2013年 9月

中秋の名月

2013/09/24

放生会は旧暦の8月15日に行われます。旧暦8月15日といえば、中秋の名月です。今年は9月19日、とても良いお天気に恵まれ、お月見日和でした。各メディアでも今年は晴れてきれいなお月様を見る事ができると報じていました。昨年は台風の接近で荒れ模様だったそうです。そんな報道の中で、「中秋の名月が満月になるのは次は8年後」と言われていました。一昨年、昨年、今年と3年連続で満月なのだそうですが、次に中秋の名月が満月になるのは8年後なのだそうです。中秋の名月というより、旧暦の15日は満月だと思い込んでいた私の頭の中は疑問符だらけになってしまいました。ひとつ疑問に思うと、わからないことばかりです。なぜ中秋の名月なのでしょうか。それは、旧暦では秋は7月8月9月の3カ月で8月はそのまん中の月、そして15日はそのまん中の日なので、秋のまん中だから中秋なのだそうです。15日が必ずしも満月にはならない理由には、旧暦一日(ついたち)の決め方、朔(新月)から望(満月)までの日数、朔と望までの実際の日数などがあるそうです。これらの原因が作用し合って実際の満月は旧暦15日よりも遅くなることの方が多く、満月になることのほうが少ないそうです。

せっかくだから、ススキを飾り、お団子を供えてお月見をしようと思い、お菓子屋さんに行ったら、月見だんごは売り切れていました。お月見する人が多かったようです。ほかのお菓子をお供えすることにしました。

雲一つない夜空に眩しく輝く月を眺めていたら、月の光がからだを通り抜けてゆくような気になりました。清らかな光で、心を清めていただけると良いのですが・・・

そう思って月を眺めていたら、心がゆったりしてきました。いつも、目の前のことばかりを狭い視野や短い時間のスパンで見ているのではなく、大きな視野とさまざまな視点、そして過去から未来までの長い時間のスパンで見る事を忘れないようにしないといけない。夜空の月がそんなことを教えてくれたように思います。

きょうのごはん

2013/09/24

(ごはん)
・なすとトマトのミートグラタン
・コーンサラダ
・スープ

(おやつ)
・手作りヨーグルト

放生会

2013/09/23

9月19日は旧暦の8月15日でした。この日にはお寺の行事として放生会が行われ、5歳児たちが参加しました。放生会は殺生を戒め、捕獲された魚や鳥を池や野山に放し、放生の功徳を積むという意味があります。天台大師智顗が猟師が雑魚を捨てている様子を憐れみ、魚を買い取って放生池に放したことに始まったといわれています。

園児たちには、いろいろな生き物がいて、気がつきにくいけれどもみんな繋がっているから、いろいろな生き物がいることで私たちも生きる事ができること。そして、私たちはいろいろないのちをいただいて生きさせてもらっているから、いろいろないのちにありがとうという思いを込めて、魚を放すのだ。と説明しました。

法要が行われている間、子どもたちは静かに参列したあと放生池にいる魚たちに餌をあげに行きました。本来なら魚を放すところですが、池の中にはたくさんの魚がいて、これ以上数が増えるとかえって魚にとって良くないだろうという思いから、代わりに今いる魚たちに餌をあげることで、放生に代えています。

子どもたちは池の近くまで行って魚たちに餌をあげていました。このときは麩を餌がわりに使いましたが、麩をそのまま池に投げ入れる子もいました。そうすると大きな鯉は大きな口を開けて、麩を丸ごと口に入れることができるのですが、小さな鯉や金魚は、何匹かが一つの麩に集まってみんなで食べていました。その様子をじっと見ていた女の子が、しゃがみ込んだと思ったら、麩を小さく割って水面にパラパラとまいていました。きっとこの子は、小さな魚が餌を食べられないのを見て、かわいそうだと思い、小さな魚も食べられるように麩を小さくしてあげていたのだと思います。その優しさが伝わってきて、心が温かくなりました。

声明 4

2013/09/22

「良いあんばい」と言うときの「あんばい」は声明の塩梅(えんばい)と関係があるとわれていると書きました。「ろれつがまわらない」というのは、呂律がまわらないと書きます。呂の旋法か律の旋法かはっきりしない、音階が合わないという意味が転じて、ことばがはっきりしないという意味で使われるようになったそうです。雅楽でも呂律が用いられるので、雅楽からという説もあります。

声明では、ある曲をどれくらいの早さで唱えるかということは明確には示されていませんが、拍子があり、リズミカルに唱える曲も存在します。「序曲」というのが、無拍子の旋律による曲で、拍のない自由なリズムで唱える曲です。一つの旋律の長さ(唱える早さ)は楽譜には示されていませんが、伝承として伝えられていることは、何度も述べてきました。他には「定曲」といわれる拍子を持つ曲もあります。経文の一文字を四拍で唱える「四分全拍子」や二拍で唱える「切声拍子」、他にも複雑な拍子構造を持つ曲もあります。1曲の中に無拍子の「序曲」の部分と拍子のある「定曲」の部分を兼ね備えた「倶曲」というものもあります。また、「破曲」といって「序曲」なので拍子はないのですが、曲の途中で拍子があるかのような部分が現れる曲もあります。

一つの旋律型の長さ(一つの旋律が使用する時間)やある曲をどれくらいの早さで唱えるかということについて楽譜に示されているわけでもないのに、いろいろな拍子があって、しかもそれをみんなで合わせて唱えられるのだろうか。という疑問が湧いてくるのではないかと思いますが、それがちゃんと唱えられるのです。毎回必ず同じ長さで唱えてはいないかもしれませんが、その曲としては合うのです。もちろん、ひとり一人が伝承を受けてそれをマスターしていることは当然ですが、メンバーが一緒にお稽古をすることは必要です。

全てのことを楽譜に表さなくても唱えることができる声明が伝承されてきたのも、察する文化をもつ日本の特徴なのでしょうか。そこまでは言えないにしても、「聞く」ことに重きを置いていることが、根底にあるように思います。

(これまで、述べてきた声明は、天台声明を指します。)

声明 3

2013/09/21

声明を唱えるためには音の高さの他にもいろいろな要素が必要です。音の動きを表す「旋律型」もそのひとつです。高低変化を伴う一連の音の連なりのパターンがいくつもあり、それらの旋律型に「スグ」「ユリ」「ソリ」といった名前がつけられています。例えば「スグ」という旋律型は、一つの音を直線的に引くことを表します。オルガンで一つの鍵盤を一定時間押さえ続けて出てくる音というイメージです。「ユリ」はゆれうごくことで、音の高低変化を小さくつける、音が小さく揺れるようなイメージです。「ソリ」は音が滑らかに高くなり低くなってまた高くなるというような音の動きをします。(音の動きをことばで表すのは難しいですね)このような旋律型がたくさんあって、それらを組み合わせることで、曲が構成されています。ただ、ひとつの旋律型に明確に定められた長さがあるわけではなく、その時の唱え方によって長さが変わるので、1曲の長さも微妙に異なることがあります。しかし、複数の人が同じ旋律を唱えるので、ひとり一人唱える長さ(早さ)が異なれば、バラバラになってしまいますが、実際にはそうはなりません。それは、もともと一つの旋律の長さが伝承として伝えられているという基礎がある上に、その時々に他の人の声を聞いて微妙に調整しているからだと思います。

前にも書きましたが、もともと声明には楽譜はなく、口伝で教えられた通りに唱えるのですが、備忘のためであったり、わかりやすく表現するために「博士(はかせ)」という一種の記譜法が用いられています。現在使われているのは鎌倉時代初期に考えられた目安博士と呼ばれるものの改良型で、音の高さと旋律型が表されています。

ところが、ここには表されない要素がたくさんあります。どれくらいの早さで唱えるのかということもそうですし、塩梅(えんばい)という博士には表されない音もあります。例えば「スグ」という旋律型は1つの音を直線的に引くのですが、オルガンの鍵盤を押さえるように一つの音だけを出すのではなく、少し低い音から出し初めて本来出すべき音まで上がる前倚音や、旋律型を唱え終わるときには終わりの部分を少し高い音にして終わる、後倚音などが付加されます。この塩梅があることで旋律型に深みや味が出るのです。

ちょうど良い加減という意味で「良いあんばい」と言いますが、塩梅とは「あんばい」とも読み、塩と梅酢で調味すること。料理の味加減を調えること。物事のほどあい。かげん。身体の具合。などという意味があります。塩味や酸味がなければ料理は味気ないものになりますし、これらが強すぎると、味が台無しになります。塩梅はほどよく付加するのが良いのです。塩梅は博士には表されませんが、声明曲に重要な役割を果たしています。

きょうのごはん

2013/09/21

  (ごはん)
牛丼
大豆の五目煮
吸い物

(おやつ)
かぼちゃ茶巾

新しいお友達

2013/09/21

9月からたんぽぽ組(0歳児)に一番小さなお友達が入園してきました。
突然の小さなお友達の出現に初めはビックリしていたたんぽぽ、すみれ組(1歳児)の子ども達。
お母さんから離れて、泣いている○○君を見てキョトンとしているみんな…
でもなんとかしてあげないとと思ったのでしょうか、泣いている○○君の顔をのぞきこんだり、頭をなでなでしたり…急にお兄ちゃんお姉ちゃんらしさを発揮しはじめました。

給食を食べ始めた頃には、心配顔でのぞきこんでくれる姿もありました。
最近は○○君もだいぶん保育園になれて、笑顔も多くでてきて遊びの幅も広がってきました。

そして、○○君のまわりには、いつもだれかがそばにいて一緒に遊んでくれたりしています!
小さな新しいお友達を思いやる心がとても嬉しく、あたたかい気持ちにさせてくれます。
友達っていいね…

声明 2

2013/09/20

もう少し声明について書いてみようと思います。声明を唱えるには様々な要素があり、その一つは音の高さです。十二律といわれる1オクターブのあいだに12の音を配した標準的な音の高さ(平均律ではない)をもとにします。その12の音の名前は次の通りです。

壱越(いちこつ)・断金(たんぎん)・平調(ひようじよう)・勝絶(しようぜつ)・下無(しもむ)・双調(そうじよう)・鳧鐘(ふしよう)・黄鐘(おうしき)・鸞鏡(らんけい)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・上無(かみむ)

その12の音のなかから、宮(きゅう)、商(しょう)、 角(かく)、 徴(ち)、 羽(う)の五音や五声といわれる5つの音を使って曲が構成されます。時に7つの音を使うこともあるので七声ともいわれます。

そして、この5音をどう決めるかに、呂、律、中の3種類の決め方があるのです。これを三種の旋法といいます。

そして、12律のどの音を宮(きゅう)に定めるかでその曲の調子が決まります。壱越(いちこつ)の音が宮(きゅう)であれば、壱越調(いちこつちょう)の曲です。壱越調(いちこつちょう)、律の旋法であれば、宮=壱越、商=平調、 角=双調、 徴=黄鐘、 羽=神仙

ピアノでいうと1オクターブの中に12の鍵盤があります。これが十二律だとします。ある曲を唱えるのに、その中の「レ」「ミ」「ソ」「ラ」「ド」の5つの音を使いますよ。と決めます。別の曲では「レ」「ミ」「ファ♯」(ソ♯)「ラ」「シ」(ド♯)と7つの音を使うと決めることもあります。この5つ(もしくは7つ)の音の決め方に3種類の決め方があるのです。

こうして、その曲の音の高さ、どの音を用いるのかが決まります。

声明

2013/09/19

声明(しょうみょう)とは、仏教の儀式音楽で、経文に一定の旋律をつけて、法要などで唱えるものです。名前の由来は、サンスクリットの「シャブダビドヤ」の訳語です。シャブダとは「音声」「言語」という意味、ビドヤはものごとを明らかにするという意味です。この「シャブダビドヤ」とは古代インドの学問分野である五明(ごみょう)の一つで、音韻学・文学を指す声明、工芸・技術論という意味の工巧明、医学を指す医方明、倫理学を指す因明、自分の宗教に関する内明の5種類の学問分野です。インドで音韻学、文学を表す語が、日本では仏教の儀式音楽という意味で使われるようになったようです。中国では梵唄とよばれていました。

仏教が日本に伝わるとともに声明も伝わってきたのでしょう。天平勝宝四年(752)に修された東大寺大仏開眼供養会は、一万人の僧侶を請して修された大法会で声明が唱えられていました。平安時代になると、最澄と空海が唐より声明を将来したと言われています。空海の将来したものは真言声明として伝わりましたし、最澄が伝えた天台声明は円仁が入唐によって将来した声明によって興隆しました。現在も仏教各宗派で声明が唱えられています。

そうして仏教の儀式音楽として唱えられていた声明は邦楽の源流ともいわれ、邦楽の発展に大きな影響を与えています。

声明はどんな方法で伝承されるのでしょうか。もともと声明は面授口決といって、お師匠様から教えられたように唱えることが基本で、何度も唱えているうちに覚えてゆくものなのです。ですから、楽譜はありませんでした。のちに博士(はかせ)と呼ばれる楽譜に変わるものが考案され、音の高さや旋律型を表すようになりましたが、博士はもともと備忘のために記されたと言われています。五線譜のように時間的経過を表す要素がないので、みんなで唱える時は、うまく合わせる必要がありますが、そこはなんとなく合ってしまいます。声明ではなくても「お経は耳で唱える」と言われるように、まわりの人の声を聞きながら唱えているのです。

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