ある日、年長クラスのRくんが
「今日のおやつはなんなん?」と聞きにきました。
「ヒントは…寒い季節がくるとおいしくなるくだもの!!」とヒントを出すと
Rくんは悩んで悩んで…
「わかった!!冬苺や!!」と答えました。
年長クラスはお散歩で冬苺を摘み食べることもあるそうで
お山にある保育園ならではの答えだなぁ、と感心しました。
ちなみにその日のおやつは、みかんでした(^_^)
冬苺
2012/12/22
2012/12/22
ある日、年長クラスのRくんが
「今日のおやつはなんなん?」と聞きにきました。
「ヒントは…寒い季節がくるとおいしくなるくだもの!!」とヒントを出すと
Rくんは悩んで悩んで…
「わかった!!冬苺や!!」と答えました。
年長クラスはお散歩で冬苺を摘み食べることもあるそうで
お山にある保育園ならではの答えだなぁ、と感心しました。
ちなみにその日のおやつは、みかんでした(^_^)
2012/12/21
今日は二十四節季の冬至です。1年のうちで昼が一番短く、夜が長い日です。この日を境に昼が長くなってゆくので、この日を1年の始まりと考えていたこともあるといわれています。現代の便利な生活では、それこそ昼夜の長さをそれほど気にせずに過ごそうと思えば過ごせます。しかし昔の人にとってはとても重要なことだったのだと思われます。冬には太陽が見える時間がどんどん短くなってゆくのですから、不安でしょうし、冬至を境に少しずつ昼が長くなってゆくというのは嬉しいことだったのではないでしょうか。世界の各地で、冬至にまつわる行事がいろいろ行われているようです。特に北極圏などの高緯度地域では、太陽も高くは昇らず、日が昇ったと思ったらすぐにまた長い夜がやってくるとなると、昼が長くなるのは待ち遠しいことだと思います。クリスマスの起源はこの冬至のおまつりだともいわれています。
日本の冬至といえば、かぼちゃにを食べることとゆず湯が有名ですが、ビタミンやカロチンを多く含むかぼちゃは野菜の少ない季節に栄養を補給するのに良いので食べられるようになり、冬至にかぼちゃをたべると風邪をひかないなどといわれるようです。
ゆず湯は江戸時代頃からはじまった習慣のようで、血行をよくする効果があり、冷え性や風邪の予防などに効果があるとされています。
ゆずといえば、11月のある日、園に行くと柚のとても良い香りがしていました。香りに誘われて、保育室の方へ言ってみると。たくさんのゆずを保育士と調理員が鍋で煮ているのです。このゆずどうしたのと聞くと。園庭の生け垣に柚の木があってたくさん実がなっていたので、ゆずジャムを作っているというのです。そういえば、そんな木があったなくらいにしか覚えていなかったので、これほどたくさんのみをつけているとは、驚きでした。ゆずに砂糖を加えて煮詰めてジャム状にしたものを、お湯で薄めてゆずジュースにして子どもたちと飲んでみようとしていたようです。
少し味見をさせてもらったのですが、かなり苦味があるように思ったので、子どもが飲むのか少し気になりましたが、その日はあいにく出かける予定が合ったので、子どもたちと一緒にいただくことはできませんでしたが、あとで様子を聞くと、みんな喜んで飲んでいたそうです。自分たちが収穫したゆずがジュースになって出てきたのですから、嬉し飼ったのだと思います。
こういった自然の食べ物を見つけて、子どもたちと工夫しながらいただくのって、ステキだと思いました。
2012/12/20
日本赤ちゃん学会理事長 小西行郎先生の講義を聴く機会に恵まれました。「赤ちゃんの触る」ということについてです。お話しは、触覚とは「触る」感覚か、「触られる」感覚かという問いからはじまりました。最近の研究から「触る」と言うことが重要視されてきているにもかかわらず、赤ちゃん「が」触る機会が減ってきていないか気になるとおっしゃっていました。
赤ちゃんがお母さんのおなかの中にいるときから動いていることはよく知られていることですが、なぜ動くのでしょうか。「動く」ことによって「触る」ことがおこり、この繰り返しが運動パターンを作っているそうです。そしてこのことに大切なのが、赤ちゃんが自発的に動く、自ら動くことなのです。おなかのなかの赤ちゃんを外から動かすことはできませんから自発的に動いているのですが・・・
「先ず動くこと」、そして「動く」ことが「触」るをもたらし、それが発達の基礎を形成するのだそうです。それは、何も赤ちゃんの時に限ることではなく、幼児になってもそのサイクルは基本的には変わらないようで、子どもの発達は「子どもが動く」ことからはじまるようです。ですから、保育においても、大人が大人目線で、大人の都合だけで計画を立て、それを子どもにやらせるのではなく、子どもの動きをしっかり見ることで、今この子に必要なことを読み取り、それに合わせて計画を立てるべきだということなのです。つまり、出発は「子どもから」なのです。そして、大切なのは子どもが自ら動き出すということなのです。
「今の保育は大人が「やってあげる」ことが多すぎるのが気になる。」と、先生はおっしゃっていました。
まずは子どもが自発的に動いているところを見て、その動きが続けられたり発展できるように、環境を整えること。目の前の子ども一人一人から出発して保育を考えるという意味でも「子ども主体」の保育が大切だということがわかります。
2012/12/19
子どもたちが、自分の見つけたまちくさを発表しているあいだに、データセンターで写真がプリントアウトされました。一人ひとりの一番お気に入りのまちくさの写真を選んでプリントアウトしてもらったのです。
発表が終わったら、それを使ってまちくさカードを作ります。自分で見つけて自分で名前をつけた草、道端になにげなく生えている草もここまでやると愛着が湧きます。身近な自然に興味と関心を持って接することができました。
あらかじめ用意してくださったまちくさ台紙に、自分で名前をつけたまちくさの写真を貼り付け、空いた部分に思い思いの装飾を施します。
絵を描いたりシールを貼ったり、スタンプをおしたり、みんな夢中で取り組んでいました。普段は使ったことのないようなシールや、スタンプなど、珍しいものがたくさんあったこともあるかとは思いますが、やはり、まちくさを探して名前をつけたこと、それを発表した体験があったからこそ、最後のまちくさカード作りにも気持ちを込めて取り組むことができたのではないでしょうか。
子どもたちは様々な活動をしますが、それがその子の発達につながるのは、その子が自発的に主体的に取り組んだときです。
「しなさい!」といってやらせれば子どもはやりますが、それはその子の力や学びにはなりにくいと思います。しかし、初めて取り組むことは、大人がそのおもしろさを示してあげたり、誘ってあげることも時には、子どもによっては必要です。
これって「なんかおもしろそう!」と子どもが興味を持つことが、自発的にとりくむきっかけになるのです。そんな、きっかけをいたくさん用意しておきたいと思っています。
まちくさワークショップでは、まちくさ博士や「子どもとアーティストの出会い」の皆様がたくさんきっかけを作ってくださったおかげで、子どもたちは自ら楽しく取り組めました。
その日の夕方、お迎えにいらしたお母さんに自分の作ったカードを見せて嬉しそうに話す子どもの笑顔はとてもステキでした。
このステキな取り組みにお力を頂戴した多くの皆様に心から感謝しています。ありがとうございました。
2012/12/19
2012/12/18
先日、生活発表会がありました。
0歳、1歳の発表を会場で見ていました。いつもの感じが出ていてすごくかわいいかったです。
色々なハプニングも笑いになるあの可愛いらしさは本当に心が和みました。
2012/12/18
子どもがリラックスして取り組み、自分らしさを存分に発揮して素直に楽しめるようにご配慮いただいたのは、まちくさ博士や「子どもとアーティストの出会い」の皆様でした。そして、子どもたちのステキな様子を多くの人々に伝えるべく、子どもたちが心を開いて話せるようがんばってくださっていたのは、取材にいらしていた FM OSAKA のクルーです。
レポーターさんは子どもたち一人一人にインタビューしてくださっていました。それも子どもが緊張したり構えたりしないように随分配慮しながらです。ですから恥ずかしがり屋さんの子も思ったより話していました。私のインタビューを含めて、ぎゅっと凝縮されたレポートが翌日オンエアされていましたが、ランダムに録音していらっしゃったものが、こんなにもまとまるものなのかとプロの技に感心すると共に短いレポートでも放送するまでには大変な手間がかかっているということを感じました。楽しい時間はあっという間に過ぎ、まちくさをみつけて名前をつけ、
デジタルカメラで撮影する段階は終了。もっとやりたいという子どもに、次にすることとその楽しさを説明しながら、室内に戻ります。そこにはデータセンターができていて、撮影したデジタルカメラの写真をパソコンに取り込み、その中から子どもが自分のお気に入りを一枚選び、みんなの前で、どんな名前をつけたのか、なぜその名前にしたのかなどを発表する時間です。さすがに大勢の見ず知らずの方がたくさんいらっしゃるなかでは、堂々と発表とはいきませんでしたが、全員自分の思ったことを述べていました。子どもたちの力を感じました。当園の目指す子ども像の中に、「自分の想いを伝えられる子」というのがありますが、ほんとにそうなって欲しいと思います。そのためには何が必要か?・・・まずは聞いてあげることだと思います。この人になら聞いてもらえると思うから、伝えようとするのです。「相手を受けとめられる子」というのも目指す子ども像にあるのですが、まずは大人が子どもを受けとめることが大切なのだと思います。ついつい「ああでもない。こうでもない。ああしなさい。こうしなさい。」と一方的に言ったり、指示してしまいがちです。先ずは聞く、そして子どもが自分で考えるようなことばを返してあげることを心がけたいと思います。
2012/12/17
まちくさを見つけてその楽しさがわかってくると、子どもたちは次から次へと名前をつけてゆきます。自分のみつけたまちくさを早く見せたくて、「はかせー!」「はるかちゃーん!」とグループリーダーを呼びます。さっき会ったばかりの「まちくさ博士」や「子どもとアーティストの出会い」の井手上さん、ボランティアスタッフの方ともすっかり仲良くなっています。
子どもは素直なので、安心できる人だとわかるとすぐに仲良くなることができます。それは相手を純粋に一人の人として見て接しているからででしょう。世界中どこへ行っても子ども同士はすぐに仲良くなることができます。人を外見やことば、肩書きなど様々な属性で判断するのではなく、その人自身を感じているのでしょう。
子どもがそう接してくれるのだったら、大人だって同じように子どもに接する必要があります。どうしても、子どもだから、何もわからないから、できないから、大人の言うとおりにしなさい。という先入観をもって接してしまいがちです。もちろん大人より知っていることは少ないし、できることも少ないのですが、一人の人間であることには間違いありません。言いたいことだってやりたいことだってありますし、様々な行動には子どもなりの意味があるのです。まずは、ありのままの子どもを素直に受けとめたいと思います。
変な先入観なしに、素直なその人自身を素直に見ること。子どもが自然にそうするように、大人もそうできるはずなのに、すぐに先入観など余計な情報に流されてしまいます。相手が子どもであれ大人であれ、素直な心で素直に人に接したいものです。それは、言い換えれば、相手を、その人を、その人の役割をリスペクトするということなのかもしれません。
夢中になってまちくさをみつけ、みつけたら、嬉しそうに「見て!見て!」といえる子どもたちの素直な姿からそんなことを感じました。
2012/12/17
この間、年長児と本殿まで散歩に行った時、松葉がたくさん落ちていたので、松葉が三本繋がっている所(本殿にあるのは二本ではなく三本が繋がっている珍しい松葉なんです!)をひっかけて切れない方が勝ち!という「松葉ずもう」をして遊びました。
初めは友達同士自由に遊び、最後は誰が一番強いかトーナメント戦!初めはただひっかけて引っ張り合っていましたが、遊ぶにつれて力加減を変えてみたり、どんなふうに繋がってるのが切れにくいかなどそれぞれ考えて対戦していました。
さらに勝った人は負けた人から松葉一本貰えるなどのルールを自分達で決める姿も・・・。
みんなとても楽しかったようで、40〜50分ずっと遊んでいました。広い場所だから走りまわるばかりでなく、こんな遊びもいいですよね!
帰りは、お家でお母さんとしたい!保育園でする!と言ってたくさん集めて持って帰っていました。
2012/12/16
普段何気なく見過ごしてしまっている草に名前をつけることに子どもたちは戸惑うかなと思っていましたが、スタッフの皆さんがうまく興味をつないでくださったのですぐに慣れ、次々に草を見つけては、名前をつけていました。
椿の木の幹から並んで生えた脇芽に「きみとぼく」という名前をつけた子、太い欅の根元から幹に沿ってのびるつる性植物に気の横に棒が立ってる見たいやし「きぼう」と名付けた子、ユキノシタの小さな葉が2枚向き合って生えているのをみて「はさまれそう」、少し高いところにあった細い葉がたくさん生えているのが「おそいかかりそう」、同じ種類の草に「はなび」とつけた子もいました。子どもの発想力は無限というか、計り知れません。私などは「草を見つけて名前をつける」という固定疑念にすでに縛られているので、どこかかから石を持ってきて草の横において何かに見たてていたのには驚きました。発想の豊かさというのは、子どもの得意とするところです。しかし、子どもは論理的に思考することは、あまり得意ではありません。それは、情報の通り道である脳の神経回路のいろいろなルートを情報が通るからだと言われています。成長するにつれて情報の通り道が絞り込まれてくるのだそうです。
ですから発達はできることが増えてゆくのではなく、はたらきが「変化」してゆくことだと考えられます。つまり役割が変わってくるということなのです。ですから、赤ちゃんには赤ちゃんの役割、幼児には幼児の役割、学童には学童の、青年には青年の、壮年には壮年の、高齢者には高齢者の役割がそれぞれあるのです。「もう年をとって身体も思うように動かんようになって、あかんわ」とご高齢の方がおっしゃるのを聞くことがありますが、年をとって運動機能は衰えても包容力が増すとか、ものごとの見方が変わるとか、何かそういう変化があるのだと思います。
もちろん年齢の違いだけではなく、様々な違いを私たちは持っています。そんな「違う」ということが、お互いに活かされて生きられると良いですね。