2011年 8月

おみぬぐい

2011/08/21

園の入口に童形六体地蔵尊(どうぎょうろくたいじぞうそん)というお地蔵様がいらっしゃいます。子どもたちは毎朝登園時におはようございますと手を合わせ、帰るときにはさようならと頭を下げています。いつも子どもたちを守ってくださっているお地蔵様です。毎年8月23日の地蔵盆のお参りを前にして、子どもたちがお地蔵様のおみぬぐいをしており、今年も年長の子どもたちが汗を流しました。

童形六体地蔵尊は鞍馬寺開創1200年記念事業の一環として昭和61丙寅年の本尊ご開帳の年に刻まれ寄進されたものです。大きな石に子どもの姿をした六体のお地蔵様が刻まれています。

 童形六体地蔵尊

おみぬぐいは、このお地蔵様のおすがたを清めます。屋外の石像なのでたわしを使いますが、衣紋や顔などの細かな部分は歯ブラシなども使います。その歯ブラシでお地蔵様の口をゴシゴシしている女の子がいました。歯磨きをしているつもりなの?と思いながら見ていると、その子と目が合ってニッコリ!きっとそうだったのでしょう。

濡れた石の上に登って洗うので、私などは滑って転ばないかということが気になって、ついつい「滑るから気をつけてね!」と言いそうになってしまうのですが、保育士はさすがです。そんなことは事前に説明していて、子どもたちが洗い始めると「滑るよ」「危ないよ」などと言うこともなく子どもたちの様子を見ていました。本当に危ないときや必要なときには、しっかり守ろうとしていたのでしょう。子どもを丸ごと信じていないとできないことです。

子どもたちはといえば、水がかかっただの、もっとまじめにやれ、だのもめたりすることもありますが、「私はこのお地蔵さんを洗うから、あなたはとなりを洗ってね。」「顔はきれいになったから今度は足を洗おうか。」「ホースを持ってる人、水かけて。」などと力を合わせながら一時間ほど頑張っていました。おかげでお地蔵様は美しくなり、子どもたちも満足げでした。

夕方、園を出るときにお地蔵様を拝んでみるとお地蔵様の美しさに少しムラがあります。そりゃ子どもたちだけではできない部分があって当然です。たまたま一人の保育士が帰るところだったので、私が「大人がもう一度仕上げをした方がいいね。」というと、その保育士は「子どもたちが洗っているあいだに、大人が少し手伝うことができると一番良いんですよね。」といいます。大人が一緒にやれば、子どもには難しいところをさりげなくフォローできて、より美しくなるので子どもたちの達成感も倍増するというのです。なるほど、より美しくなっていれば達成感も違います。子どもたちの気持ちをちゃんと考えてくれていることにうれしくなりました。

みんなで一緒に力を合わせて

きれいになーれ!

いのちのめぐり

2011/08/20

園の近くを歩いていると、地面でなにやら虫が動いていました。何の虫だろうと思って近づいてみると、アブのようですが頭が二つあるように見えます。頭が二つあるアブ?まさか?と思って、さらに近づきよーく見てみるとなんと細長いアブのような虫が、別の大きなアブを抱きかかえるようにして捕まえていたのでした。もっと近づくと、少し警戒したのか近くの石垣に飛び移りました。

これはおもしろいと思い携帯電話のカメラで撮影を試みますが、ピントが合わなかったり画角が悪かったりでうまく撮ることができません。かなり近づいてようやく何枚か撮影できたのでしばらく見ていましたが、あまり動く様子もなくじっとしています。どうやら獲物が重すぎて素早く飛ぶことができないようです。

捕まえている方のアブが細長い口を獲物の首筋(というのでしょうか?)に突き立てています。捕まっている方は時々痙攣するように動くだけです。しばらく見ていましたが、あまり変化がないのでその場を離れました。

後で調べてみると捕まえていたのは、どうやらサキグロムシヒキというアブの仲間のようですし、捕まっていたのはヤマトアブというアブです。調べたところによるとこのサキグロムシヒキは、どう猛なスズメバチや自分よりずっと身体の大きな他の虫を捕まえるそうです。

厳しいようですが、自然はみんなそうです。植物が芽を出し成長し、花をつけ実を結ぶ。それを食べる虫がいて、その虫を食べる鳥などの動物がいて、さらにそれを食べる動物がいて・・・学校で習った食物連鎖です。そして枯れた植物や動物の死骸はキノコなどの菌類のはたらきによって土に還ってゆきます。森のお掃除担当だそうです。そして、豊かな土からまた新しいいのちが芽生える。「いのちのめぐり」です。この「いのちのめぐり」がちゃんと行われているところが豊かな自然のあるところだという話しを聞いたのを思い出します。

みんなそれぞれに自分の役割を果たしているからこそ、全体がうまくめぐるのですね。

そんなことを考えていた次の日、園のデスクの上にサキグロムシヒキがいました。こんどはどんな獲物を狙っているのでしょう。

つかまえた!もうはなさないぞ!

バレーボール

2011/08/19

先日、高校生のバレーボールの試合を観戦しました。全国私立高等学校男女バレーボール選手権大会(通称さくらVOLLEY)が、8月13日から16日にかけて町田市立総合体育館のほか13会場で開催されたのです。男女各80校が出場する大きな大会で、4月に開催されるはずだったのですが、震災の影響で開催が8月に延期されのです。京都から出場している男子チーム4校のうちの1校の応援に行きました。

感心したのは、応援していた高校の保護者の熱心さです。京都から大勢の人が何泊もして、とても暑い体育館の中で熱心に応援されていました。

さて、試合ですが、1セット目は順調に得点を重ねて楽勝です。しかし2セット目は接戦でした。ピンチや大切なときにちいさなミスが出て相手に得点を許したり、ここというときに得点できなかったりしていました。なんとか2セット目も競り勝ってその試合は勝ちました。私はバレーボールのことはよくわからないのですが、技術的なものは当然としてもその上にチームワークと精神的な部分が大切なのだろうな。と試合を見ていて感じました。

たまたま購入した大会パンフレットに大会委員長の中村四郎さんという方が書いていらっしゃった記事の中に師弟関係と立場の相違ということがありました。

昔の職人は弟子に技術を教えなかったので、教えてもらえない弟子たちは「見て学ぶ」「技術を盗む」「自分で考える」ということをした。しかし今は先生が教え、生徒が教えられるという「教える立場」と「教えられる立場」がはっきりした師弟関係になってしまった。といった内容です。ここで強調されていたのは、教える方が偉くて教えられる方は何事においても下というのはちがう。という立場の違いが人間の違いではないことでした。私が感じたのは、昔の職人さんの教え方、学び方です。あえて教えないことで学ぶ方の「何とかして技術を身につけたい」という意欲を喚起し、見て、盗んで、考えるという、学び手の積極的な態度を引き出すことをしていたのでしょう。もちろん言葉で丁寧に伝えることも大切ですが、一から百まで説明してしまったら学ぶ側は全て受け身になってしまい積極的な態度は身につかないのかもしれません。子どもたちに学ぶ機会を提供する私たち保育者も気をつけないといけないことだと思います。

また、チーム内の選手でも、上手な選手、中くらいの選手、余り上手でない選手、3年生から1年生までいる方が良いということを、上手な3年生ばかりのチームが予選落ちしたことを例に説明されています。上手な同学年ばかりだと、みんながエースになり、キャプテンになって「俺が俺が」のやる気十分が却って混乱を招き、やる気が焦りに変わり、罵り合いになって我慢する人がいない最も弱いチームに変身してしまったというのです。

まさにチームワーク、役割分担だと思いました。一つのチームの中にはいろいろな人がいた方が良いのでしょう。多様性です。そしてそれぞれの違いを互いに認め合い、かばい合い、助け合ってそれぞれの立場でそれぞれの責任を果たすことなのです。それはバレーボールだけではなく、人が集まって一つの目標に向かって進む組織には必ず必要なことです。

白熱する試合 暑いなかみんな頑張っています

応援にも熱が入ります

消火訓練

2011/08/18

園では毎月、園児と職員が避難訓練を行っています。火災や地震の発生を想定して園児を避難誘導する、火災の場合は消防署へ通報する、初期消火に当たる、などです。子どもたちは、何故そうするのかということをきちんと説明するとよく理解していて、スムーズに行動できます。

8月17日、左京消防署鞍馬出張所の皆様にご指導いただいて、鞍馬寺の自衛消防隊と合同で消火訓練を行いました。子どもたち対象というよりも、職員が消火器や屋外消火栓の使い方を訓練することが中心でした。

消火器を使ってみました

訓練用の消火器を使い、想定した火元に向けて消火液(訓練用は水)を噴出させる訓練です。消火器を火元近くに運び、安全ピンを外し、ホースを火元に向けて、水をかける。言葉にすると簡単そうですし、実際に簡単なことなのですが、慌てたり緊張したりすると、まさかという失敗をしてしまうものです。だからこそ定期的に訓練を行い、いざというときに対処できるようにしておくことが必要なのでしょう。

例えば火元付近に到着する前に安全ピンを抜いてしまうと移動中に誤って消火液を出してしまい、いざ火元についたときには消火液がなくなっているということがあるようです。職員は消火器の使用方法はよくわかっていますが、子どもたちに教えるという形で自分自身も復習をしました。子どもたちは一度聞くとよく理解していて、先生と一緒に火元に向かってうまく水をかけていました。

もう一つは、屋外消火栓の使い方です。保育園の近くに屋外消火栓があるので、いざというときに使えるようにと訓練をしました。こちらは消火器と違って一人では操作できないので、筒先を持つ人、それを支える人、水を出す人の3人1組になった連携が必要です。ホースを伸ばす、筒先や消火栓とホースを接続する、放水するということをしなくてはなりません。こちらはあまり経験がないので、少し戸惑いながらもみんなうまく放水していました。実際に放水するとかなりの水圧のため、しっかりと筒先を持っているのが大変なこと、支える人との交代も含めた連係が大切なことが経験できたのではないでしょうか。

こういった訓練は、意識の上でもついつい二の次になりがちで、どちらかといえば面倒なのでやりたくない。あまり積極的ではない。といったことが多いようですが、職員のみんなは真剣に取り組んみ、なかには楽しそうに訓練している人もいて「子どものいのちの輝きのために、子どもの命を守る」という姿勢が伝わってきました。その気持ちが伝わったのでしょう、かなり長い時間でしたが子どもたちも真剣に訓練の様子に見入っていました。

消火栓の放水を見る園児

消火栓の放水 結構力がいります

戦い・争い

2011/08/17

終戦記念日に戦争について考えてみました。

以前、NHKの番組で、あるアメリカ人ジャーナリストが、沖縄戦を経験した自分の父親が戦争中沖縄で多くの日本人を殺したと告白し、沖縄から持ち帰った日本人の遺品を遺族に返してほしいと言い残して他界したことをきっかけに、沖縄戦の証言を集めるという活動を紹介していました。父親と同じ部隊に所属していた人を全米中探して話を聞き、遺品を遺族に返そうと沖縄に渡って日本人からも沖縄戦の話を聞くという内容でした。第一戦で戦ったアメリカの兵士も多くの人が命を落とし、たとえ生き残っても深く傷つき生涯大きな苦しみを背負っていたのです。

自分自身や家族、友人が傷つけられ、いのちを奪われることは大変な苦しみでしょう。それと同じように、傷つけ、いのちを奪わざるを得なかった人も大変な苦しみを一生背負って生きてゆかなくてはならないのです。勝っても負けてもみんな傷つき苦しむのです。それなのにどうして戦争はなくならないのでしょうか。だれも喜ぶ人はいないはずなのにどうしてこんなことが繰り返されるのでしょうか。

人間の歴史は戦争の歴史かもしれません。争うことは人間の悲しい性なのでしょうか・・・

戦争で傷つくのは人間だけではありません。戦争は最大の環境破壊といわれるように、人間の身勝手な行為のために、多くの他の生き物も犠牲になります。

そんな戦争をしなくてもすむように、私たちには何ができるのでしょう。

私たちの中にある、恨みや憎しみ、地獄、餓鬼、畜生、修羅の心が争いを生むのかもしれません。

自分の心のなかから恨みや憎しみの心がなくならないとしても、それが燃え上がらないように、その心に支配されないように自分自身を律すること。

他の人を否定したり排除しようとするのではなく、お互いに信じ合い理解しようと努力し、目標に向けて力を合わせて一緒に取り組む、そのことに喜びを感じられるようになること。

そんなに単純ではないかもしれませんが、大切なことではないでしょうか。

子どもたちも同様です。お互いに認め合い、信じ合い、冷静に意見を交わし、力を合わせる。そのことが楽しく、うれしいと感じられる。問題を暴力で解決するのではなく、協力して解決するのが当然で楽しい。そんな経験をたくさんして、それが当たり前という環境で育つことです。

そして大切なのは、それを大人がやらせるのではなく、子どもが自らそうしたくなるような環境を整えておくことと、子どもにそうさせたいなら、まず大人自身が努力し、実践すること。自分の心に負けないように。

終戦記念日

2011/08/16

8月15日は終戦記念日です。1945年8月15日、日本が連合国軍に無条件降伏して太平洋戦争が終戦をむかえた。と習ったのを思い出します。今から66年も前のことです。

戦争を経験した世代が少なくなってきているので、体験を風化させないようにと戦争体験を語り継ぐ努力がなされていることをテレビが伝えていました。戦争の悲惨さを語り継ぎ、二度と戦争を起こさないようにとの願いからでしょう。

しかし、今でも世界各地で様々な戦争が起こっています。どうすれば人々が争わなくてすむようになるのでしょうか。

鞍馬寺では正午に鐘をついて、犠牲者の追悼と平和への祈りを捧げました。鐘の音が世界中に広がり、人々の恨みや憎しみ、争いの心が修まり、安らかな心が甦りますように。と祈りながら・・・

 

平和への祈り

鐘楼に登り梵鐘を撞く

戦いの終わりを告げる梵鐘の音

争いの心の扉を閉ざす関鑰の音

人々の心に「尊天の光」甦ることを願いつつ

今年も祈りをこめて梵鐘を撞く

 

目を閉じて すべてのみ魂の平安を祈る

戦いの山野に散った数知れぬ生命

戦いの海に没した数知れぬ生命

虚空に消えた数知れぬ生命

 

すべての み魂安かれと

すべての み魂に届けよと

心をこめて撞く梵鐘の音

 

冀くば この祈りの梵音

天に満ち 九地に届き

人々の心の奥ふかく 目ざめへの聖音となりて響きわたらんことを

 

人間の悲しき性を

おのがじし ふり返り

心あらたに 目ざめの光に向かって

共に手をつなぎ進みゆかん

慈愛と光明と活力とにあらわれ給う尊天

その み心に近づくことに精進せん

 

み魂安らぐ真の祈りとは

ひとり一人が自らの心を清め

あること難き生命を互いに尊び合い

大光明を見つめて生きる人となることにあり

一点の梵鐘の響き 大宇宙に響きわたり

あたらしき力と栄えある光満ちわたらんことを

旅行

2011/08/15

旅行ということばを聞くと、どことなく、うきうき、そわそわしてしまうのは私だけでしょうか。東京などで開催される研修に参加するときにうれしい気分になるのは、きっと研修の内容がすばらしく、研修のすべてがなるほどと納得できたり、あっ!そうか!と気づかせていただけるものばかりだからだと思います。

プライベートの旅行はまた違う楽しみがあります。先日、家族と横浜に行きました。私自身にとっては横浜は、中学、高校時代を過ごしたとても懐かしい町です。また、親戚が横浜にいるので久しぶりに訪ねてみました。高校生のころにとてもお世話になった方々で、今回も横浜に行くことを伝えるととても喜んでくださり、ご家族の方々全員が忙しい時間を調整して私たちを夕食に招待してくださいました。久しぶりに会って話すととても楽しく、あっという間に時間が過ぎてしまいます。人のつながりのあたたかさ、ありがたさを感じることができました。本当にありがたいことです。

横浜の観光は、みなとみらい地区から山下公園までゆっくりと歩いてみました。まず訪れたのが、ランドマークタワーです。69階のスカイガーデンは高さが273メートルと、現在日本で一番高い展望台です。私たちが訪れた日は少しガスがかかっていて富士山は見えませんでしたが、条件の良い日には伊豆大島まで見えるそうです。それにしても、眼下に果てしなく広がる空間を埋め尽くすのはビルばかりです。目線を下に移すと、273メートルの高さを実感させられ、こんなに高いところにいて良いのかという気になります。これだけの建物を支える基礎はどうなっているのか、地震や風による揺れなどにはどう対応しているのか。私にはそんなことが気になりました。このスカイガーデンに行くためのエレベーターにも感心させられます。最高速度は分速750メートル(時速45キロ)で運転されています。273メートルの高さに到達するのに40秒ほどしかかかりませんし、違和感もほとんど感じられません。どうやって制御しているのでしょうか。

科学技術の発展には目を見張るものがあり、驚きますし、それらに支えられて今の私たちの生活があるのも事実です。しかし、科学技術の発展と経済成長、それだけが価値のあるものなのでしょうか。一方向に振れた振り子が必ず振り戻すように、同じことが同じように永遠に続くとは考えられません。本当に大切なのは何か。ほんとうの幸せとは何か。今までの価値観をもう一度見つめ直してみる必要があるのではないでしょうか。 地上273メートルの展望台から果てしなく広がるビルの林を見ながらそんなことを考えてしまいました。

2011/08/14

毎年、夏になるといろいろな虫が巣を作ります。クモは美しい模様の巣を掛けていますし、いろいろなハチも巣を作ります。クモの巣は園舎の周りに毎日のように掛かっていて、とってもまたすぐに掛けています。木の枝から枝に美しい模様を描いている種類もいますし、クサグモが植え込みなどに綿のような巣を作ったりもしています。

ハチはスズメバチやアシナガバチ、ジガバチなどが巣を作っているのをよく見かけます。特に今年はハチの巣がとっても多いように思います。7月頃から建物の軒下にキイロスズメバチが巣を作り始めました。それも同じ軒の少し離れた場所に3つも作ったのです。スズメバチは巣を作るのがとても早く、作り始めたなと思っていたら、あっという間に大きくなり、ボールがぶら下がっているような形になります。朽ち木の樹皮などをかみ砕き、唾液と混ぜて団子のようにして持ち帰ってそれで巣を作るそうですが、よくあれだけ早く正確に作れるものだなと思います。設計図があるわけではないのに、すべてのハチがどのような形に作るのかを理解しているのでしょうか。ハチたちがみんなで力を合わせて見事なチームワークです。

アシナガバチの巣もたくさんみつかりました。木の枝や葉の裏などにつくります。スズメバチは巣の外側に覆いを作るので、ボール状になりますが、アシナガバチの巣は六角形の構造が見えます。髙い木の枝に作るものは細長いものが多く、巣によっては20センチ以上のものもあります。

ジガバチは子どもたちが水遊びをした後、園庭の濡れた土の上で盛んに何かしています。園庭に巣を作ろうとしているのでしょうか。それとも巣作りのための土を集めているのでしょうか。

真偽のほどは定かではありませんが、「カマキリが高いところに卵を産むとその冬は雪が多い」などといわれるように、動物は気候の変化などを感じて巣を作る場所を決めたりするといわれています。今年はハチの巣がとても多いのが不思議です。

如法写経会 3

2011/08/13

前にも書いたように如法写経会で書写しているのは法華経、無量義経、観普賢菩薩行法経で、中心となるのは法華経です。

法華経には法華経を書写することの功徳を説いている箇所がたくさんありますが、その中の法師品には次のように書かれています。「法華経、もしくはその一句を受け、たもち、読み、誦し、人に説き、書き写し、経巻に華や香、瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・憧旛・衣服・伎楽を供養し、合掌し恭敬する人は如来であり、如来に対するのと同じように尊敬され、如来にするのと同じように供養される。」

つまり、その人はそのまま如来なのです。如来とは仏様のことなので、法華経を受持、読誦、解説、書写し供養する人は、そのまま仏様だというのです。ちなみに十種供養の十種は、この華、香、瓔珞・抹香・塗香・焼香・繒蓋・憧旛・衣服・伎楽によります。この中の繒蓋・憧旛をあわせて旛蓋とし、それに合掌を加えて十種としています。法華経を読んだり書いたりするだけで、仏様?煩悩にまみれ迷ってばかりいるのに仏様なの?と思いますが、私たちの心は様々に変化します。地獄のような恐ろしい心になったり、慈悲深い菩薩様の心になったり、仏様の心になったり。もともと仏様の心を持っているのです。いろいろな刺激をうけて他の心になってしまうこともありますが、もともと仏様の心を持っているのです。ですからもともと仏様なのです。そのことを信じて、他の心になってしまわないよう自分の心を観て自律することが必要なのでしょう。

同じように他の人も仏様の心を持っている仏様なのです。その人の仏様の心を見て信じることができれば、どんなに幸せでしょう。すぐに煩悩に振り回されて、ああすればいいのに!なんでこうしないんだろう?あいつはどうしようもないやつだ。と思ってしまいがちですが、ちゃんとその人の仏様を見ることができれば、ありのままがすばらしいのではないでしょうか。

子どもだって、同じです。ついつい、ああしなさい!こうしなさい!あれはだめ!これはだめ!と気になる(大人が勝手に気にしている)ところだけを見がちですが、その子を信じてよくよく見れば、その子のありのままがすばらしいことに気づけると思います。そしてどうしても必要なときだけ守ってあげれば良いのです。

自分自身、いつもそんな心でいられたら!と思いますが、悲しいかな、なかなかそうはいきません。しかし、いつもその方向を見つめ、目指して努力ゆきたいと思います。

如法写経会 2

2011/08/12

現在鞍馬寺で如法写経会が行われているのは8月最初の3日間だけですが、内容を簡単にご紹介しましょう。

毎朝、6時に法華懺法のお勤めをします。1日目の午前中は写経に使用する水を本殿まで取水に行き、道場に戻って立筆作法という書写を始めるための法会を修してから書写し始めます。昼食休憩を挟んで、午後も書写を続け、夕方には例時作法というお勤めをします。

2日目は朝の法華懺法と夕の例時作法は同様に修し、他の時間はひたすら書写を続けます。2日目の夕方までに妙法蓮華経と無量義経、観普賢菩薩行法経を写し終えて、3巻の巻物に調巻します。一般の信徒も3日間にわたり参加されるのですが、参加人数が少ないとすべてを書き上げるのが大変になってきます。

3日目、朝の法華懺法の次には調巻された経巻を経筒に封入して寳輿に納め、開眼してから十種の供養やその他のお供え物を捧げます。この十種の供養をお供えした後、埋納するかわりに寳輿ごと本殿に運んでお祀りします。

毎年、3日目の十種供養の法会に鞍馬山保育園の園児がお参りしています。今年は年長児(ゆりぐみ)の子どもたちがお参りをし、お供え物を運んで捧げました。1時間余りの法要ですが、みんなちゃんと正座して静かに参列していましたし、供物を捧げるときに、取り次いでくださる僧侶に自分の捧げるお供え物を渡したあとも、心を込めて合掌一礼していました。普段から園でお参りをしていることもあると思いますが、子どもたちは法要の凛とした空気を敏感に感じているのだと思います。でも緊張しすぎることなく、法要の途中、僧侶の唱える声明や雅楽の調べにあわせて、小さな声で同じように唱えたりして、それなりに楽しんでいたようです。法要の後は道場内のキラキラ光る法具を、それに負けないくらいに目を輝かせてながめたり、六牙の白象に乗ったお姿の普賢菩薩像を興味深げに拝んだり、散華を集めて参拝者に配ったりしていました。

翌日、園であった男の子に、「昨日は長い時間お参りしてくれてありがとう。」というと「ちょっと足が痛かったけど、楽しかったで。」とニコニコして答えてくれました。まさか「楽しかった」ということばが聞けるとは思っておらず、ちょっと意外でしたが、子どもたちなりに何かを感じていたんだな。それぞれの心に残ることがあったのだなと思うと、うれしくなってきました。

十種供養の法要に参列する園児たち

心を込めてお供えを捧げます

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