2013年 10月

十三夜

2013/10/21

夕方、空を見上げると、まあるい月が山の端から顔をのぞかせていました。くっきりとした月ではなく、少しかすんだようなやわらかな感じがとても美しかったので、思わず写真を撮りました。

満月かなと思って調べてみたら、十三夜の月だと知りました。中秋の名月は旧暦8月15日の月を愛でますが、旧暦9月13日の月は十三夜の月といって、中秋の名月の次に美しいとも言われています。また、中秋の名月(十五夜の月)を見て、十三夜の月を見ないことを片見月といって良くないこととされているそうです。地方によっては十五夜の月と十三夜の月は同じところで見ないといけないといわれることもあったり、十三夜の夜の天気によって,翌年の農作の豊凶を占うという風習もあるそうです。いろいろな風習が伝わっているものです。

また、十五夜は芋名月といわれるのに対して十三夜は栗名月、豆名月と言われるそうです。収穫時期の違いなのでしょうか。秋の収穫を感謝して月にお供えをする風習があるのでしょう。想像すると昔は月と暦は深く関わっていたので、月が農耕で重要なタイミングを教えてくれたのかもしれません。その月に感謝をするのは自然な気がします。

また、東日本を中心に十日夜(とおかんや)といって旧暦の10月10日に行われる収穫際もあるそうです。これは、稲刈りの後、田んぼの神様が山へ帰る日だとされていて、お餅をついて食べることもあるそうです。このときはお月見がメインではないそうですが、十五夜、十三夜、十日夜と月を愛でる、収穫に感謝する行事があるのは、季節の移り変わりや、収穫など、自然の猛威にさらされながらも、そのめぐみを享受して生きてきた日本人の感性なのかもしれません。

今年は新暦の11月12日が旧暦の10月10日にあたるそうです。十日夜の月を眺めてみようかと思います。月は、なぜか気になります。

おいもほり 2013 2

2013/10/20

     手伝って上げるね!

おいもほりに行って子どもたちが自分で土を掘っていもを掘り出すことは、こうやって書いたり、口で言うと簡単に掘れそうにおもいますが、これも実際に体験してみないとどんなものかはわかりません。畑の土はやわらかくさらさらしていますが、素手で掘ってゆくのは大人でもけっこう大変で、一株掘り出すにはかなり根気が必要です。私はひとり一株でも自分で掘れれば良いかなと思っていたのですが、5歳児のIちゃんは、最初から最後まで、時間にすると1時間以上、ずっと自分の手でいもを掘り起こしていました。

     集中力!

「頑張ってるね!」と声をかけようとしましたが、それもはばかれるくらい真剣に取り組んでいます。一心不乱ということばがぴったりの姿です。こういうときに、声をかけたくなることがありますが、子どもが集中して取り組んでいるときには、できるだけ邪魔をしない方が良いのです。大人はついつい自分の都合で声をかけたり、手伝おうとしたり、自分が思うように子どもを動かそうとしたりするのですが、子どもが自分のやりたいことを見つけて一所懸命にとりくんでいるときには、少し離れてそっと見守るのが一番です。その時の子どもの顔のステキさといったら、他にたとえるものがないくらいです。

とても心の優しいIちゃんは、自分の分を後まわしにしても、困っているお友達を手伝ってあげてもいました。ときどきおともだちの代わりに全てやってあげたくなり、自分がやってしまうこともあるのですが、このときは、その子が自分でできるようにと考えていたようで、少しずつ手伝ってあげていました。

子どもたちはみんなとても楽しそうにしていたので、先生の配慮でお弁当を少し遅らせて畑で過ごす時間たっぷりとりました。いもを掘り終えた子どもたちは、畑の土で遊びます。とてもきめの細かいさらさらした土なので、肌触りが心地よく、適度に粘りけもあってお団子もできます。土遊びに夢中になっている子もいれば、虫などの生き物を探して遊ぶ子もいます。ほとんどの子が、いもを掘り終わりったり、飽きてしまって他のことをして遊ぶなか、Iちゃんは最後までいもを掘っていました。

おいもほりが終わり、靴を履き替えようと脱いだIちゃんの長靴からは、土がいっぱい出てきました。靴下についた土がテカテカ光るほどに汚れています。それが気付かないほど夢中になって掘っていたのですね。その集中力には感心しました。

おいもほり 2013 1

2013/10/19

   おいもをたくさんとってね

子どもたちがおいもほりに行く前に、いもの蔓や葉を刈る作業を体験したら思ったより大変で、次の日は背中や足が筋肉痛になってしまいました。いつも蔓を刈るのをお願いしてしまっていますが、自分が実際に体験してみることでどんな作業なのかよくわかります。作業が終わる頃には台風は通り過ぎ、温帯低気圧に変わったようで、雨も止んで日差しが降り注いできました。どうやら次の日のおいもほりは、良い天気になりそうです。

          

      一緒にやろう!

翌日、きれいに晴れあがり、美しい青空の下でのおいもほりになりました。土の中のいもを最初から子どもたちが手で掘り出すのは大変なので、大人があらかじめスコップを使って少し掘り起こしておきます。しかし、子どもによっては大人に手伝ってもらわずに自分の手で掘り起こしたい子もいます。その子達のためにいくつかは掘り起こさないでおきます。「大人に手伝ってもらわずに掘ってみたい人は挑戦してください。」というと何人かが取り組んでいました。前日の雨で、少し土が硬くなっているので、子どもたちには無理かなとも思いましたが、最初から無理と決めつけてはおもしろくないので、子どもたちに任せたら頑張っていました。

少し掘って、いもが見えると引き抜けるかと思って引っ張ってみる子もいますが、そう簡単には抜けません。いもの全体が見えるくらいまで土を掘らないとうまく取り出せないのです。いもが大きければ深く掘らなくてはならず、30センチ以上掘ることもあります。ですから、やり始めたものの途中で諦めてしまう子もいます。あきらめそうになっている子でも少し励ましたり、友だちに手伝ってもらうように促したり、大人が少し手伝ったりして、掘り起こせると、また次に挑戦する姿がみられます。
そんなときでも、すぐに大人が手伝うのではなく、友だちに手伝ってもらうように促すことで、子ども同士の関わりの機会を増やすことが大切です。

収穫前 2

2013/10/18

おいもほりの前に、どうにかして蔓を刈り取っておく必要があり、台風が接近して雨が降っているにもかかわらずお寺の職員さんも巻き込んで、畑に行きました。

6つ畝に繁った蔓をどうやって刈り取るかしばらく考えましたが、お寺の職員さんの発案で、葉と蔓をめくるようにしていも入っている上のところで切り離し、巻き取るように転がしてゆくことにしました。畝に直角に5人が一列に並んで、それぞれ目の前の畝に生えている蔓を、切っては巻き切っては巻いてゆくという感じです。その要領は頭では理解できるのですが、まず私にはいもが入っているのはどこなのかを見つけるのが大変でした。蔓が集まっているところがそうなのですが、それを見定めるのに少し慣れが必要でした。それがわかれば、いものすぐ上で蔓を切り、切ったら巻き取るというようにしてゆけば良いだけです。頭でわかっているのと、実際に行うのとでは大違いです。5人が雨の中一列に並んで、地面に張り付いた緑のカーペットを少しずつはがしては巻き取っているようなイメージです。

カッパを着て作業をしましたが、日本海を通る台風に向かって吹き込む南風が蒸し暑さを運んでくるので汗が止まりません。カッパの外も中もびしょ濡れ状態です。そのうえ、切り取った蔓と葉を転がすようにまるめるのは結構力がいるのです。遅くなると他の人がやりにくくなると思うと、すこし焦る気持ちも加わって、つい余分な力が入ります。そうして、一定の区間を刈り取ったら次の区間と、何度かに分けて刈り取りました。欲張って一度に長い区間を苅ると、巻き取るように転がすのが重くて大変なのです。そうやって、5人で頑張ったら一時間強で全て刈り取ることができました。

その畑では農薬や化学肥料を使わずに作物を育てていらっしゃるので、いろいろな生き物がいます。芋の蔓を刈り取るとその中に隠れていた生き物が慌てて動き出します。いろいろな虫がいましたが、10匹以上のアマガエルが一度にぴょんぴょん飛び跳ねて逃げてゆく姿は子どもたちに見せてあげたいと思いました。

いつもは、畑の方にお願いしているおいもの蔓の刈り取りですが、実際に自分でやってみるとその大変さがよくわかります。こんなに大変なことをしていただいていたのだと思うと、感謝の気持ちがより強くなります。ありがたいことです。様々な人に支えられているにもかかわらず、ついつい感謝の気持ちが薄れてしまって、不平不満ばかりを口にする。自分だけは正しくて、あの人が悪いこの人が悪いと全て人のせいにする。そんな罠に自分が陥っていないか、いつも自分をふりかえっている必要があります。

きれいに刈り取ることができました

収穫前 1

2013/10/17

滋賀県守山市にいらっしゃるお寺のご信徒が、毎年ご厚意で子どもたちのために、さつまいもの畑を作ってくださっています。以前はいもほりにだけ行っていたのですが、ただ掘るだけよりは、自分で植えた方がさつまいもの変化もわかるし、収穫の時の想いも違うのではないかと考え、春に苗を植えに行くようになりました。そのうち、植えて収穫するだけよりも、成長の過程も見られた方が良いという先生方の意見で、この2〜3年は、夏頃に水をやりに行くこともしています。

そのさつまいもが育っていよいよ収穫の時期がやってきました。ところが、蔓や葉っぱが残っているとおいもが掘れないので、事前に蔓を刈り取っておかなくてはなりません。本当は蔓や葉が覆い繁っている姿を一度子どもたちが見てから子どもたちの目の前で刈り取ってから、おいも掘りをさせてあげたいのですが、それは時間的に少し難しいので、事前に苅っています。正確には、畑を作ってくださっている方が事前に刈り取ってくださっています。ところが今年はその方のご都合が悪く、私たち職員が前日までに畑に行って刈り取ることになりました。ところが、園の職員がそんなにたくさん畑に行くことはできません。そこで、お寺の職員さんに手伝っていただき、おいもほりの前日に蔓を刈りに行くことにしました。ところが予定していた日は、台風24号(ダナス)が近畿地方に接近してきていました。しかし次の日の天気予報は晴、子どもたちがおいもを掘りに来るので、蔓を刈り取りに行かないわけにはゆきません。雨の中の作業覚悟で、畑に出向きました。琵琶湖大橋辺りでは車のフロントガラスにたたきつけるように雨が降ってきます。お寺の職員さんにも申し訳ないと思いましたがやるしかありません。畑に到着しても時折激しく雨が降ってきます。「芋の蔓を刈りに来ました」と畑の方に電話したら、「こんな日に来るとは思ってなかった」と驚かれました。畑では子どもたちの植えたさつまいもの蔓や葉がとても勢いよく育っていました。いよいよ刈り取りです。

良く繁ったいも畑

引声阿弥陀経

2013/10/16

大原の勝林院開創一千年慶讃法要において、一座の法要を奉修させていただきました。今回修したのは、「引声阿弥陀経」です。「いんぜいあみだきょう」と読みます。

阿弥陀経は、極楽浄土の様子を説いたお経で、良く唱えられているお経のひとつです。阿弥陀経は天台宗では漢音で読まれ、浄土宗などでは呉音で読まれることが多いようです。漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音で、呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音です。例えば数字の「一」は漢音では「イツ」と読み、呉音では「イチ」と読みます。お経の最初に良く出てくる「如是我聞」は漢音では「じょ し が ぶん」呉音では「にょ ぜ が もん」です。宗派によって読み方は異なりますが、普段はある程度の速さでテンポ良く読むことが多いようです。

「引声阿弥陀経」は阿弥陀経の一文字一文字に長くゆるやかな曲節(音用)がついていて、文字通り声を引くように唱えます。阿弥陀経は「如是我聞」から始まりますが、仏の唱え方で唱えると「如」の一文字を唱えるのに1秒足らずですが、引声阿弥陀経では「如」の一文字を唱えるだけでも50秒近くかかります。どれくらい長いかわかっていただけると思います。ですから、お経の全文を唱えることはできません。法要で唱えるのは「阿弥陀経」だけではなく、「四奉請」、「甲念仏」、「乙念仏」などがあり、全てに曲節(音用)がついていて、全部唱えるととても長くなるので、時間に合わせて省略することが多いのです。

天台の声明は慈覚大師円仁が中国から伝えましたが、この「引声阿弥陀経」は五台山から伝えられました。五台山は、中国山西省東北部の五台県の標高3,058mの山で東台、南台、西台、北台、中台の5つの主な峰があります。古くから文殊菩薩の聖地として信仰を集めており、たくさんのお寺があります。

「引声阿弥陀経」は魚山でも「五箇の大曲」の一つといわれる秘曲で、そのおおらかでゆったりとした旋律は慈覚大師が将来した頃の姿を残しているといわれています。
そのおおらかな旋律が堂内に響き渡り、阿弥陀仏に見守られながら声明を唱えているととても落ち着いた気持ちになりました。

勝林院

2013/10/15

大原三千院の前を通り過ぎ、律川にかかる橋を越えると、緑の分厚い絨毯のような杉苔に包まれた勝林院が見えてきます。勝林院は、慈覚大師円仁の弟子で慈覚大師が唐より将来した声明を受け継いでいた寂源上人が、大原魚山流声明の根本道場とし長和二年(1013)に建立しました。

勝林院の山号は魚山といいますが、これは、魏の曹植が空中に梵天の声を聞いて、声明を作ったという伝説の地である中国山東省の魚山にちなんでつけられています。以来、勝林院は声明を研鑽する僧侶で賑わったと言われています。

2013年はちょうど開創一千年にあたり、それを記念する慶讃法要が10月5日から20日までのあいだ奉修されています。

勝林院の現在の本堂は享保21年(1736)に消失し、安永7年(1776)年に再建されたもので、柱や床などはケヤキの木が使われ、外陣の天井には精緻な彫刻が施されています。本尊の阿弥陀如来座像は像髙約2.8メートル脇に毘沙門天と不動明王を脇侍に悠然と座していらっしゃいます。最近、京都産業大日本文化研究所が実施した調査で、仏像内に3体の胎内仏が確認されました。さらに宝蔵からは阿弥陀如来坐像の歴史を伝える「証拠之阿弥陀如来腹内記」の写本も見つかり、京都産業大むすびわざ館ギャラリー第5回企画展「京都大原 勝林院の仏教文化と歴史」にて展示されています。

このご本尊は「証拠の弥陀」と呼ばれています。寂源上人が比叡山より高僧を招き、法華経を講ずる法華八講を行ったところ、好相を表して「中道実相」こそが仏の説かんとしたことであるとあきらかにした「大原談義」、浄土宗の開祖法然上人が専修念仏の功徳によって極楽に往生することを説いたときにも光を放って、その正しいことを証明した「大原問答」という話がもととなって「証拠の弥陀」と呼ばれているそうです。

この勝林院開創一千年慶讃法要には縁のある宗派や団体が、連日慶讃の法要を厳修されます。私が所属する声明の研究会も、勝林院本堂で一座を勤めさせていただきました。

人道

2013/10/14

恵心僧都源信が表した往生要集は念仏によって極楽に往生することを説いて浄土教の基礎を作り、その厭離穢土、欣求浄土の思想は様々な影響を与えたといわれています。厭離すべき穢土として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道について書かれています。地獄の一部を紹介しましたが、六道講式でも六道が解釈されています。京都産業大学むすびわざ館での声明公演では、地獄道と人道を唱えました。人道の一部を紹介してみます。

まず、「この身常に不浄にして、雑穢その中に満てり」と、人の身の不浄さを説いています。様々な臓器を皮や膜が覆っていて、中には血や膿が充満し、外に汗などを流出している。こんな人間の体は朽ちた城郭のようだ。ちょっとグロテスクな表現ですが、全くその通りです。そして、「一切の諸々の世間に生ある者は皆死に帰す 盛んなる者は必ず衰ふることあり」と無常を説きます。
そして、人として生まれてくるのは難しく、仏法に遇うことも難しい。条件が整っている今が修行の好機なのに、名誉や利益にとらわれ、欲望に翻弄されて浄き行いをしないでいる。一生は尽きても欲望は尽きない。出家して頭を剃っても心を剃らず、衣を染めても心を染めず、いつも世俗のことばかりにとらわれている。破戒の罪は在家の人より重い。恥ずべし恥ずべし、悲しむべし悲しむべし。
しかし、そういう身ではあるけれども、本来全ての徳は自分の心に備わっているのだから自ら求めれば必ず得られる。だから、念仏して修行しなさい。

なんとも心にずしんと重く響くことばです。取るに足らないものに執着して苦しむばかり、欲望に翻弄されて罪を作るばかり。特に「頭を剃って心を剃らず、衣を染めて心を染めず」の部分を聞くと本当に悲しくなります。

しかし、最後には、「全ての徳は自分の心に備わっているのだから自ら求めれば必ず得られる。」とあり、少し救われる思いがします。とはいっても、安心だけして何もしなければ、あっという間に野辺の煙です。

地獄

2013/10/13

京都産業大学むすびわざ館ホールで行われた声明の公演、今年の演目は「六道講式」(二十五三昧式ともいわれます)です。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の輪廻転生する世界をいいます。ちなみに二十五三昧の二十五は二十五有といって、輪廻転生する生死の世界を欲界・色界・無色界の三つに分け、それを更に25に分けたものです。六道講式は、恵心僧都源信が始めた念仏講会二十五三昧式において二十五有を破する三昧から起こったものであり、その二十五有を六道に約し、六道を解釈した式文を講読することを中心とした法会です。要するに、地獄とは、餓鬼とは・・・と説明するように語ってゆくことが中心になっています。独特の節回しを付した日本語(和文)で語られることが特徴で、「平家琵琶」や「浄瑠璃」「謡曲」などのルーツではないかという説や、後の日本文学に大きな影響を与えたという説もあります。

昨年の演目は「胎蔵界曼荼羅供」の一部を紹介するものでした。胎蔵界曼荼羅供は、胎蔵界曼荼羅を供養する密教法要で、声明曲はゆったりしたものから、リズミカルなものまで、変化に富んだものですが、それに比べたら式文を読むことが中心の六道講式は少し単調に感じた方もあったかもしれません。

「輪廻の世界を彷徨っている間はどんな報いを受けるかわからない。中でも最も忍び難いのは地獄の苦しみ、堪え難いのは餓鬼畜生の報いを受けることだ。三界の獄縛は一つも楽しむべきことは無い。」という前置きがあり、まず、地獄の様相が語られます。地獄には炎が渦巻いており、涼しい風を希っても炎が骨を焦がし、冷たい水を願っても熱湯におぼれる。泣いても涙は落ちないなぜなら猛火が眼に満ちているから、叫んでも声は出ない、鉄の珠が喉に入っているから。など、かなりリアルに表現されています。地獄絵というのがありますが、地獄絵の一部が浮かんで来そうです。
「悪いことをしたら地獄に行く」と昔から言われているのが、妙に心に響きます。

京都産業大学 むすびわざ館

2013/10/12

以前、このブログで声明(天台声明)について少し書かせていただきました。声明を学ぶきっかけは、20年以上前に貴重なご縁で声明の研究会に参加させていただき、皆様からご指導をいただいたことがはじまりです。毎月お稽古を行いながら、声明をいろいろな方々に紹介するため様々な公演に参加しました。チェコ、フィンランド、デンマーク、ポルトガルなど海外での公演にも何度もお供させていただきました。その後、研究会の変遷はありましたが、今でも京都で活動する研究会の一つに参加させていただいています。先日、その研究会の公演がありました。

京都産業大学という大学があります。鞍馬から車で10分ほど、当園に一番近い大学です。京都産業大学は昭和40年、世界的な宇宙物理学者である荒木俊馬博士を初代総長として開学されました。「大学の使命は、将来の社会を担って立つ人材の育成にあり、全世界の人々から尊敬される日本人として、全人類の平和と幸福のために寄与する精神をもった人間を育成することである。」(抜粋)という建学の精神に基づく教育が行われています。2008年に益川敏英博士が、「小林・益川理論」による物理学への貢献でノーベル物理学賞を受賞したときに教授として在籍していたことで、メディアで頻繁にとりあげられていたのを思い出します。

京都産業大学が2015年には50周年を迎えるので、記念事業として京都・壬生に大学と社会を結ぶ「知」の発信拠点となる「むすびわざ館」を開館しました。「むすびわざ」とは「産業」であり、「新しい業(わざ)をむすぶ」 という意味で「むすぶ」は「産(む)す」という語源を持つことから、「産み出す」をも意味し、新しい業(わざ)、価値、そして人材を産み出す、その先駆けを担うのが「むすびわざ館」の使命だそうです。

そのむすびわざ館にはホールがあり、そのホールで声明公演が行われました。昨年の第1回目の公演に続き、今年は2回目の公演になります。

むすびわざ館ギャラリーでは、9月3日(火)から10月20日(日)のあいだ、第5回企画展「京都大原 勝林院の仏教文化と歴史」が催されており、企画展と連動して講演会「大原勝林院一千年の祈りと法然上人」 と第2回「天台聲明の調べ」が開催されたのです。

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