2012年 4月

春の自然

2012/04/20

   咲き始めた八重桜

今日は二十四節季の「穀雨」だそうです。穀雨とは雨が降って全ての穀物を潤すという意味で、田畑の準備が整い穀物の生長を助けるやわらかく、あたたかい雨が降るのだそうです。今日は朝から雨でした。やわらかいというより、かなりしっかりと降っていると感じました。この雨で、せっかく咲いた桜が散ってしまうのではないかと心配しましたが、思ったほど散ってはいませんでした。
お寺の本殿前は八重桜も咲き始め、白や桜色、薄紅色などの花がたくさん咲いてとても華やかなのですが、それが雨ににじんで、やさしい色のカクテルになっていました。

咲くのが遅かった桜にばかり気を取られていたら、いろいろな植物が芽吹いていました。枝先に生まれたもみじの葉っぱがいつの間にか大きくなっていて、やわらかい黃緑色が広がってきています。きのう子どもたちとさんぽに行ったときには春の日差しをうけて、自ら輝いているように見えました。芽を出したばかりの葉っぱはとてもかわいらしくて、日に日に大きくなってゆくのです。

   少し大きくなったもみじの葉

「目に見えて」という表現がぴったりなほど、あっという間に大きくなってゆきます。このもみじの葉っぱの成長を見ていると、「葉っぱも生きているんだなー」とその生命力に元気をもらえるので、とっても好きなのですが、今年は心に余裕がないのか、もみじが芽吹いたことにも、ある程度大きくなっていることにも気付きませんでした。

葉っぱはそれほどでもないのですが、どんな動物でも赤ちゃんはかわいらしいものです。それは、赤ちゃんの戦略なのだそうです。体つきや、顔の作りが他から見てかわいく感じるようにできているのです。

   黄緑色に輝くもみじの葉

そうすることで、他の人が「かわいい」と思ってかわいがったり、面倒を見るのだそうです。誰かに面倒を見てもらわないと生きて行けない赤ちゃんにとっては、重要な戦略です。

もともと持っているその戦略が最近の人間の大人には通じなくなってきているのかもしれません。虐待のニュースに触れるたびに、どこか自然のバランスが崩れてしまったのかと感じざるを得ません。

一気に暖かくなったので、様々な生き物のいのちの輝きが増して来ているようです。余裕がなくなり、弱くなっている心に、元気をもらうようにしたいものです。いや、もらうのではなくて、自らコントロールするのでしょうね。

さんぽ

2012/04/19

      沈丁花

    さんぽに しゅぱーつ!

ようやく、陽春ということばがぴったりのとても暖かな日になり、いろいろな花が待ちかねたかのように咲きだしました。園の前にある桜も咲きそろいましたし、園庭にある山桜もたくさんの花をつけています。ただ園庭の山桜はとても背が高いので、意識して見上げないと花をつけていることがわからないのが残念です。

    さくらの木下で

子どもたちとのお参りを終えてから、桜の写真を撮ろうと思って外に出てみると、4歳児と5歳児が、散歩に行こうとしていました。「どこまで行くの?」と聞くと、「木の根道」という答えが返ってきました。お寺の参道で一番高いところまで登ります。

坂道を青空に向かってみんなで登ってゆく子どもたちの後ろ姿を見送っていたら、優しい風に乗って沈丁花の香りが運ばれてきました。青空は美しく、日差しはポカポカ。こんな日にデスクワークをするのがなんだかもったいない気がして、子どもたちと散歩に行くことにしました。先送りした仕事に後から苦しめられるかと思わないでもなかったのですが、そんなことより子どもたちと出かけよう!と思い切りました。こどもたちの散歩について行く旨のメモを残して園を出たら、子どもたちの姿は見えなくなっていました。みんな坂を歩くのは得意なようです。

途中いろいろなところで遊びながら本殿へ。本殿前の満開の桜の美しさに歓声を上げたかと思ったら、舞い降る花びらをピーピーと笛にして遊んでいました。

      木の根道

でも、ゆっくりしていると、目的地で遊ぶ時間がなくなるので、早々にさらに上を目指します。それまでとは違う薄暗く狭い山道を、今まで通りに楽しく登る子どもたち。山道を歩くと少し汗ばむくらいです。

木の根道についたら、鬼ごっこをする子、木登りする子それぞれに遊びました。静かな山に子どもたちの楽しそうな声が、いつまでも響いていました。

満開です

信じる

2012/04/18

子どもってどんな存在でしょう。小さくて、弱くて、何も知らない、守らなくてはならない存在。確かにそうです。大人より劣っていて、何もできなくて、教え導いてあげなければならない存在。そうでしょうか。

食べ物はこぼすし、すぐにころぶし、確かに大人よりできることは少ないかもしれません。しかし、大人にはできないこともいっぱいできます。想像力や発想力では大人は足下にも及びません。ファンタジーの世界に生きていて、その世界からとんでもなくおもしろいものを引っ張り出してきたりします。決して全てが大人より劣っているわけではありません。知らないことはいっぱいありますが、何もわからないわけではありません。役割というか特徴が違うのです。

第一、子どもは小さくてもひとりの人間です。少し長く生きてきたからって、大人の方が偉いわけではありません。人として対等な存在のはずです。そんなの当たり前だろうといわれるかもしれません。当たり前なのに、子どもはできないからという理由で、教え込もうとしたり、やらせようとしたりしていないでしょうか。

なにかひとつのことができないからといって「やりなさい」とやらせると、そのときはできても、次に同じような場面に遭遇したときには、またできなくなっています。遊具を使うのに順番に並ぶ必要があるとします。ただ「並びなさい」といって並ばせても、次に同じような場面になったときには、並びません。なぜなら、大人に並ばされているからです。子どもが「順番に並ばないとみんなが困るから並ぼう」と自ら考え納得するからこそ、次にそうすることができるのです。禁止も同じです「ダメ!」と禁止するだけでは、子どもが主体的に「これは危ないからやめよう」と考えないので、又同じことをやってしまいます。

そして、大人が思っているよりも子どもたちはずっとずっといろいろなことを考えて、自分でできるのです。大人は「子どもはできないから」と思い込んでしまいがちですが、子どもを丸ごと信じきることによってこそ、子どもは自分で羽ばたくことができるのです。大人の側から考えて、大人がやらせるのではなく、まずは、子どもの側からスタートしませんか。

本殿前のさくらが満開に近づきました

保育って・・・

2012/04/17

子どもが自ら主体的に活動することが大切だと書きました。そういうと「なんでもかんでも子どもの好き放題にやらせておけば良いのか?」と言う声が聞こえてきそうですが、決してそうではありません。必要なことはしっかりと伝えることが大切です。そして、どんな伝え方をするかも大切です。時には厳しい言い方で伝えないといけないときもありますが、子どもがしっかりと納得できるように伝える必要があります。

子どもたちにどう育って欲しいのか・・・そこが大切なのです。それは、子どもたちが自分のことをわかること、他の誰かを認められること。コミュニケーションをとれること。お互いを認め合いながら、力を合わせて問題を解決してゆくことだと思います。

そうなるためには何が必要なのでしょうか。最も大切なのは、周りにいる大人の姿や態度です。子どもはそれを見て学ぶのです。子どもに「静かにしなさい」と言っていおいて、大人が大声で話していてはどうしようもありません。子どもたちがお互いに認め合って力を合わせて欲しいと願うなら、まずは大人自身が、誰かの批判をするのではなく、真剣に相手の話を聞くなどして自から相手を認め、心を開いて話し合い、協力し合うことが必要です。
「学ぶ」は「まねぶ」ことなのですから、子どもたちは保育園では、私たち保育者の真似をしてゆくのです。事実、子どもの口調が担任の保育士に似ることがあるのです。

保育は、子どもに何かを教えたり、何かをさせるのではなく、大人がどう生きるかなのではないでしょうか。子どもはその姿から「学ぶ」のだと思います。

なんて偉そうなことを言って、「あなたは子どもに真似されていい生き方をしているのですか?」と聞かれると、言葉に詰まってしまいます。自信がないというより、穴があったら入りたいくらいですが、それをしっかりと心にもって自律してゆく覚悟が必要なのだと思います。

保育する

2012/04/16

保育するとはどういうことでしょうか。子どもを育てることでしょうか。それなら、子どもは育てられる存在なのでしょうか。育つ存在なのでしょうか。もちろん育ち育てられる相互関係なのだとは思います。では、主役は誰でしょうか。それは自分に必要なことを学び自ら育ってゆく子どものはずです。

学校は子どもたちの全人格的な発達成長を促す場ですが、どちらかというと多くの知識を習得すること、先生が生徒に知識を伝えることが大きな目標となっているのではないのでしょうか。学校の教室は、黒板の前に立った先生の声が一番後ろに座る子にも届き、ある程度まとまった数のこどもたちに知識を伝えるのにちょうど良い広さと形になっていると聞いたことがあります。先生が教えなければならない内容をどう子どもたちに、どうわからせるかを計画して授業をします。そう、授業なのです。先生が生徒に授けるのです。当然、子どもたちは先生から知識を受け取ることが主になります。

では、保育園では何が大切なのでしょうか。それは遊びを中心とした生活だと思います。子どもが自ら生活の主役となること。自ら育ってゆくことです。そのために大人がするべきこと。それは、子どもたちができるだけ自ら考え、自らの意思で行動できるように環境を整えてあげることです。主役である子どもが、思う存分自分を発揮して自ら育つことをそっと支えてあげれば良いのです。

学校の真似をして知識を子どもに伝えることが最も重要だと思ったり、こどもにはいろいろなことを教え込まなくてはいけない。と言う思いが強すぎたりして、何かを「させる」こと、禁止することが多くなることがあります。しかもそれは子どもが決めるのではなく、大人の都合だけで決めてしまうのです。これでは大人主体です。

ついついやってしまうのが、「びびらしてなんぼ!」です。「洋服を片付けなかったら先生がもらっちゃうよ」そういうと、子どもは大切な洋服を取られては大変だと「びびって」片付けます。でもそれは、「片付けた方が大切な洋服がなくなることもないし、他の人の邪魔にもならないから片付けよう」と子どもが自ら考え、自分の意思で行動しているのではないのです。ですから、何度でも洋服を片付けないということを繰り返します。子どもが自ら洋服を片付けるようになって欲しいならそうなるような接し方をすれば良いだけではないでしょうか。

ついつい「これしなさい!」「それしちゃだめ!」と命令して子どもを動かそうとします。大人が命令して、動かすことが、保育だと勘違いしてしまいがちですが、そうすることで、子どものどんな部分が育つのでしょうか・・・

雲珠桜

2012/04/15

暖かな日曜日になりました。桜は咲いたかなと、お寺に行ってみると、ずいぶん花が増えています。朝より夕方にはもっと増えました。お寺では花供養の中日法要が行われました。桜もちょうど咲き始め、淡い色に包まれた境内にはほのかに甘い香りが漂っているかのようです。箏曲や尺八の奉納、合気道の演武奉納などが行われ、陽春ということばがふさわしい華やいだ空気に包まれていました。

今日から10日ほどが、鞍馬の桜が美しいかもしれません。ソメイヨシノに限って言えばです。他にも様々な八重桜やしだれ桜、山桜など染井吉野の他にも多くの種対の桜があります。例年は染井吉野が咲く前に山桜が可憐な白い花を咲かせているのですが、今年はまだです。染井吉野に気を取られていたら、八重桜もつぼみが膨らみ、咲きそうになっている花がありました。これからしばらくは美しい桜が楽しめそうです。

「鞍馬」「桜」といえば、

花咲かば、告げんと言いし山里の、使いは来たり馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜、手折り栞を知るべにて、奥も迷はじ咲き続く・・・

謡曲『鞍馬天狗』の一部です。ここに出てくる雲珠桜(うずざくら)とはどんな桜なのでしょうか。これにはいろいろな説があります。

唐鞍といって正式な行列などで馬を飾るための馬具があります。その馬具の鞦(しりがい)につける、宝珠の形をした飾り金具を雲珠(うず)といいます。

①花の形が、この雲珠に似ている桜という説
②鞍馬山の桜を総称して雲珠桜という説
③様々な桜が緑の木々の中に咲く様子が、馬具の飾り金具である雲珠に似ているからという説
④馬の鞍と鞍馬が通じることから、「鞍馬山の雲珠桜」と鞍馬山という固有名詞を冠してこそその意味がある。雲珠桜とは雲珠のように咲く鞍馬山の桜という意味で特定の品種ではないとする説もある。
⑤冠にさす飾りを髻華(うず)といい、古くは髪に草木の枝をさして飾りとしたことで、鞍馬山の桜を手折り髪に挿したところから、雲珠桜(うずざくら)と呼ぶという説。

①は雲珠桜という特定の品種があるという説、②③④は鞍馬山に咲く桜を総称して雲珠桜という説、⑤は優雅です。

雲珠桜という固有品種があったとも言われているようですが、そうだったとしても、総称だとしても平安時代から鞍馬の桜は有名だったようです。

「これやこの音に聞きつる雲珠桜 鞍馬の山に咲けるなるべし」『定頼集』

唐鞍(『日本国語大辞典』小学館)

 雲珠(『日本語大辞典』小学館)

さくら 咲いたかな…

2012/04/14

日本の国花は法律で決められているわけではないそうですが、一般的に桜は菊と並んで日本の国花といえるでしょう。古来より、桜は歌に詠まれるなどしてきましたが、平安時代以降は、花といえば桜のことをさすほど、春の花の代名詞となっています。

桜の種類は、基本的にはヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ、ヤエザクラなどの種類があり、これらの交雑などにより、自生種だけでも様々な種類があるうえ、桜人気は昔からのことだったようで、平安時代から様々な園芸種の育成が行われた結果、多くの種類の桜があるようです。

昨日も書いたように、桜というと現在は染井吉野が一斉に咲いている姿が思い浮かべますが、江戸時代に染井吉野が生み出されるまでは、桜の風景も今とはずいぶん異なったものだったのではないかと思います。

ようやく咲き始めたお寺の本殿前にある桜が今日はずいぶん咲いているだろうと、期待して見に行ったのですが、開いた花がほんの少し増えただけでした。園の前の参道にも桜が植えられていますし、園庭にも大きなヤマザクラの木があるのですが、こちらはまだ花を咲かせるまでにはなっていません。

昨日降り続いた冷たい雨が昼頃には上がり、雲が多めながらも日差しはあったのですが、空気は冷たかったので、開花は進まなかったのでしょう。明日はお天気も良いそうなので、どのくらい咲いてくれるか楽しみです。

さくら

2012/04/13

ようやく鞍馬でも桜が咲き始めました。お寺の本殿前のソメイヨシノが一輪花をつけているのを昨日の午後見つけました。「やっと咲くことができたー!」とのびのびしているように見えます。他にもつぼみがたくさんついていて、今にも咲きそうでした。

今朝早い時間に見ると、開いている花が増えていました。他の枝や、木でもちらほら咲いています。半日足らずで、こんなに増えるものなのですね。当たり前ですが、あらためて桜が生きているんだなと思いました。半日でこのくらい変わるのだとしたら、どのくらいの時間で、咲いていることが確認できるのだろうと思い、2時間後に見てみるると、一つの花は3時間前より確実に開いていました。今日は午後から冷たい雨の予報が出ていたので、開花が一気に進むことはないのかもしれませんが、日曜には2〜3部咲きになるのではないでしょうか。満開の桜も美しいのですが、7〜8部咲きで少しつぼみが残っているくらいが私は好きです。
桜と言えばソメイヨシノがたくさん植えられていて、一斉に咲きそろう美しさを思い浮かべることが多いのではないかと思います。年度の変わり目に一斉に咲咲きそろったソメイヨシノは卒業や進学、就職といった人生の節目を彩るので、思い出の1シーンとして記憶にのこることが多いのではないでしょうか。

染井吉野は江戸時代、染井村(現在の東京駒込付近)で、エドヒガンとオオシマザクラとの交配によって生まれた品種で、染井の吉野桜という意味で「染井吉野」と呼ばれています。日本全国に植えられている染井吉野の全てが同じ遺伝子を持っているクローンなので、気象条件が整うと一斉に咲き始めきれいに咲きそろうことが好まれ、河川敷や街路樹などに植えられることが多いようです。また、葉が出る前に一斉に花が咲くので、花見にも適しているのでしょう。
しかし、遺伝子が同じなので、病気などには弱く、一斉に病気にかかってしまったり、環境の変化に弱いという性質があるようです。

生き物は生き残り戦略として、多様性を選んできました。染井吉野のように全てが同じ遺伝子だと、全滅してしまう可能性が高いのです。人間だって、みんな同じにはできていないのに、一斉に同じことをさせようというのが、そもそも理にかなっていないのかもしれません。一人ひとり違う、その違いを認めあうことが大切なのだと思います。

    ほころびはじめ

。 3時間足らずで咲き始めました

つくる・なおす・整備する

2012/04/12

男性保育士のひとりが木工が得意で、いろいろなものを作ったり、修理してくれています。昨年度は壊れてしまった本棚を修理したい。物品が効率よく片付くように棚を使いやすく改良したい。子どもの靴箱のまえのスノコを作り直したい。など、いろいろと作ったり修理をしたいと思ってくれていたところがたくさんあったようですが、なかなか時間がなくて実際に形になった物は少なかったようです。

今年度は彼の希望もあり、フリーになって今は専ら用務員の仕事をしてくれています。ですから、昨年度から懸案になっていたことが、半月ほどの間にずいぶん形になりました。本人も、「最初から張り切りすぎて大丈夫かな。」と言っているくらいです。私も、直したり、作ったりしたいけど、時間がなくてできず、気になっていたことが形になってゆくので、うれしいです。

先日、畑の裏山の木が倒れて、危ない状態になっているのを見つけてくれました。今日はそれをお寺の職員さんにも手伝ってもらい、チェーンソーで切って危なくないようにしました。そして、「砂場の砂が減ってきていたので、補充したい。」「園庭で拾った石を集めていた場所がいっぱいになったので、石を別の場所に移動したい。」と思っていたのを相談すると、今日は午後からなら空いているとのことだったので、急遽一連の作業を進めることにしました。私は事務仕事がたくさんたまっているのですが、今日はお天気も良く、外での作業が気持ちよさそうだったので、一緒に作業をしました。

用務員さんは、作りたい物があったようで、お寺にトラックを借りにいったときに、材木置き場から材料をもらって園に運んでいました。園から少し離れた運動場に置いてあった予備の砂をトラックに積み込み、砂場に入れてから、園庭から出てきた石や砂利を積んで、運ぶという作業を行いました。青空の下で、軽く汗ばみながら作業するのは気持ちが良いものです。考えてみれば、こんなことをするのは久しぶりです。秋に保護者の皆さんと砂場を作って以来です。夕食の後、なぜか疲れたと思ったら、久しぶりに身体を動かしたせいかもしれません。3年ほど前に古い砂場を、解体して埋め戻したり、古い遊具を撤去したときはへとへとになりました。今日の作業はほんの軽い作業だったのですが、疲れました。体力が落ちていることを実感させられました。

この先少なくとも1年間はいろいろなことを企んでいるので、保護者の皆様、どうか楽しみにしていてください。お手伝いをお願いすることもありますので、その節には、積極的なご参加よろしくおねがいします。一緒に楽しみましょう。

あたたかさ

2012/04/11

先週と比べるとずいぶん暖かくなりました。それでも鞍馬の桜はまだ咲きません。先日、岡崎にある 京都市勧業館みやこめっせ という会場で保育課の民営保育所運営説明会がありました。

この岡崎周辺は平安時代から白河とよばれていて、藤原氏が別荘を造営したり、天皇や中宮の発願により、法勝寺をはじめとする六勝寺が建立されるなど、壮麗を極めたようです。しかし、時代が下り、度重なる戦乱や火災によって廃寺となったようで、伽藍はその姿をとどめてはいません。
明治になって、上水や水運を目的とした琵琶湖疎水が引かれて、日本初の水力発電所も建設され、京都の近代化の基礎となりました。
また、明治28年には産業の発展を目的に第4回内国勧業博覧会が行われ、たくさんのパビリオンが設けられました。この博覧会と同時に、平安遷都1100年紀年祭が行われ、その紀年祭場として平安神宮が創建され、紀年祭の余興として行われていた時代行列が時代祭となって現在も続けられています。その後、動物園や京都府立図書館、勧業館が建設され、昭和になってからは美術館や京都会館、京都国立近代美術館など様々な文化施設が作られ、文化交流ゾーンとなっています。
説明会の会場となったみやこめっせは平成8年に第2勧業館が建て替えられたものです。

この地区を南側と東側を流れる疎水の両岸には桜並木があり、満開になっていました。説明会の後、桜を少し見てみようと疎水に架かった橋に行ってみると、ちょうど、岡崎さくら回廊十石舟めぐりの舟が疎水の水面を動いてゆくのが見えました。そんなに長い間そこにいたわけではありませんが、やさしい暖かさと美しい桜に心が和みました。このステキさを味わおうとこの一帯はたくさんの観光客であふれていました。観光の方が多いところへ行くと必ず、中国語か韓国語を耳にします。日本にいらっしゃる中国や韓国の方が増えているのでしょうね。

帰り道に車の温度計を見ると23度を表示していました。暖かいはずです。30分ほどで鞍馬について車を降りるとひんやり。温度計は15度でした。この気温差では桜の咲くのも遅いはずです。しかしここのところ暖かいので、この辺りもそろそろ桜が咲き始めると思います。

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