2013年 6月

赤ちゃん学会 12

2013/06/20

発達に偏りがある子が「気になる子」なら、「気にならない」のはどんな子どもなのだろうかと考えてしまいます。気にしすぎてしまうのは大人の方なのかもしれません。子ども一人ひとりの発達をしっかりとみつめてとらえ、こども一人1ひとりがしっかりと発達するためにはどんな環境が必要なのかを考え、保育者どうしが議論して最も良い物的、空間的、人的環境を用意できると良いと思います。子どもの最善の利益を保障するということだと思います。特に保育者という人的環境は、子ども一人ひとりをよく見る。待つ。必要なときには手をさしのべるということなのでしょう。

赤ちゃん学会ラウンドテーブルで、発達に偏りのある子が、どのように育ったかを、実例をあげて発表してくださいました。
2歳まで全く発語をせず、3歳3カ月検診で「経過観察が必要だ」といわれた子が、年長になったら、他の子どもたちとちゃんとコミュニケーションをとってやっているという例があげられていました。その園ではその日に何をするのかを年長児が話し合って決定しているそうです。そんな場面でもその子が中心になって話し合いを進めているそうです。

4歳ぐらいまでは発達に偏りが大きい子でも、乳児からしっかりと発達を積み重ねてきた子は、5歳になると急に伸びると発表していらっしゃいました。でも、それはただ保育園で過ごせば良いというものではもちろんありません。乳児期から、子ども一人ひとりを良く見つめ、その子にとって最も必要な、物的空間的人的環境をととのえ、その子が主体的に生きるお手伝いを適切にしてもらった子が伸びるという意味です。放っておけば良いというのではありません。

印象的だったのは、「園における特別な支援はしていない。子どもが求めてきた場合には発達の偏りに関係なく支援する。」という発表者のことばでした。発達の偏りのあるなしではなく、その子が求めてきた時にはすぐに手をさしのべることができるよう準備をしておかないといけないのです。そのためには、保育者たちが、どの子のことも理解し、気にかけ、目をかけ、見守っている必要があるのだと思います。そうでないと子どもが「助けて!」とサインを出しているのに、保育者がそれに気づけなくて、その子が最も必要としているときに助けてあげることができなくなってしまうのです。

赤ちゃん学会 11

2013/06/19

「乳幼児の社会性 −乳児からの保育における環境による乳幼児の発達の保障−」というラウンドテーブルでは、発達に偏りのある子が、様々な子どもが関わり合うことのできる集団の中でどのように育つのかという発表もありました。

最近よく発達障害ということがいわれますが、この発達障害であったり「気になる子」ということばが多く使われることが、気になる。という話から発表がはじまりました。私も以前ブログで書きましたが、なぜか「ちがう」ことだけに焦点をおいて「気になる」と言ってしまったり、診断名をつけることで安心してしまったりすることが多いように思います。

発表者は「日本の教育システムがマイノリティーを受け付けないシステムになっているのではないか?」と問いかけていらっしゃいました。大人が、はみ出すことをきらって、子どもを管理するためにカテゴライズしてしまっているのではないだろうか、障害の名称にこだわっていないだろうか。ちょっと違うこと、偏っていることばかりを気にする大人。やたらと分けたがる保育園や小学校の大人。一人一人の発達ではなく、集団ありきで考えたい大人。そんな大人が多すぎるのではないかという問いかけに、そうはありたくないが、ついついそうなってしまっている自分がいるのではないかと、自問しました。

「環境を通して保育する」と保育所保育指針にありますが、その環境をどうとらえるとよいのか。発表者はこんなとらえかたをされていました。物的環境は、保育室の構造化。空間的環境は子どもたちの主体的で自発的な活動の場。そして人的環境は、子どもと子どもの関わり。そして、大人という人的環境、大人のやるべきことは、子ども一人一人をよく見る。待つ。必要なときには手をさしのべることだそうです。大人が主体になって子どもを動かすことが保育ではないのです。

そのはずなのに、どうしても「集団ありき」で集団に一人一人を合わせようとする考え方になってしまいがちです。自分自身がそういう教育環境で育ってきたから、考え方もそうなってしまうのでしょうか。あくまでも子ども主体を忘れずにいたいものです。

赤ちゃん学会 10

2013/06/18

赤ちゃん学会第13回学術集会2日目のラウンドテーブルでは、0歳から在園していた1歳児と、1歳になってから入園してきた1歳児の園での様子を比較しての発表もありました。もちろん保育園という環境に慣れているかどうかということも関係するとは思いますが、0歳から在園している子の方が、階段を下りるときに不安そうな子には手をつないであげるという行動がみられるなど、子ども同士の関わり合いは深いことを示す映像をたくさん見せていただきました。
保育士をきっかけとして、子ども同士が遊ぶことができるのは、それまでにみんなで同じ場所で遊ぶという経験があるからだとおっしゃっていました。

また、子ども同士の関わりについて、4歳児のリズム遊びや体操教室など身体を動かす遊びの中に1歳児が入って一緒にする事があるが、4歳児はもちろんそれを嫌がることはなく、1歳児に配慮して動いているし、1歳児ができるように教えてあげたり手伝ってあげたりしている。逆に1歳児は真似をしようとするかのように4歳児の動きをじっと見ているそうです。2歳児の時に5歳児に靴を履くのを手伝ってもらっていた子が、3歳児になったら2歳児が靴を履くのを手伝ってあげていた。というエピソードも紹介してくださいました。このエピソードに現れているように、異年齢での関わりの中でいろいろな経験が伝承されてゆくのだと思います。いわゆるクラスの中でも自分がしてもらったことを誰かにしてあげることはあります。保育者に鼻水をふいてもらっていた1歳児が、次第に自分でふけるようになり、おともだちの鼻をふいてあげていた。ということも紹介されていました。

子どもどうしの関わりが育む子どもの社会性は、いろいろな年齢で関わることでより育つということなのだと思います。

赤ちゃん学会 9

2013/06/17

赤ちゃん学会学術集会2日目のラウンドテーブル「乳幼児の社会性」〜乳児からの保育における環境による乳幼児の発達の保障〜では、環境を通して子どもが主体的に活動することの大切さ、子ども同士の関わりを大切にすることで子どもたち自らが発達してゆくことを目指したした保育について、日々の保育を記録した動画を中心に紹介してくださいました。

環境を整えるには発達の普遍性と順序性を理解していて、一人一人の子どもの発達に即した環境を構成する必要があります。そして、その子に一番必要な環境は何かを考えなくてはなりません。でもそれは子どもが教えてくれることが多いのです。子ども一人一人を見ることで、この子が今どんな環境を必要としているのかがわかります。

例えば、ハイハイしている赤ちゃんが、どうもドアの向こうが気になるようなので、安全に十分配慮した上で、ドアを開けてあげたら、赤ちゃんの探索行動が広がった。また、同じ種類の遊びでも、難易度を変えたものを何種類か用意すると、子どもたちが自分に合ったもので遊ぶようになった。といったことを発表してくださっていました。

また、子どもがおもちゃを選ぶのではなく保育者が管理していた時は、自分のしたい遊びが見つからない子が広い部屋で走り回っていたことが多かった。時間の区切りには必ず、保育者がトイレに誘うなど、すべてのことを保育者が援助する、養護することが大切だと考えていた。そして、それが子どものためだと思っていた。しかし、今考えると、そうしている時の子どもの姿は、与えられた物で遊ぶ、受動的なものが多かった。これは、「子どものため」とは思いながらも実は保育者が活動の中心になっていたことに気付き、今は、保育者が必要以上に声をかけることなく、距離を置いて子どもを見るようにしている。

そうして、いろいろな遊びを用意して、部屋をおもちゃや教材を入れた棚で区切ったら、いつも走り回る姿が見られなくなったし、自分の好きな遊びに集中している姿が多く見られるようになった。

0歳児の目の高さに合わせておもちゃを置いたら、自分の好きなおもちゃをとって遊ぼうとしたり、好きなおもちゃが見えることで、泣き止んで遊ぶことができるようになった。そして、他の子どもが遊んでいるところを見る機会が増えたことで、異年齢の関わりの大切さに気付き、異年齢で過ごす機会を増やしたところ、0歳児も3歳以上の子どもたちの活動をよく見ていることがわかり、子ども同士の関係こそが最も大切な人的環境なのだと思った。

というように、子どもが自ら主体的に環境に働きかけて活動すること、そして異年齢の様々な子どもが共に過ごす環境の大切さを発表してくださいました。

赤ちゃん学会 8

2013/06/16

日本赤ちゃん学会第13回学術集会、2日目はラウンドテーブルとシンポジウムが行われました。参加したラウンドテーブルは「乳幼児の社会性」〜乳児からの保育における環境による乳幼児の発達の保障〜というテーマです。

子どもは三歳頃まで母親自身の手元で育てないとその子どもに悪い影響があるという考え方、いわゆる「3歳児神話」というのがあります。一方、近年の赤ちゃんの研究の進歩により、乳児から他の子どもをはじめ、様々な人と接することが、正常な発達を促すことがわかってきています。「乳児からの保育がどのように子どもの発達を促すのか」「子どもの発達における必要不可欠な環境とは」「乳児からの保育でどのように社会性が育まれるか」また、「発達障害を抱える子どもたちの発達をも保障できる環境とは」という視点で保育現場の日々の実践から発表してくださいました。発表者は、るんびに保育園、まみぃ保育園、幸輪保育園、井尻保育園の皆様です。

保育所保育指針や幼稚園教育要領には保育(教育)は「環境を通して行う」と書かれています。「保育所は(中略)環境を通して、養護及び教育を一体的に行うことを特性としている。 」(保育所保育指針)

「幼児と人やものとのかかわりが重要であることを踏まえ,物的・空間的環境を構成しなければならない。」「環境にかかわって幼児が主体性を十分に発揮して展開する生活を通して,望ましい方向に向かって幼児の発達を促すようにすること,すなわち「環境を通して行う教育」が基本となる」(幼稚園教育要領解説)とあるように子どもが主体的に環境に関わる、働きかけることが大切なのです。決して大人が一方的に教え込むことではありません。「教師主導の一方的な保育の展開ではなく,一人一人の幼児が教師の援助の下で主体性を発揮して活動を展開していくことができるような幼児の立場に立った保育の展開」(幼稚園教育要領解説)が必要です。

発表してくださった園はどの園も共通の理念のもと、物的環境、空間的環境、人的環境など、環境が子どもたちの発達にどう影響するかを重要視して保育を行っています。そして、異年齢の子どもの関わり、複数職員による保育教育という人的環境のもと、子ども一人一人の主体的自発的活動を大切にしています。その背景には子どもは自ら発達するという認識があるとおっしゃっていました。

保育の基本である環境を通した「子どもの主体的な生活」と「子どもの自発的遊び」を大切にされているということです。

2013/06/15

♪お山に雨が降りましたー♪

久しぶりの雨です。京都では5月28日に平年より10日早く梅雨入りしてから3日間ほど雨が降り、梅雨入りしたとたんに梅雨らしくなったと思っていたら、5月31日から6月14日までの半月間、雨らしい雨は降りませんでした。とてもさわやかな日も多かったのですが、最高気温が30度を越える日も多く、6月13日には35.9度まで気温が上がりました。まるで真夏です。

子どもたちは園庭で一足早い水遊びに興じ、キャーキャー言いながら、びしょ濡れになって、一足早い夏気分を満喫していました。気温が上がっても、湿度はそれほど高くなく、本当に真夏のようでした。

それは良いのですが、山は乾き、木々もどことなく元気がなさそうに感じられました。心配だったのは、冬に園庭に植え替えてもらった柿の木です。せっかく順調に新芽を出し、葉が大きくなってきていたのに、余りにも雨が降らないので、葉っぱが少ししおれかかっていたのです。何度か水をやっていたのですが、土が乾きすぎていて深いところまで水が届かなかったのか、なかなか元気を取り戻してくれません。でもようやく雨が降ったので、少しは元気になるかもしれませんね。

雨を待っているのは、木々だけではありません。いつもなら、コロコロと軽快な泣き声を響かせているタゴガエルの声が全く聞こえません。いつも産卵しているところに水がなくて、卵が産めないのかもしれません。モリアオガエルは頑張ってもみじの枝に卵塊をいくつか産み付けていました。これだけ、変な気候だと、私たちが気付かないだけで、他にも困っている生き物がいっぱいいるのだと思います。少し雨が降ってくれたおかげで、ホッと一息ついているかもしれません。しっかり降り続くと良いのですが、雨量はそれほど多くなく、また夏空が戻ってくるかもしれません。

最近は雨の降り方が、激しくなったように思います。梅雨の時期は以前のようにしとしとと長く降るのではなくて、一気にザーッとたくさん降ることが多くなりました。それでも、降らないよりは良いのですが、そんな雨は地表を流れてしまい、地面に染みこむまでは行かないのです。ですから、山全体がどうしても乾き気味になっているように思います。

毎日毎日、雨というのもちょっと嫌ですが、雨の多い梅雨時期には雨が降る。順調に季節が進むのが一番良いのだと思います。

赤ちゃん学会 7

2013/06/14

赤ちゃんが普段自分が過ごしている言語環境に選好を示すのはなぜか。とう問いに対する答えは「慣れ」なのでしょうか。それほど単純なものではないそうです。

多様な言語環境を背景に持つ子どもについての研究からは、ネイティブ話者への選好は、「単に、より理解しやすい言語への選好にもとづいたもの」というわけではないことが示唆されています。さらに、ことばにもとづいた社会的評価は、慣れ親しんだ刺激に対する領域一般的な選好に由来するわけでもありません。むしろ私は、「子どもが示す、ことばにもとづく社会的選好は、社会的世界をカテゴリー化するベースとしてことばを使用するという傾向を反映したものである」と提案したいと考えています。この傾向は、ヒト認知の進化に由来すると考えられます。(日本赤ちゃん学会第13回学術集会プログラム・抄録集p14-15)とKinzler氏はいいます。

慣れているや理解しやすいといった理由だけではなく、社会をカテゴリー化するためにことばを使う。カテゴリー化して理解するということなのでしょうか。私が誤った理解をしているかもしれませんが、とても興味深い講演でした。

この講演を聞いて思ったことは、ことばによる社会的選好は所属感ということに関係するのだろうということです。自分の所属する社会の言語を好むのは、ヒトが社会を作って生きてきたことと関係していそうです。生活を共にする集団があり、そこに所属することで生きてきました。その集団の使用する言語によって表される価値観で世界を理解して生きてきたのだと思います。もちろん異なる言語を使用する別の集団もあります。講師は“Us and Them”とおっしゃっていました。安全で信頼できる社会的パートナーとしての“Us”とそれ以外の“Them”でしょうか。そこには異なる集団が存在し、
集団間で争うこともあったでしょう。しかし常に戦っているわけではなく、一緒にご馳走を食べることで集団間の緊張を緩和するということもしてきたようです。個人も異なる存在ですし、集団も様々な集団があります。“Them”を排除するのではなく、“Them”は“Them”としてあり、“Us”は“Us”としてあることが可能な世界に向かって進化してゆけると良い。

とても難しかった講演を聞いたあとの頭にはそんな想いが浮かんできました。

赤ちゃん学会 6

2013/06/13

ことばが、社会的カテゴリーとして機能しているのなら、赤ちゃんは何ヶ月くらいから、ことばを認識しているのでしょうか。Kinzler氏は次のような実験を紹介してくださいました。

赤ちゃんに、母語とそうでない言語で、同じおもちゃを提示します。すると、赤ちゃんは明らかに母語で提示されたおもちゃを選びます。例えば、日本語の環境にいる赤ちゃんは「here is your little bear」と英語で言うより「くまちゃんだよ」と日本語で言って渡した方を好むということです。実際には英語とフランス語で比較していらっしゃいました。この実験で、赤ちゃんが、とても早い時期からことばに対する明らかな選好を示すということがわかったそうです。

また、英語が母国語の赤ちゃんが英語で話す子どもの映像とフランス語で話す子どもの映像のどちらを好むかを調べた実験では、明らかに英語で話す子どもの方を選好したという結果が出たそうです。そして、この傾向は、英語とフランス語という言語の違いのみならず、同じ英語でもアクセントのちがいでも見られたそうです。自分のいる言語環境をかなり正確に捉えていると言うことです。

では、ことば以外、例えば白人と黒人といった人種、つまり視覚情報のちがいという要因はないのでしょうか。それも実験されたそうです。両親が白人の英語環境にいる赤ちゃんに、白人の子どもと、黒人の子どもの写真を見せたところ、白人の子どもを選好しましたが、赤ちゃんが生活する言語環境と同じ英語で話す黒人の子どもの映像と、フランス語アクセントの英語で話す白人の子どもの映像では、自分の言語環境に近い方をより選好したというのです。

では、なぜ言語は早期から強力に作用するのでしょうか。慣れなのでしょうか。もしそうなら、慣れはどこから来るのでしょうか?という疑問を投げかけていらっしゃいました。

赤ちゃん学会 5

2013/06/12

日本赤ちゃん学会第13回学術集会、1日目のラウンドテーブルの後には招待講演が待っていました。講師は、Katherine D. Kinzler氏(シカゴ大学心理学部)です。Kinzler氏は、エール大学 文学士取得、ハーバード大学 Ph.D.取得、2011年にはAssocietion for Psychological Science “Rising Star”受賞の新進気鋭の研究者と紹介されていました。演題はThe Development of Language as a Social Category(社会的カテゴリーとしてのことばの発達)。なにやら難しそうですね。日本語で聞いても難しそうなテーマです。「私、早口なのでできるだけゆっくり話します。」といいながらも相当の早口の英語で90分間、休む間もなく講演してくださったので、全く耳がついて行きませんでした。
講演を聞いて感じた個人的な感想を書いてみようと思います。

「ことばは人と人をつなぐこともあれば分断することもある」と講演は始まりました。ことばは、お互いを理解し合うとても有効なツールです。一方で、同じことばを使う集団に所属しているという所属感を感じる役割もことばは果たすと思います。性別、人種、年齢といったカテゴリーのようにことばも社会的なカテゴリーになります。

Kinzler氏は「ことばは指し示す情報を直接伝えるだけでなく、社会的な意味を伝達します。私はこれまで、社会的カテゴリーとしてのことばに関するヒトの思考の発達的起源について研究を行ってきたました。」(日本赤ちゃん学会第13回学術集会 プログラム。抄録集)と自己紹介していらっしゃいます。

「ことばは、子ども達による他者評価、他者に関する推論、そして他者からの社会学習に影響を与えているのです。」とKinzler氏が言うように、ことばは、ただ単に情報を伝えるのみならず、子どもたちが社会を学ぶ上で、大切な役割を果たしているのでしょう。

強敵現る

2013/06/11

子どもたちとみんなで、えんどう豆を収穫、園庭でゆでて食べました。そのときはすべて収穫してしまったわけではなく、3分の1くらいは残しておき、改めて収穫することにしました。もう少し熟するとどうなるのか見たかったのもありますし、最終的には種も取りたかったからです。

子どもたちと収穫した後の畑をそのままにしていたので、翌日畑に行ってみました。そうしたら、ほとんどのえんどう豆がしおれて、地面に倒れてしまっています。子どもたちが収穫するときに引っ張りすぎて、茎が折れてしまったのかなとも思いましたが、子どもたちは茎を折らないよう、かなり気をつけて両手を使って収穫していたので、ほとんどがしおれてしまうようなことはどうも不思議な感じがしました。

茎が折れたのなら、残しておいたまめは早めに収穫した方が良いだろうと思い、探すのですがなかなか見つかりません。やっと見つけて採ろうとしたら、さやが半分なくなって、中のまめもすっかりないのです。いくつかみつけた他のまめも同様の状態です。

何者かが侵入して、食べてしまったのだと思います。そういえば、先日、学童保育の担当者が稲を植えるための小さな田んぼを耕そうとしたら、なにやら糞のようなものが落ちていたのを見つけ、その中には園庭にできているはずのぐみの実か種がたくさん混じっていたそうです。

確認したわけではありませんが、ハクビシンの仕業ではないかとみんなで想像しています。

ハクビシンは、頻繁に見かけるわけではないのですが、細長い猫というかイタチを大きくしたような動物で、その名の通り顔のまん中に白い線があります。雑食性で、果実などを食べることが多いそうですし、木に登ったりするのも得意なようなので、ハクビシンの仕業かもしれません。どこからどうして畑に入っているのか確認したいのですが、夜行性なので、昼間に出会う可能性は低そうです。

そういえば畑にいちごがたくさん実っていたのですが、赤くなったところを見ていませんし、収穫したという話も聞きません。また、園庭のぐみの実がいつの間にかほとんどなくなっています。昨年はビワの実が食べ頃になると何者かに食べられてしまいました。

畑は猿や鹿、猪が入れないようにしましたが、ハクビシンまでは想定していませんで開いた。夏になっていろいろな作物が実り出すと、どんどん食べられてしまうかもしれません。強敵現るってところでしょうか。

食べられてしまったえんどう豆

スクロール