いもあったようです。

子どもが危なくないように作業できて、簡単に一定間隔の溝をつけるにはどうすれば良いか、用務員はずいぶん考えたようでした。出した答えは、大きさの違う数枚のゲージを作り、それを組み合わせて使って一定の幅で溝をつけようというものです。例えば1、2、3、4、5、10センチと幅の異なる板、6枚をゲージとして用意しておいて、1センチの次は2センチと順に交換して5センチまで行えば5つの溝をつけることができます。6センチは、5センチと1センチの2つを並べる。という要領です。

それを何度か繰り返しやっているうちに、「7やったら5と2」という子も出てきたようで、遊びの中で自然に数に親しんでいる姿がありました。あとで、用務員に「そこも狙っていたの?」と聞いてみると、「気がつく子がいれば、それはそれで良いかなとは思っていた。」と言っていました。

また、おやつは「何か手作りのものをみんなで食べたい!」とい言い出した保育士がいて、それならかき氷にしようということになり、氷にかけるシロップを保育士達が作っていました。季節の果物を甘く煮詰めてジャムのようにするとおいしいのではないか。今の季節ならさくらんぼを使おう。と、アメリカンチェリーと佐藤錦で作ってみるとアメリカンチェリーの方は色は良いのだけれど、味は今ひとつ、佐藤錦は味は抜群だが、色が今ひとつだったようで、それなら混ぜてみれば、ということでまぜると、色も味の深みも良いものができました。それだけでは、選ぶ楽しさがないので、もう1種類ヨーグルトをベースにした、乳酸飲料のようなシロップを若い男性保育士が発案して作っていました。試作品を食べたのですが、両方ともとてもおいしくて、「これ売れるで!」と思ったくらいです。

「大人が楽しんでるだけやん!」と言われそうですが、大人が楽しまないと子どもが楽しめるはずがありません。楽しいと思えるからこそ誰かと協力もできるのです。「保育が楽しい」という気持ちが意欲に繋がり、保育の質の向上に繋がるのだと思います。

お泊まり保育のプラン

2012/07/09

保育士達が、「子どもたちが自分で生活すること」を目標に定め、お泊まり保育を見直したいという提案をしてくれました。そこで、お泊まり保育検討プロジェクト(私が勝手に命名しただけですが…)を立ち上げ、職員で話し合いをしました。

最初に話し合ったのは、「お泊まり保育って何?」ということです。お泊まり保育とは何なのか?子どもたちにどんな経験をして欲しいのか?という最も基本的なことです。職員から出てきた意見は、「自分で生活をする」「友達と協力して生活する」「みんなで一緒に取り組む」「みんなで一緒にしたからできたと感じて欲しい」その中で「楽しむ」「自分を見つめる」ことが「子どもの自信の源になってほしい」といったものでした。これは、一人のことばではなく、みんなのことばを並べただけです。似たことばが並んでいます。ぴったりとは言わないまでも、みんな少しずつ同じ方向を向く事ができてきているということです。とても嬉しいことです。

そうやって、お泊まり保育を基本から見直し、何のために、誰のために行うのかを話し合った結果、「子どもが生活する」ということばに行き着きました。ここでは、子どもがの「が」が強調されています。つまり、「子ども自身がより主体的に活動できる環境のもと、普段の生活のなかで大人にしてもらっていることを、仲間と一緒に協力し合いながら自分たちで行う。」という経験をお泊まり保育の中で実現しよう。ということです。

プロジェクトチームのみんなが「子どもが生活する」というキーワードを共有することができると、そのために最適な場所はどこか?何を行えば良いのかが見えやすくなってきました。

生活を基本とするなら、普段慣れ親しんだ保育園を場所として選ぶのが最適だろう。ということで、場所は保育園に決定。その他、生活するっていうと思い浮かぶのは、食事でしょうか。食事を自分たちで用意する。自分たちで用意するなら、お泊まり保育ならではの夕食。というところまで行けばあとはアイデアがどんどん浮かんできます。メニューは何が適当か。それなら子どもたち自身で食材を調達できないか。みんなで買い物に行くのはどうか。誰か知り合いに農家がいればそこで、何か収穫させてもらうというのはどうか。などどんどん職員のイメージがふくらみます。

食事の他にも、お風呂、掃除、洗濯などいろいろなことができる。とアイデアが出ましたが、あまり欲張ると難しくなるという意見も出され、多くの中から絞り込んで、食材の買い出し、調理、洗濯、掃除に子どもたちが取り組むことにしました。

さて、どんなお泊まり保育になるのでしょう・・・

なんのために、だれのために

2012/07/08

夏前のこの時期、当園ではお泊まり保育を行っています。平成2年から20年以上にわたってお泊まり保育は、お寺で一泊することを続けてきました。お寺でのお泊まり保育は、日常から離れて普段ではできない体験をするということを目的の1つとして実施していました。お寺で一泊すること自体が非日常ですし、夕方や朝のお勤めに参加したり、朝食は修行中に行う食事作法に則っておかゆとお味噌汁をいただくなどなど、様々な体験をしていました。

ところが、今年は保育士から、「子どもが自分たちで生活をすること」を目的にしたいので、お泊まり保育を見直したいとの申し出がありました。それは、とりもなおさず、子どもが主体的に取り組むことに重きを置くということなので、大歓迎です。保育士が積極的に理念や、めざす子ども像から保育のあり方を考えているということです。事前に全職員を対象に「お泊まり保育を見直したいが、どうすれば良いか」というアンケートを行ってくれました。回答の中には「自分で考え自分で決め自ら行動する。という子ども像から考えると子どもが自分たちで生活することが良い」というものもありました。子ども像から保育を考えているのです。

アンケートでは子どもたちが「自分で生活する」ためには、非日常ではなくて毎日の生活の場であり、慣れ親しんだ保育園で一泊する方が子どもたちがリラックスして主体的に活動しやすいので、今まで行ってきたお寺ではなくて、保育園で一泊するのが良いのではないか。という意見が多かったようです。

私は、20年以上も続けてきたお寺でのお泊まり保育が、園でのお泊まり保育に変わることに全く違和感がなかったわけではありません。思い出もあれば、思い入れもあります。しかし、「今まで行ってきたから」ということだけではそれを続ける理由にはなりません。いつも理念から考える事が大切で、理念を形にするにはどんな方法が一番良いのかを考えるべきなのです。わかってはいるつもりですが、少しは未練もあります。「今まで20年以上続けてきたのは、何だったのか?」という想いがないわけではありません。しかし、冷静に考えると、「今までやってきなことは何だったのか」というのは、私自身の思い入れだったり未練だったり、まったく私自身の都合の話です。何のためにお泊ままり保育をするのでしょうか。お泊まり保育を通して子ども達がより良い発達を遂げるためです。そのために子どもが主体的に活動できる環境を用意した方が良いのなら、そうすれば良いだけです。

しかし、人は変化することを避けがちです。自分が今までやってきたことが一番良いと思いたくなります。しかしそれでは、自分の我欲のためにそのことをやろうとしているに過ぎなくなってしまうのではないでしょうか。そう考えて、お泊まり保育の見直しを職員に委ねることにしました。

教育の未来

2012/07/07

「第6回ALL関西教育フェスタ」のことを思い出していたら、「教育って?」という話から乳幼児の教育の話になってしまいました。他にフェスタで紹介したのは、自然の中で思いっきり遊んでいる当園の子どもたちの姿です。全体の参加者もあまり多くなかったようで、分科会もこじんまりとみんなで集まって話しができたという感じでした。

それにしても、企画運営をしてくださっている皆さんは学生さんが多いようですが、最初の企画や準備からのことを考えると、かなり手間暇をかけ、気持ちを込めていらっしゃるのが伝わってきて頭が下がる思いがしました。スタッフの皆さんの熱心さもそうですし、参加者の皆さんもとても熱心に参加していらっしゃるのがよくわかりました。

分科会のうち私が聞くことができたのは、イギリスからALTとして来日され日本で英語教育に携わっていらっしゃる方のイギリスの教育の現状についてでした。

また、子どもの貧困をなくそうと尽力されている学生さんの方々の実践発表からは、日本において、子どもの貧困問題がかなり深刻だということを臨場感を持って知ることができました。OECDの調査では一人親世帯の子どもの貧困率は日本が一番高い、それも飛び抜けて高いそうです。子どもの貧困の問題が深刻になりつつあるということは聞いていましたが、その切実さを改めて知ることができました。なによりもこの問題を解決しようと一生懸命にとりくんでいらっしゃるのがよくわかりました。

私も一泊して最後まで参加したかったのですが、どうしても次の日に用事があって、その日のうちに帰らなくてはならなくて、失礼をしてしまいました。このフェスタの目的の1つが、「つながる」だったのでいろいろな人と話をしたかったのですが、しょうがないですね。

一泊したい理由がもう一つありました。それは基調講演です。講師はミスター文科省といわれた寺脇研氏、寺脇氏は文部科学省で、ゆとり教育や総合的学習の時間を推進した方です。その寺脇氏とゆとり教育を受けた世代の方々による討論会も計画されていたようだったので、聞いてみたかったのですが、叶いませんでした。残念です。

今回のフェスタは参加人数が少なかったようですが、教育について熱い思いを持って活動していらっしゃる学生さんたちがいらっしゃることを知って、頼もしく思いました。

私にとってフェスタへの参加はかなりのプレッシャーでしたが、自分自身をふり返る機会にもなりましたし、志の高い皆さんに会うことができて心を動かされたと同時に、頑張らなくてはという思いに駆られました。このようなご縁を頂いたことに感謝します。

乳幼児期の教育

2012/07/06

ひとことで「教育」といいますが、その形は様々です。時には一斉に同じことを教え込むことが必要な場合もありますし、特定の技能や知識を習得させることが大切な場合もあります。しかし、乳幼児については一方的に教え込んだり、おとなが思うように動かしたりしようとするのは、適当ではないように思います。

なぜなら、乳幼児の時期こそ自ら主体的に活動すること、学ぶこと、他の人と関わることなどを遊びという経験を通して学ぶときだからです。経験を通して学ぶためには子どもが主体的に環境に関わってゆくことが重要です。

その前提として、「養護」といわれるように「生命の保持と情緒の安定」がないことには積極的に外界に関わろうという気持ちは生まれてきません。それこそ大人が保証すべきことでしょう。ここにいれば、自分は自分のままで大丈夫。どんなことがあっても受けとめてもらえるという安心が大切です。そういう基礎があるからこそ、探求心を存分に発揮して様々な環境に興味、意欲、関心をもって、主体的かつ積極的に関わってゆくことができるのです。

子どもたちにとって一番大切なこと。それは、一人ひとりの子どもが、しっかりと発達を遂げるということです。一人ひとりの子どもの発達にとって今、何が一番必要なのかはそれぞれ異なります。それなのに大人の都合だけで子どもを十把一絡げにして、同じことをやらせていては、その子の最大限の発達を保証することはできないのです。

英語に Education ということばがあり、教育と訳されています。この Education の語源はラテン語で「外に導き出す」という意味の語だそうです。つまり、人の持つ様々な能力を引き出すことです。乳幼児期の教育は一人ひとり異なる子どもの力を最大限に引き出すことが大切なのです。子どもが自分の力を最大限に発揮できるような機会を用意する。時には誘ったり、少し背中を押してあげたりすることが私たちの役目です。

鞭打って強制するのではない、子どもたちが持っているものを引き出す、というより子どもたちが自分を発揮して、自らいきいきと育ってゆく、興味、関心、意欲を発揮して主体的に環境に関わることができること、それが乳幼児期に必要な教育だと思います。

このことで、子どもたちは自ら学んでゆくことや、自らの興味関心を原動力として探求してゆくことの楽しさを経験します。その経験こそが基礎になり、のちに学校で知識を身につけるとき、大人になって様々な困難に立ち向かってゆくときに必要になってくることなのではないのでしょうか。

教育

2012/07/05

思いがけず、教育フェスタの分科会で話をすることになり、どんな内容にしようかといろいろ考えました。私が話せることといったら、子どもが育つことについて普段考えていることと、子どもたちの園での様子しかありません。しかし、いざ伝えようとすると、何をどんな風に伝えると良いのかということは難しいものです。特に話をするのがあまり得意でない者としてはなおさらです。

講演などを聞きに行くと、何も見ずにスラスラと、しかもわかりやすく話をされる方がいらっしゃいますが、そういう方はきっと豊富な知識に加え、深い実践を積んでいらっしゃるのだと思います。実践を通してこそ理論が実際に自分の感覚となり、実践が理論を作り上げるので、聞く人の心に訴えかける話になるのだと思います。

さて、教育フェスタというくらいなので、教育ということを考えなくては、と思いましたが、そもそも教育って何でしょう。広辞苑には「教え育てること。望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する意図的な働きかけの諸活動」とあります。

保育士に「教育って何?」と聞いてみました。「学校で机を並べて勉強するちょっと窮屈な感じ、勉強しなくてはならないというイメージかなー」という答えが返ってきました。別の保育士からは「きょういく っていうと共育だと思う」というかっこいい答えも返ってきました。私も「教育」と聞くと、どうもやらされ感が強いイメージです。

教育、教育というと、「保育園なのに教育?」ということばが聞こえてきそうです。どうもそんなイメージがあるようです。保育園は子どもをお世話するところ、幼稚園は教育するところという感じでしょうか。それとも0・1・2歳児はお世話で、3・4・5歳児が教育というイメージでしょうか。

保育所保育指針の総則には「養護と教育が一体となって、豊かな人間性を持った子どもを育成するところに保育所における保育の特性がある。」とあります。

養護とは、情緒の安定と、生命の保持といわれるように、子どもが安定した生活を送るために必要な基礎的事項なのです。0歳であれ6歳であれ、全ての子どもに必要な、まさに基本的な事項です。

そして、教育というと、当園の保育士のもったイメージのようにどうしても学校教育を想像してしまうのですが、学校教育の前倒しではなく、特定の技能や知識の習得に偏るのでもなく、「子どもが健やかに成長し、その活動が豊かに展開されるための発達の援助」なのです。様々な環境を通して子どもが主体的に発達することを援助することなのです。

決して、知識や技能を一方的に教え込むのではないのですね。

教育フェスタ

2012/07/04

先日、「第6回ALL関西教育フェスタ」というイベントに参加しました。
教育フェスタとは、教育に関心のある人たちが集い、語り合い、学び合うイベントで、学校教育だけでなく様々な分野のゲストが分科会で講演やワークショップを開催し、参加者が自分自身でテーマを設定、選択して語り合うというものです。

2006年に第1回ALL関西教育フェスタとして始まり、今までに関東、東海、九州、全国フェスタが行われているそうです。
様々な大学の学生さんが中心となって企画運営されていて、その目的は「つながる」こと。人と人とが支え合ったり、つながり合ったりできることです。
今回の第6回ALL関西教育フェスタでは特に
・いろんな考えを持った仲間を見つける
・多種多様な教育の在り方、考え方、知識や技法を知る
ところに価値を置いて企画運営されていたようです。

そもそも、なぜこのイベントに参加することになったのか・・・
4月中旬のこと、それは1本の電話から始まりました。あまり園にいない私がたまたまいたときにかかってきた私あての電話、それは知り合いの園長先生からでした。あまり電話でお話しすることはなかったので、何だろうと思いながらお話を伺ってみると、ALL関西教育フェスタというのがあるので、参加してくれないだろうかということでした。

予定さえ合えば参加できると答えたのですが、話は最後までしっかりと聞くものです。てっきり、イベントに参加して、話を聞けば良いのだと思っていたのですが、電話で話すうちにどうも話しが食い違います。
よくよく聞いてみると、分科会を1つ受け持って、1時間ほど話をして欲しいということでした。
その場は、驚きながらも、ハイ!ハイ!と2つ返事で受けてしまったものの、大変なことになりました。人前で話をすることがそれほど得意ではないので、何をどう話せば良いのか。悩む日々の始まりでした・・・

もみじのちから

2012/07/03

   丸太が芽を出しました

伐採されて一本の丸太になってしまったもみじの木。それでもいろいろなところからどんどん芽を吹いて、葉を伸ばしてゆく、そんな生命力の強さに心を動かされました。

木が少しでも水を上げることができればと、短く切り分けて水につけられました。ちょうど、切り分けるところを見ていたのもあって、その後どうなるのかがとても気になりました。見に行けないときにお寺の人にどうなったかを聞いたら、なんと1日に1センチ近く葉が伸びているということでした。本当に驚きです。どんどん葉が茂ってきて、小さな一本の木のようになってきます。

一本の木でも末の方と元の方ではずいぶん違います。根元に近い部分ほどよく水を吸い上げ、上側の切り口が湿っていましたし、葉がたくさん出ているのは末の方です。
水に浸かっている部分から根が出てきて、土に植えもどせると良いなと思っていますが、それは少し無理かもしれません。

  芽がどんどん大きくなります

そうやって、たくさんの葉を茂らせたもみじですが、ある朝見てみると、せっかく大きくなった葉や小枝が、ほとんど無くなっていました。なにかの理由で切ったのかと思ったら、なんのことはない鹿が食べてしまったようでした。せっかく大きくなったのに・・・とも思いましたが、鹿も狙っていたのかもしれません。鹿も食べるものがなくなると命をつないでゆくことができないので、しょうがないのですね。

それにしてもものすごい生命力です。自然に生きているものは強いのかもしれません。子どもは木ではありませんが、ものすごい生命力を持って、自ら最も良く育つように生きているような気がします。それが最大限に発揮できるよう、大人は、ほどよい距離感で子どもたちを見守ってゆけると良いと思います。

生きる力

2012/07/02

子どもが育つ上で生きる力を育むことが大切だといわれます。生きる力とは何でしょうか。どうすればそれを育むことができるのでしょうか。誰かが教えてあげるものなのでしょうか。たくさん教えれば、その力がつくのでしょうか。

子どもは環境を通して育ってゆきます。自ら環境に関わることによって育ってゆくので、思う存分いろいろなことに興味関心を持ち探求心を持って関わることのできる環境を用意し、自ら育ってゆくことを応援してあげると良いのだと思います。しっかりと寄り添いながら、時には誘ってみたりすることも必要かもしれませんし、励ますことも必要でしょう。

ところで、生きているのは人間だけではありません。自然の中で様々な動植物がそれぞれの役割を果たしながら生きています。誰かに教えられるわけでもなく、まるでそうすることを知っていたかのように成長してゆくのです。その根源にはしっかりとした生命力があるのです。

少し前のことです。お寺に行くと、一本の木の幹が横たわっていました。仕方なく伐採しなくてはならなかったもみじの木だということです。太いところで直径20センチくらい、長さ3メートル弱といったところでしょうか。どうしようもなくて伐採したそうですが、なにかに使うつもりで置いてあったようです。

それから数日して、そのもみじの木の近くを通ることがありました。ふと見ると、そのもみじのところどころから緑の葉が出ているのです。根も枝も何もない一本の棒になった幹から葉が芽吹いているのです。その生命力のすごさにとても驚きました。

その後もお寺に行ったときに、もみじはどうなっただろうと思って見てみると、葉は大きくなり、数も増えていました。もちろん幹が水に浸してあったわけではありません。そんな姿を見たお寺の方もそのまま放っておくのは忍びないと思われたようで、70センチくらいの長さで4本に切りわけて、水につけておくことになりました。ちょうど、切り分けて水につけるところを見ることができたこともあって、それからそのもみじがどうなってゆくのだろうととても気になりました。

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