2012年 10月

いっしょうけんめい

2012/10/08

栗をひろいに行って、遊びがいろいろと広がりました。

それにしても、やりたい!と思って取り組んでいる時の子どもたちの集中力と、吸収力というか、伸びる力というかはすごいものです。栗のイガをむくことだって、最初は、「先生できひん!」と言っていた子が、何度か挑戦してできるようになると、どんどんむいてゆきます。両足でイガを開くように踏むとイガがぱかっと割れて、中から大きな実が出てくるのが楽しくなるのだと思います。

午前中にとりきれなかった、枝の先で大きくなった栗の実が見えているイガがいくつもあったので、おやつが終わったあとにもう一度取りに行きました。朝より長めの棒を持って園庭を歩いていると何人かの子どもが「どこいくの?」「なにするの?」と聞くので、「もう少し栗を取りに行くんだよ」というと、3歳児の男の子と4歳児の女の子の2人が、一緒に行くと言ってついてきました。そして、私が落としたイガをむいて栗を取り出してくれます。最初はぎこちなかったものの、大きな栗が出てくるたびに「大当たりー」などと言いながら楽しんでやっていると次から次へとむいてくれました。どうしても難しいのは園に持って帰って、私がむくことにしたのですが、2人でかなりの数をむいてくれたので、終わる頃には2人とも栗むき名人です。
園庭にもどって、私がイガを外している間も手伝ってくれました。ほかの子どもたちも、興味を持ってやってみますが、楽しみながらたくさんむいた2人にはかないません。「2人は栗むき名人になったからねー」というと得意そうにしていました。

子どもが自分から「やりたい!」「おもしろい!」と思って取り組むことは、すぐに上手になります。今、園庭ではなわとびが流行っていて毎日のようになわとびをしている子が何人かいます。「とべるようになったし、見て!」というので見ていたら、まだまだぎこちない感じながら一生懸命です。「いっしょうけんめい練習したんだね」というと「うん」とうなずいて、またとび始めました。

次の日、また「見て」というので、見ていたら昨日よりは格段にスムーズになっています。「昨日より、ずっと上手にとべるようになったね。」というと、うなずいてまたもくもくととび始めました。1時間くらいしてまだ頑張っているようだったので、見てみると、さっきよりずっと上手くとべるようになっているではありませんか。1時間でこんなに上達するの?と思ったくらいです。きっとその子は、私に「見て」という前から、とべるようになりたい一心でずっと練習していたのだと思います。だからこそ、ぐっと伸びる瞬間があるのでしょう。

子どもが、心から「やりたい!」と思ったことには本当に集中して納得がいくまで取り組めるものなのです。そして集中して取り組むことができる対象は、それぞれ違うのです。ですから、様々なことに取り組むことができる環境を用意することが必要なのだと思います。というものの、何人かが楽しそうにやっていることは、やってみたいと思う子が多いのか、楽しさが伝染して、挑戦する子が増えることが多いものです。今、当園の園庭では、それがなわとびなのです。

この子どもの持っている力が存分に発揮されるように、何をすれば良いのか?保育者はじっくりと考える必要があります。「次は何か?」目の前の子どもの姿から考えることを忘れないようにしたいと思います。

受けとめる

2012/10/07

栗を拾って、イガを外すことができるものは外し、できないのはイガがついたままバケツに入れるなどして栗拾いが一段落すると、子どもたちは自然に次の遊びを始めました。

3・4・5歳児の男の子を中心に始まったのが、石垣登りです。栗の木がある斜面とその下の道とのあいだは高さ3メートル近い石垣なので、子どもたちが登ってみたくなるのは自然なことです。その石垣は1.8メートルくらいのところで折り返しがあり、幅50センチくらいの犬走りがあります。ちょうど階段が一段あるような感じです。子どもたちは、その犬走りのところまで登ろうと頑張ります。登れなくて、保育士に手伝ってという子もいますが、自分で登れる範囲で登らないと、かえって危ないので子どもにはそう伝えます。

いろいろと工夫しながらようやく登りきって犬走りに立ってみたものの、下を見るとかなりの高さなので、怖くなってしまう子もいました。「先生下りられない」と助けを求めますが、「自分で登ったんだから自分で下りてね。」と保育士もすぐに手を出すことはしません。石垣の上にずらっと並んで、小さな恐怖心と戦いながら子どもたちは試行錯誤していました。

実際石垣を登るのは比較的簡単でも、下りるときは少し怖さが伴います。特に下りはじめは、どこに足をかけると良いのか見えにくいので余計に不安なのだと思います。中にはコツをつかんで下りられる子もいますが、怖さが先に立ってしまう子もいます。

どうしても下りられない子が何人かいたので、保育士も助け船を出すことにしたようです。ただし、すぐにだっこして下ろすようなことはしません。「先生がしっかり受け止めてあげるから、先生に向かってジャンプしてみて!」という助け船です。そっちの方が怖いかも・・・と思ったりしましたが、そんなことをいうと子どもたちが余計に怖いと思ってしまうので、黙って見ていると、すぐに思い切ってジャンプする子、何度もためらいながら、ようやくジャンプできる子、何度も挑戦しようとするけどなかなかジャンプできない子、様々です。

一度ジャンプできた子は、それが面白くなって、何度も登ってはジャンプして保育士に受け止めてもらっていました。何度もためらって、ついに思い切ってジャンプできた子の笑顔は、達成感でいっぱいでした。

そんな中、どうしてもジャンプできない男の子がいしました。ジャンプどころか、犬走りの上で向きを変えて石垣に背を向けて立つこともままならないのです。ようやく向きを変えられても、怖くてジャンプなんてできません。みんなに「がんばれ!」と応援されたのがかえってプレッシャーになったのか、ついに泣き出してしまいました。「泣いてないで、がんばれ!」と声をかけたくなる場面です。しかし、保育士はそれ以上励ましても辛くなるだけだと思ったのか、石垣の上で泣くその子に、「がんばったんだね」と声をかけてから、だっこして下ろしてあげました。ジャンプすることはできなかったけれど、怖さに耐えて頑張った子どもの気持ちもしっかりと受け止めながら、だっこして下ろしてあげていました。

子どもの気持ちをしっかりと受け止めていることが、とてもステキだなと思った瞬間でした。

選ぶ

2012/10/06

みんなで栗拾いをしたことを紹介しました。あまりにもたくさんとれたので、どうしようかと思っています。一部は早速今日の給食で栗ご飯になって出てきました。それでもまだまだたくさんあります。美味しい食べ方を考えようと思います。

0歳児以外は、ほとんど全員が栗拾いに参加していたと思います。園庭から自由に行き来できる場所なので、園庭で別の遊びをしたい子はそれもできます。最初に「栗拾いに行く人一緒に来てね。」と参加者を募りますが、その時の声のかけ方が大切になってきます。つまり、選択肢の提示の仕方です。今回の場合であれば、「栗拾いに行く人」「園庭で遊ぶ人」という選択肢を提示しますが、すべての子に対して同じ提示の仕方では、子どもは選ぶことができません。栗拾いがどんなものかちゃんとわかっていて、園庭で遊ぶことと比較検討できる力のある子は選択肢を並列的に提示してあげても良いのですが、栗拾いを経験したことのない子や、栗拾いがどんなことかあまりイメージができない子は、行ってみようよ!楽しいよ!と誘ってあげることばがけも必要です。

選択肢について理解ができていない子に、選んでというのは、本当に選んでいることにはならないのです。当園ではセミバイキング式の昼食にしています。自分で食べられる量を決めて、自分で「たくさん」「ふつう」「すくなく」と申告して配膳してもらいます。そのためには、量の違いが理解できていなくてはなりませんし、その上で今、自分はどれくらい食べられるのか、自分のお腹と相談しないことには決めることはできません。形式だけセミバイキングにしても意味はないのです。2歳でもそのことがちゃんとわかっていれば自分の量を決めることができますし、3歳でも量についての理解ができていなければ、量を決めることはできないのです。

ですから、子どもが選択すれば良いというものでもなく、単純にどっちがいい?という問題ではないのです。子どもの発達をしっかりと捉え、その子にあった選択肢を用意する必要があるおです。

「栗拾いは楽しいから行ってみようよ!」誘うことも、大切なことなのです。そのあたりのことは保育士はちゃんと心得ているので、子どもに合わせた声がけをしてくれていたようです。子どもがワクワクするような、やってみたいな! と思うようなことばがけや、どっちにしようかなと考えることができる選択肢を用意したいものです。

栗拾い

2012/10/05

すっかり秋らしくなって朝夕は肌寒いくらいです。昼間もとても過ごしやすくなったと思っていたのですが、ラジオのパーソナリティは日中はまだまだ暑いですね。といっていました。でも、鞍馬にいるとそれほど暑いとは感じないので「そうかな?」と思っていたのですが、用事があって市街地に行ったら、確かに暑いのです。園にいる時は長袖を着ているのですが、半袖になりました。ラジオでまだまだ暑いですね。と言っていたのが実感できました。今日も予想最高気温が27度なので、市街地では暑いのかもしれません。

そう言っているうちに、今年もあと3ヶ月になってしまいました。あっという間に雪の季節がくるのでしょう。それまでの季節の移り変わりを子どもたちとじっくり楽し道と思います。

園庭の裏山の斜面に栗の木がたくさん植えてあるとことがあります。夏には花がたくさん咲いていたので、今年は栗が豊作かなと期待していたら、期待通りたくさん実をつけてくれました。最近はあまり猿が来ないので、猿に取られる前に取ろうと考えなくて良いので、気が楽です。明日くらいに取ろうかなと思っていると、必ずその前に猿が来て先を越されるのです。彼らも命がかかっているので、それはそれでしょうがないのですが・・・

この間からいつ取ろうかと保育士と相談していたら、今日みんなで取る予定をしていたようで、午前中は栗拾いになりました。枝についたままイガが弾けているものもあれば、まだ青いものもありますが、男性保育士と私の二人で、長い棒を持って枝を軽くたたき、落ちてきた栗を子どもたちが拾います。枝が振動するようにたたくと、枝から離れそうになっているイガはすぐに落ちてきますが、青いのは落ちにくいのです。といってもそんなにうまく落とし分けることはできませんが・・・

落とした栗はまだ、イガに入ったままなので、イガから取り出さなくてはなりません。両足でうまく開くように踏むと、イガがぱかっと開いて栗の実が顔を出すのですが、熟し方が足りないと、なかなか開くことができません。 どうしても開かないのは、イガのままバケツに入れたら、バケツ3杯にもなりました。取り出した栗だけでもかなりの量です。

茹でて食べようか、栗ご飯にしようか、焼き栗を作ろうか、とても楽しみです。

「トキワ荘の夏」

2012/10/04

先日、鞍馬小学校で演劇を鑑賞する機会がありました。「劇団 俳小」 という劇団の巡回公演です。パンフレットによると劇団 俳小は、昭和49年に早野寿郎、小沢昭一などが中心となって活動していた劇団俳優小劇場がそのスタートです。欧米の演劇から、日本の古典、新作、詩や小説をそのまま舞台にのせるなど、一定の演劇理念にとらわれない幅広い演劇活動を続けながら、舞台芸術の原点を探る演劇創造集団として定評があるそうです。

最初、公演案内のチラシを見たときには、どういう経緯で東京の劇団が、鞍馬小学校で公演してくださることになったのか不思議でした。実は文化庁の行う「次代を担う子どもの文化芸術体験事業ー巡回公演事業ー」で、小中学校で一流の文化芸術団体による巡回公演を行い、優れた舞台芸術を鑑賞する機会を提供することにより、次代の文化の担い手となる子どもたちの発想力やコミュニケーション能力の向上につなげることを目的とした事業です。

教頭先生がの事業に応募されたところ、ご本人も驚かれるくらい順調に鞍馬小学校での実施が決まったそうです。

上演された作品は「トキワ荘の夏」(竹内一郎作・演出)です。昭和30年、東京都豊島区にあるアパート、トキワ荘に集まった若い漫画家たちの物語。漫画家たちが語り合いぶつかり合い悪戦苦闘しながらも子どもたちの夢と希望のために、自分たちの夢と希望と情熱を込めて漫画を描いてゆくという作品です。

トキワ荘といえば、手塚治虫、石ノ森章太郎、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、赤塚不二夫など現在のマンガの基礎を築いた漫画家たちが、共に暮らし、作品を作生み出した場所で、マンガの聖地と言われています。作品の登場人物も、手塚 治虫がモデルの木塚 修身(きづか おさみ)、石ノ森 章太郎がモデルの秋森 良太郎(あきもり りょうたろう)など、創作でありながら、実在の漫画家を思い起こさせる、半分フィクション、半分ノンフィクションの作り方がおもしろいと思いました。

笑いあり、ホロリとさせる場面あり、熱くマンガを語るシーンもあり、とても見応えがりました。俳優さんの演技はもちろん素晴らしいことに加えて、あまり大きくない体育館の中に舞台と客席が作ってあるので、舞台と観客の距離がとても近く、役者さんの息づかいまでが伝わってきて、迫力満点でした。

小学校での公演ならではの企画として、3年生と4年生がところどころで、マンガを教わりにくる子どもたちの役で出演していたのも微笑ましく感じました。これには事前に公演に関するワークショップが劇団員の人たちにより行われて、子どもたちが演じること、鑑賞することへの実感を持つことができるように配慮されているそうです。少人数ながら、子どもたちは笑顔で舞台に立っていましたし、100分という公演時間にもかかわらず、1年生も最後まで真剣に見入っていたようです。

ステキな機会を与えてくださった鞍馬小学校の先生方と、迫力の演技で心を揺さぶってくださった劇団員の皆様に感謝します。

トマト屋さん

2012/10/03

自然農法というか、ほったらかしの畑からも実りが得られていることは前にも書きました。普通の大豆と黒豆を何本かとってきて、枝豆を茹でて食べました。まだたくさん畑に残っている豆たちもずいぶんと太ってきました。葉っぱが黄色くなってきているものもあります。枝豆で食べるか、もう少し待つか悩むところです。少しだけ枝豆で食べてみようかと思っています。

トマトは、サンマルツァーノという煮込み料理に適した種類がたくさんできています。サンマルツァーノでトマトスープをつくって食べてみました。爽やかな酸味の効いたスープができました。パスタソースを作ったら美味しいかもしれません。ただ、一度にたくさん取れるわけではないので、園で子どもたちと食べるにはどうしようかと考えてしまいます。もちろん、生で食べても美味しくいただけます。

ある日、子どもたちがおやつを食べている間に畑を見に行ったら、トマトがいくつか赤くなっていたので収穫しました。ふと見ると普通の丸いトマトもできています。何という品種かはわかりませんが、お店で普通に売っている丸い形のトマトです。サンマルツァーノは細長いので違いはすぐにわかります。とにかく赤くなって食べられそうなものはすべて収穫して食べました。

とってきたトマトをよく洗い、小さく切るためにテラスに机を出して、まな板とペティーナイフを用意していると、おやつを食べ終わって園庭で遊んでいた何人かの子どもたちが「なにするの」と集まってきました。「トマト屋さんか開店しますよ!」というと「手伝いたい」という子がいたので、トマトを洗ってもらいました。洗ったトマトをくし形に切ってボウルに入れ「食べる?」と聞くとみんなニコニコ顔です。伝い歩きをはじめたばかりの0歳児さんも近づいて来たので、ちいさく切ったトマトを口に入れてあげると酸っぱそうな顔をしていました。「おいしいね」というと、もっと欲しいという顔をしていたので、もう一度口に入れてあげました。最初は酸っぱい顔をしますが、すぐに「もっと」という顔に変わります。気に入ってくれたようでした。

ほかの子たちも、どんどん食べるので、まだ食べていないおともだちにも食べさせてあげたら。というとトマトの入ったボウルを持って、「トマトはいりませんかー」と園庭で遊んでいる子や先生に配ってくれました。
決して、甘くて美味しいわけではないのですが、あっという間に売り切れて、トマト屋さんは閉店しました。

お迎えのお母さんにトマト屋さんのことを話していたら「うちの子、トマト食べましたか?家では食べないんですよー!」とおっしゃるので、ちょっと驚きました。その子は、たくさん食べていたからです。

季節の移り変わり

2012/10/02

台風が秋を連れてきて、10月になった途端に涼しくなりました。朝夕は肌寒いくらいです。今朝の気温は16度でした。お彼岸を過ぎたころからしのぎやすくはなりましたが、京都市内では、最高気温が30度を越えた日もありました。ところが、台風が近づいた9月30日は最高気温が22.8度、10月1日は23.5度です。一気に秋が来たと実感できます。

自然はちゃんと季節の移り変わりを表してくれています。景色も、色も夏のそれとは違います。朝日のなかではすべてのものがとても立体感を伴って目に飛び込んできますし、午後に傾いた太陽に照らされる山の木々は、乾いた空気のせいかコントラストの高い写真のようです。日の光が斜めになってきたからなのかもしれません。

園児と園の近くを歩いていたら、「なんか、いいにおいがする!」というので、ふとみるとキンモクセイが小さな花をつけ始めていました。その時の花は、まだあのやわらかなオレンジ色にはなっていなくて、うすみどりから黄色くなりかかっていたのが、2日後にはちゃんとキンモクセイ色になっていました。

シュウメイギクも咲き出しました。キブネギクとも呼ばれるこの花は今の季節にたくさん咲きます。今のところ鹿に食べられることなく、花を開いていたり、つぼみをたくさんつけていたりします。このまま美しく咲いてくれると良いのですが・・・

ジョロウグモがいたるところに巣を作っています。大きくてカラフルな雌が巣の真ん中でどんと構えていて、小さなオスは巣の端の方にちょこんといる姿がかわいらしい感じです。

夜になると鹿の鳴く声が山や谷に響き渡ります。やはりどこかもの哀しい声です。ときどきムササビがキュルキュルキュルと鳴く声も聞こえます。夜歩いていたら、すぐ近くの木の枝でガサガサと音がするので、持っていたライトで照らして見たら、大きなムササビが枝の上からこちらを見ていました。ライトがあたると目がピカピカと光ります。リスのように大きなしっぽをピンと立てていました。枝からジャンプしないかなと思ってしばらく見ていましたが、その時は飛びそうにありませんでした。

植物も動物も、季節の移り変わりを敏感に感じ、それに合わせて生きているのですね。園児たちにも移り行く季節を感じて欲しいと思います。

ことば〜共感〜

2012/10/01

指差しが、ことばの前の段階だというのはよく言われることですが、指は、意味するもの、対象に意味をつける役割を果たします。つまり言葉と同じです。一方、指差しされる対象は意味されるものです。指差しがことばの前のことばといわれる所以です。

指差しには、2種類の指差しがあります。赤ちゃんの「あれが欲しい!」という欲求の指差しと「あれ見て!」という叙述の指差しです。叙述の指差しは、指差した対象をお母さんと共有しようとしているのです。赤ちゃん、お母さん、対象の3項の関係が、対象についてお母さんと赤ちゃんが共有し、共感する構造になっています。そんなときは赤ちゃんとお母さんは一緒に対象を見ています。共同注意と言われる状態です。当然、この時は赤ちゃんとお母さんは向き合っているわけではありません。共有、共感が起こる時の視線は、決してぶつかる方向ではなく、共に同じものを見る視線です。これは、赤ちゃんとお母さんにに限ったことではないと思うのです。組織でもそのメンバー全員が、一つの目指す方向を向いた時に、共有共感が生まれるのです。視線を交わらせて相手を見てばかりいると、相手の嫌なところばかりが目について、何でも誰かのせいにしてしまうものです。やはり、それは見るところを間違えているのではないでしょうか。見るべきは、みんなで目指す方向です。赤ちゃんのコミュニケーションはそんなことを教えてくれました。

さて、実際にことばをつかうには、「見たてる」能力が必要になってきます。子どもが、お皿に砂をいれて、「ごはんできたよ」と持ってくる。砂をごはんに見たてているのです。この見たてる能力が、ことばを使えるようになるためには重要なのです。なぜなら、ことばも象徴機能(シンボル機能)のひとつだからです。また、様々なものを種類で分けてラベルをつける、カテゴライズする能力も大切になってきます。そういった能力をつけながら、次第にことばを使うことができるようになってゆくのです。

9ヶ月ごろに3項関係が成立し、12ヶ月で意味のあることばを話し始め、15ヶ月ごろには語彙が3語くらいになり、18ヶ月ごろに急に語彙が増える現象があり、語彙爆発と呼ばれています。もちろん、ことばの獲得には個人差が大きいので、ここであげた月齢は目安です。

では、ことばを育てる環境はどのようなものが良いのでしょう。気になるところです。養育者の働きかけとしては、子どもが注意を向けたものを共有し、子どもが興味を持っている対象の名前であったり、言語的な情報を提供すること、子どもの興味の対象を知って、それに合わせた言葉がけをすることで、子どもが語彙を獲得してゆきます。
決して、子どもの興味感心を無視して、大人が教え込むのではなく、子どもの興味感心が第一だということだと思います。

ことばを育てる保育者の役割は、子どもの様々な反応を受け止め、子どもに返すこと。子どもが、「この人と遊びたい」関わりを持ちたい相手になること。子どもの自発性を大切にすること。ひとりひとりの子どもの思いを受け止める。子どもがイメージを膨らませて遊ぶことができる場をつくる。発達に応じた環境を用意する。ことだそうです。

どこかで聞いたことばが、並んでいます。

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