2011年 9月

philosophy

2011/09/10

いきなりphilosophy?と思われるかもしれませんが、哲学の勉強をしようというのではありません。

先日、久しぶりに知り合いの会社社長のオフィスを訪ねました。近くに用事があって出向いたので少し立ち寄ったのです。その会社は、翻訳や通訳など外国語に関するサービスを幅広く提供していらっしゃる会社です。ビルのエレベーターを降りてオフィスのドアを開けた瞬間、とても清潔感あふれるスキッとした印象を受け、気持ちのいいオフィスだななと感じました。白色を基調とした内装だからという理由もあるとは思いますが、それだけの理由ではないのです。雰囲気というのでしょうか、受ける感じが清々しいのです。白は汚れが目立ちやすいので、美しく保つのには手間暇かけていらっしゃるのだろうな。などと考えていると、応接室に案内されました。途中オフィスのスタッフ全員が仕事の手を止め、立ち上がってむかえてくださったのには、ちょっと恐縮してしまいました。

応接室で社長さんと雑談や近況を報告をしているなかで、鞍馬山保育園が今、「みんなのいのち輝く」ことを目指し、職員全員が「すべてのいのちが輝くこと」に価値をおいて目標とし、みんなで一緒に同じ方向を見つめて進んでゆけるように力を合わせているところだ、と当園の理念とそれに向かって進もうとしている職員の姿を話しました。

すると、「うちのphilosophyは浄く正しくなんです」と社長さん。その言葉を聞いて、最初にこのオフィスに一歩足を踏み入れた時に感じた清々しい印象が甦り、その印象と、社長さんの言葉が頭の中で繋がりました。「この会社はphilosophy、つまり経営哲学(理念)がしっかりと行き渡っていて、オフィスの雰囲気にもそれが現れていつのだ」と。

果たして当園は、いきいき感や楽しい感、いのちが輝いている感じが園内にあふれていて、一歩足を踏み入れた瞬間、そんな気を感じてもらえるのでしょうか?

ナラ枯れ 3

2011/09/09

ナラ枯れには決め手となる有効な対策がないというのが現状ですが、カシナガがあけた穴を爪楊枝で塞いだカシの木の何本かは幹のあちこちから新芽を出していました。どうやら木全体がすぐに枯れてしまったわけではなかったようです。

爪楊枝の効果のほどはよくわかりませんが、カシナガが入ったからといって全ての木がすぐに枯れてしまうわけではないということです。人間でも何かの感染症に感染しても、症状が出る人と出ない人がいるのと似ているのかもしれません。

同じようにカシナガガ入っても、樹齢や生えている場所、入ったカシナガの数、人間がとった対策などなど、何がどう影響するのかは良くわかりませんが、すぐに枯れてしまう木もあれば、また、新芽を出す木もあるのですね。原因(因)がひとつであったとしても、様々な要素、条件(縁)が加わることによって、結果(果)は様々なのです。

ナラ枯れ対策にはいろいろな考え方があります。一つは直接的な原因を取り除くという考え方。ナラ枯れ対策でいえば、カシナガが入った木は伐採して薬剤でくん蒸し、ビニールで密封するという方法。これは、カシナガが他の木に移らないようにするという点では最もわかりやすく効果的でしょう。もう一方で自然に任せるという考え方もあります。その最たるものは、全くなにもしないことでしょう。

前者からは自然と人間が対峙し合っているイメージ、後者からは人間が自然から離れてしまっているイメージを受け、両方とも違和感を感じます。

大きな自然の働きからすれば、人間も他の生き物も生き物以外のものも、同様に自然の構成要素であって、優劣などはなく、同列に様々に繋がり合っているという視点、いわば「自然の一部としての人間」という視点から考えたいと思います。「自然保護」とか「地球に優しく」はどこか、人間が別の所にいる上から目線の感じがしてしまうのです。

カシの木に爪楊枝を差し込む作業をしていた担当者と話をしていたら、「木の力を信じたい。」といっていました。木は一本一本違うのです。カシナガが入ったからといって一律に何かをするというのは、どこかちがうのです。木と話しをすることができるなら「どうすれば良い?」と一本一本に聞いてみたいと思いました。

こんな風に木のことを考えていて思ったことがあります。

子どもだって一人ひとり違うのだから、一斉に一律に何かをさせるのはやっぱり不自然だし、一人ひとりにとって何が必要なのか、何が大切なのかをしっかりととらえ、その子に一番必要な環境を用意する。いわば一人ひとりを大切にすることが一番だと思い直しました。もちろん、子ども一人ひとりを、丸ごと信じ切ることが前提です。

新しい芽がたくさん出ました

爪楊枝の脇から新芽が・・・

ナラ枯れ 2

2011/09/08

カシノナガキクイムシ(以下カシナガと略します)が、幼虫のために木の中でナラ菌を栽培しているなんて、どこか不思議な気がします。しかし、関心ばかりはしていられません。木がどんどん枯れてしまうのです。防除策はいろいろ考えられているようですが、決め手になるものはないようです。

1. カシナガが穴をあける前の木には、幹にビニールを巻いたり、薬剤を塗ってカシナガが入らないようにする。

2. 幹の中に殺菌剤を注入し、ナラ菌の増殖を抑える

3. カシナガが孵化する前に木を伐採し、中にいるカシナガが出てこないように殺虫剤ででくん蒸して、ビニールフィルムで密封する。

4. 早い時期にカシナガのあけた穴を爪楊枝などで塞いで、出てこられないようにする。

私の聞いた限りではこのくらいです。

1. のビニールを巻いたり、薬剤を塗布する作戦はすべての木に施すことは不可能ですし、現実的ではない。

2. 3. の殺菌殺虫剤作戦は、薬剤の成分が土壌や他の生物に与える影響がわからない。

ということで行いませんでした。

唯一試してみたのが、4. の爪楊枝作戦でした。それも爪楊枝をあらかじめ木酢に浸しておいてから使いました。この方法もすべての穴を塞ぐことができるわけではありませんし、ビニール同様すべてのナラやカシに行うことはできません。でも実験的に試すのなら爪楊枝作戦ということで、爪楊枝で穴を塞ぐことのできる範囲には実際にやってみました。いざやってみるととてもたくさんの穴があるので大変ですし、高いところなどは届きません。できる限り爪楊枝を差し込んでいったら、幹から爪楊枝がたくさん突き出たハリネズミのような異様な姿になってしまい、参拝者から「何かのおまじないですか?」としばしば訪ねられました。

そんな苦労をして爪楊枝作戦を実行したのですが、大きな変化もなく、冬を迎えました。

カシノナガキクイムシ

カシノナガキクイムシがあけた穴

ナラ枯れ 1

2011/09/07

鞍馬周辺の山林では昨年に引き続き今年もナラ枯れが広がっています。

葉が茶色に枯れてしまったカシ

ナラ枯れは、ナラやカシの木の葉が急に茶色になって枯れてしまうのです。紅葉が始まったのかと間違えるくらいです。昨年あたりから鞍馬でもこのナラ枯れが増え始め、たくさんの被害が出ました。樹齢何百年もありそうなカシの木が枯れてしまった例もあり、今年もたくさんの木が枯れかかっています。

ナラ枯れの被害に遭っている木は、葉が枯れる前でも近くに行くとすぐにわかります。木の根元に、のこぎりで木を切ったときに出るような木くずがたくさん落ちているからです。

ナラ枯れは、体長5ミリメートルほどのカシノナガキクイムシという甲虫が引き起こすことがわかっています。カシノナガキクイムシが木の幹に穴を開けて侵入し、幹の中に縦横無尽に穴を掘ります。以前はそれが直接原因だと考えられていたのですが、直接の原因はカシノナガキクイムシが運ぶナラ菌が幹の中で増殖して、木が根から水を吸い上げることができなくなることだそうです。

根元に積もった木くず

まず、カシノナガキクイムシの雄が幹に穴を掘り、集合フェロモンという物質を出して雌を呼びます。雌が穴の中に卵を産み付けると同時に、背中に乗せて運んできたナラ菌を穴の中に植え付けます。これは卵から孵化した幼虫の餌にするためです。そうすると、ナラ菌が幹の中で繁殖して水の通り道を塞いでしまい、木が枯れてしまうというものです。

木が枯れてしまうのは大変困ったことですが、この虫の生態を知ったときには「なんとうまい仕組みを考えるのだろう」と感心してしまいました。

 

オクラ

2011/09/06

3歳児がオクラを育てています。夏前に種をまいてみんなでせっせと水をやってかわいがっていたので、8月の初めには芙蓉に似たかわいらしい花が咲きました。

オクラの花

それから次々と実がなったので、初物はお供えをして、その後はみんなで食べました。給食に入れてもらおうと調理室に持ってゆくのですが、1日に2つか3つくらいしか実ができないので、調理員は苦労していたようです。おかずや汁物に入っているのもおいしいのですが、オクラだけを自分たちでゆでて食べてみようということになったらしく、何本かまとめて収穫して一人半分ずつくらい食べていました。何度も味わった後からもどんどん実が成ってきます。ちょっと変わったスターオブデイビッドという種類も育てていました。

ずんぐりむっくりなスターオブデイビッド

こちらは少し遅れて花が咲き実が実るのですが、ちょっとずんぐりむっくりの大きな実の形がおもしろかったので、普通のオクラとあわせてスタンピングに使おう、ということになったようです。せっかくなら紙ではなくTシャツを作ってみんなで運動会に着よう、と話しが膨らんだようで、オクラの星形の断面にアクリル絵の具をつけてTシャツにペタペタ。一人ひとり個性的な作品ができあがりました。

ステキなTシャツができました

種から大切に育てる楽しみ、咲いた花の美しさ、収穫するうれしさ、味わったときのおいしさ、そしてスタンピングのおもしろさと、オクラを楽しみ尽くした夏でした。

3歳児のある保護者から「このあいだスーパーに行ったら、子どもが野菜売り場からオクラとピーマンをとってきてカゴに入れるんですよ。ほんとに食べるのかなと思ったのですが、夕食に出したら喜んで食べていました。」と話していらしたそうです。自分で育てて収穫し、味わったのがうれしかったのでしょう。その子はオクラが大好きになったようです。

ちなみに、ピーマンは運動会で踊るダンスに出てくるようです。

ピーマンは苦みがあるので、苦手な子どもたちが多いようです。苦みを避けるのは毒を食べないように、酸味を避けるのは腐ったものを食べないようにという理由からもともと人間に備わっている自己防衛能力なので、子どもたちが嫌がるのは当然なのです。誰かがおいしそうに食べているのを見ることで、苦いものや酸っぱいものを食べられるようになってくるそうです。そういえば、子どもの時は大人が飲んでいるビールをおいしそうだからと飲んでも、何でおとなはこんなに苦いものを飲むのだろう 、と思いますが、大人になると「暑い日は風呂上がりのビールに限る」なんていって飲んでいますものね。

少し苦手な食べ物でも、一緒に食事する誰かがおいしそうに食べているのを見ることで、食べられるようになる。みんなで「おいしいね!」と言い合って楽しく食べることが大切なのだと思います。特に子どもどうしで楽しみながら食べることが大切です。

オクラのいのちも、子どもたちも輝いた夏でした。

保育園の役割

2011/09/05

待機児童対策ということが盛んに言われ、新しく保育園が作られたり、既存の保育園が増築されたり、定員が弾力化されています。しかし、待機児童対策として一人でも多くの子どもが保育園に入れるように努力しても、またすぐに待機児が増えてしまうということが起こっているようです。

当園でもここ数年、定員を少し超えて子どもたちを受け入れています。当園の園児のほとんどが4㎞以上離れたところから、電車や自家用車の送迎で通ってきています。毎日のことなので保護者の皆様は大変だろうと思いますが、こんな山奥まで通っていただき感謝しています。

少子化といわれているのにどうして待機児童が増えるのでしょう。様々な原因があると思います。もちろん両親の就労ということが一番大きな原因でしょうが、あるお母さんから「私も仕事をしたいし、子どもも家にいても一緒に遊ぶ友達もいないので…」ということばを聞いたことがあります。これも子どもを保育園に行かせたい理由の一つではないでしょうか。地域で子どもが集団を作って遊ぶことができなくなってきていて、保護者はそれを不自然に感じていらっしゃるのかもしれません。

少子化対策が語られる中で、違和感を覚えることがあります。子どもをまるで荷物か何かのように預けるというニュアンスを感じてしまうことがあるからです。保育園の役割はただ子どもを預かるだけではありません。子どもをしっかりと育てることです。その意味で、子どもの集団があるということはとても重要なことです。

しかし、ただ単に子どもがたくさんいるだけでは意味がありません。そこで、子どもがお互いに意見を交換し、力を合わせて共に何かに取り組むという子どもどうしの関係と、その関係を通して子どもが主体的に遊びや生活を創造してゆくことができる環境が必要なのです。

だからこそ、私たち保育者は様々なことが、できるだけ子どもの中で、子どもどうしの関係で創造したり解決できるようにする。子どもが自ら遊びや生活を作ってゆける。そういう環境を整えることに力を注ぎたいと考えています。

子どもたちが大人になったときに、自ら進んで人と意見を交換し合い、共に力を合わせて、みんなが幸せになれる社会を築いてほしいと願うからです。

台風

2011/09/04

台風12号が四国から中国山陰を通って日本海に抜けてゆきました。京都はあまり台風が接近することは少ないのですが、今回は久しぶりに近くを通りました。9月2日金曜日から次第に風雨が強まり、2日夜から3日未明の風は、寝ていても目を覚ますほどでした。2日夜から京都市に暴風警報が発令されていたため、3日は保育はお休みです。万が一暴風警報が解除されたときのために職員は出勤しました。台風11号が接近したときは前夜から出ていた暴風警報が午前7時30分になっても解除されなかったので保育は休務だったのですが、8時30分に警報が解除され、その時点から保育を再会することになりました。幸い職員は出勤していたので慌てることはなかったのですが、職員も自宅待機にしていたら少し慌てていたかもしれません。

3日は台風が近づいてきて、最近経験しないくらいの強風に見舞われました。といっても園は山麓にあるので、開けた土地ほど風が強いわけではありません。それに対して山の上は少し風が強めだったようです。大きな杉の木が左右に大きく揺れて幹から折れてしまうのではないかと心配になるくらいです。強風に揺すられ、幹を大きくしならせながらも風に耐えている木が頼もしく見えました。

3日日中は風の強い状態が続き、雨は断続的でしたが、夜には風よりも雨が激しく降るようになりました。土砂崩れで園舎が埋まっていないか。木が倒れていないかなどと心配しましたが、幸い大きな被害はありませんでした。

和歌山県や奈良県をはじめ、各地で大雨による河川の増水や土砂崩れにより大きな被害が出ているところがあります。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

鞍馬も山に囲まれているところなので、土砂崩れなどが心配されます。今回、大きな被害がなかったことはありがたかったとしか言いようがありません。

でも、まだまだ雨は降り続いています。警戒を続けます。

心を開いて

2011/09/03

私たちは、毎日いろいろなことをしています。日々繰り返されること、毎週決まってやっていること。毎年巡ってくる行事。それらを行ってゆくうえで、毎日こうしているから、去年もこうしたから、とついついそのことの意味を考えず、慣例に従ってやってしまうことが多かったりします。いつもと同じやり方や形でも、何のためにそのことをするのかな?どんな方法や形が最適なのかな?と考えた上で、やっぱりいつものやり方が良いというのならそれでよいのですが、あまり考えないでいつも通りにやってしまうことがあります。

先日、このことを改めて考える機会に恵まれました。運動会が近いので、保育士が集まって打ち合わせをしていたのですが、毎年行っている方法はどうなのだろう?と一人の保育士が問題提起をしてくれました。それをきっかけに、いろいろな意見を遠慮なくぶつけ合うことができました。問題になったこと自体はとても些細なことですが、それぞれがいろいろな意見を持っていることがよくわかりました。誰かが納得いかないまま一つの方法を選びたくはなかったので、たとえ些細なことでもできるだけ意見を出してもらえるように時間をとりました。

人って不思議なもので、自分の考えでいろいろなことを解釈し、他の人も同じように物事をとらえ解釈していると思ってしまうのです。自分がもっているイメージと他の人のそれとでは違います。当然ですね、違う人間なのですから。でも、同じだと勘違いしやすいのです。心を開き、言葉を尽くして説明してこそ、少しずつわかり合えるのだと思います。

そうして、お互いの違いをわかり合っても、平行線のままのことが多いのです。そこで必要なのが、「そのことを何のために行うのか」から考えることだと思います。例えば運動会の開会式は何のために行うのか、そもそも運動会自体、なぜ行うのか。何のために行うのか。というところまで遡って、お互いに確認し合う。その共通認識をある程度もてたうえで、ではそれをどういう形や方法で行うかを作り上げてゆけると良いのだと思います。

そこまで深く充分に話し合うことはできませんでしたが、みんなが「何のためにそれをするのか」ということを考えるきっかけにはなったと思います。話し合う上で気をつける必要があるのは、自分と違う意見を聞いたときに、「なんでこの人わかってくれないのだろう」と不満や怒りといったネガティブな感情が生じてしまいやすいことです。このネガティブな感情に流されないよう、自分を律して冷静に意見として受け止め、自分の意見も冷静に伝えられることを心がけたいと思います。

話し合いの最後は、意見がすっきりまとまったわけではありませんでしたが、みんなが心を開いて話し合うことができたと思いますし、本当に大切にしなくてはならないこと「すべてのいのちが輝くために」を基準にして考えることができたと感じました。

すばらしい仲間とチームを組めることに感謝しています。

社会

2011/09/02

「人間は他の動物と異なり、弱くなることで生き延びてきた。」という話しを聞いたことがあります。確かに狩りをするために鋭い爪や牙、速い足を持つという進化を遂げた肉食動物たちは強くなることで生き延びてきました。また、それらの肉食動物から逃れるために様々な術を持つという進化を遂げた他の動物たちも逃げるという能力をつけ、強くなることで生き延びてきたといえると思います。

園の近くにはよく野生の鹿が姿を見せますが、雨が降っていても、雪が降っていても、暑い夏の日も山の中をうろうろしています。そんな鹿を見ると、「寒くないのかな。よく耐えられるな。鹿と同じ条件で山の中に放り出されたら、私はとても生きてゆけないだろうな。」と思ってしまいます。そう思うと人間はとても弱いです。それなのに、どうして生き延びてこられたのでしょう。

その答えは、社会を形成したからだそうです。個々は弱くても社会を形成し、役割を分担し、守り合うことで生き延びてきたというのです。そして、その社会の中で最も中心にいるべきなのが、最も弱い存在、あかちゃんや子ども、高齢者やしょうがい者です。弱いからこそまん中で守られる必要があるのです。一番弱い人をまんなかに、その人たちのことを中心に考えることが社会の姿なのです。最も弱いあかちゃんを育てるという行為は人間が社会を作ってゆくために有効な手段なのです。そう思って今の社会を見てみると、少し心配になります。

子どもにも社会が必要です。というより、こどもも社会の一員なのです。だからこそ子どものうちに社会を経験しておく必要があるのです。昔は地域に子ども集団がありました。ガキ大将がいて、年長の子から小さい子までが群れて遊んでいました。そんな中で子どもたちは社会を経験してきたのです。その集団が同年齢ということはめったにありません。様々な年齢の子が集団を形成していて、大きな子が小さな子を守ったり、近い年齢同士での関わりなど様々な立場を経験していたのでしょう。ところが最近は地域で子どもが群れて遊んでいる姿を見ることが少なくなりました。だからこそ、たくさんの子どもが関わり、社会を形成する場が必要になるのです。それが幼稚園や保育園の役割なのです。そう考えると、異年齢の集団が一番自然なのではないでしょうか。4月から翌年の3月生まれの子どもしかいない集団は不自然です。

当園では基本的に異年齢で過ごしています。一番自然なかたちは0歳から6歳までが一緒に過ごすことなのでしょうが、今はそれは不可能なので、0歳1歳2歳と3歳4歳5歳という異年齢の集団で過ごしています。

「人間が社会を形成することで生き延びてきた」とするなら、子どもたちが子どもの社会を形成する経験をせずに、大きくなったときにちゃんと社会を形成できるのでしょうか。心配です。

子どもの主体性

2011/09/01

子どもは、あかちゃんのうちから立派な一人の人格であり、決して大人の所有物や大人に従属するのではなく、一人の人間として主体的に生きています。

子どもが大きくなるのには、首がすわり、寝返りをし、お座りをして・・・というように、一定の順序があります。そして、子どもは自分の発達に必要なことをします。ある時期、ティッシュペーパーをどんどん引っ張り出したりすことがありますが、それは引っ張り出すという動きを身につけるためにしています。また、食卓に座るときに、お父さんの席はここ、お母さんはあそこ、お兄ちゃんは僕のとなりと決まっていることが、何かの都合で変わってしまったりすると、どうしようもなくいやになる時期があります。それは、決まった人が決まったところにいる。いつも、同じ物が同じ所にある。いわば秩序を身につけたい時期なのです。その時期だけというわけではありませんが、それがその子にとって一番適切な時期なのです。

子どもは自分に必要な発達を遂げる時期が来るとそのことがやりたくなるのです。もちろんそれは、子ども一人ひとりで違います。誕生日が同じだとしても、子どもによって違います。

そんな子どもの発達にとって大切なのはどんなことでしょうか。それは子どもが自分の発達にあった遊びを自分で自由に選べる環境を用意しておくことです。これは、何をして遊ぶかを子どもが自分で選んで決めるということです。何をして遊ぶかに深く関わりますが、どこで遊ぶかということも子どもが選びます。

また、子どもはいつも一人で遊んでいるわけではありません。友達と遊ぶことの方が多いでしょう。では、子どもは誰と遊ぶでしょう。自分のしたい遊びと同じ遊びをしたい友達と遊ぶのが一番充実して楽しいのではないでしょうか。難しいルールのゲームをそのルールが理解できない子がやろうとしても、おもしろくないでしょう。3歳児でも木登りが得意な子は、5歳児と木登りをして遊んだ方がおもしろいこともあります。ですから、こどもが誰と遊ぶのかを選ぶことができるように、異年齢の集団を用意しておく方が良いと考えています。

そもそも5歳児とか4歳児とかいいますが、大人の都合で便宜的に4月1日という境界線をもうけて、子どもを分けているだけではないでしょうか。ですから、それにあまりにもこだわり過ぎる必要もないのかと思います。子どもが、誰と遊ぶか、どこで遊ぶか、何をして遊ぶかを自分で選んで決められることが大切だと考えています。

なぜなら、私たち保育者のすべきこと、最も大切にしなくてはならないことのひとつ、それは一人ひとり違う子どもたちが、それぞれの発達を十分に遂げることができるようにすることのはずです。そのためには何が必要かを考えると、子どもたちが自分で発達を遂げられるように最適な環境を用意しておくこと、その環境は子どもが誰とどこで何をして遊ぶのかを主体的に選ぶことができるという環境だと考えています。

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