2016年 1月

変化と発達

2016/01/12

大人がなかなか見つけられなかった違いをあっという間に見つけてしまった子どもの目には驚きました。前にも書いたかもしれませんが、赤ちゃんはサルの顔の違いを見分けられるのだそうです。普通に人として生活してゆくために、サルのかを見分ける能力は必要ないので、大きくなるにつれてその力はそぎ落とされてゆくのだそうです。子どもたちには、ディーテールに注目して「見る」能力が大人より優れているのかもしれません。発達は変化することだといわれます。その時々で必要のなくなったものをそぎ落とす。その代わりに違うものを獲得してゆく。それは生きている限り続くのでしょう。
お年を召した方が、体が思うように動かなくなったとか、耳が遠くなったとか、体の衰えを悲観するような口調で仰ることがあります。年を重ねれば身体機能が衰えてくるのは当然です。しかし、気がついていないだけで、年を重ねることによって、考え方が深まったり寛容になったりと、変化していることもあるのではないでしょうか。
いくつになっても、発達しているのです。多くの方のお役に立てるよう、発達したいものです。

見る目

2016/01/11

誤りがあったので、差し替えて欲しいと送られてきた書類、どこがどう違うのだろうと、保育士の先生と2人がかりで違いを探しましたが、なかなか見つけることができません。カードゲームをしていた女の子が、「どうしたん?」と尋ねるので、2通の文書を見せて、「同じように見えるこのお手紙にどこかちがうところがあって、それを探してるんだよ。」というと、その子は「ふーん」といいながら、一緒に2通の文書を見ていました。1分も経たないうちに、「あー!ここやん!」といって、その子が指さすところを見てみると、確かに違うのです。「申込締切は1月8日金曜日」とあるべきところが、訂正前の文書では「申込締切は1月8日火曜日」となっていたのでした。
先生も、私も驚きました。大人が2人かかっても見つけられなかった訂正箇所を、あっという間に見つけてしまったのです。偶然なのかもしれませんが、子どもってすごいなー!と素直に感心しました。子どもって変化に敏感で、よく気がつきます。髪の毛を切ったとか、いつもと違う感じの洋服を着ているとか、そういうことに敏感です。きっと子どもにはその変化が見えるのだと思います。

まちがいさがし

2016/01/10

先日、郵便で届いた書類を開封してみると、「前に送った書類に誤りがあったので、差し替えてほしい。」というメッセージとともに一通の文書が入っていました。前に届いた書類のどこが違っていたのだろうかと思って、差し替える前に先に送られてきた書類を取り出して見比べてみました。いくら見比べてもどこが違うのかわかりません。まるで、まちがいさがしのようです。あまりにもわからないので、他の人に聞いてみることにしました。職員はみんな忙しそうにしていたのですが、子どもたちがカードゲームをしてるのを隣で見ている先生に尋ねてみることにしました。しかし、保育士の先生は時々子どもたちと一緒に遊びながらも、つかず離れずの絶妙な距離感を保っていたので、申し訳ないなと思い、しばらく待っていました。そしたら、先生の方から、何か用でしたか?と聞いてくれたので、この2つの書類はどこかが違うはずなので、どこがちがうのかみつけてほしいと頼みました。先生は快く引き受けてくれて、しばらく2通の書類を見比べていましたが、先生にもわからないようでした。2人がかりで見比べてもなぜか見つかりませんでした。「あれ?みつからない!」と思うと余計に注意力が散漫になるのか、じっくりと見なくなるのか、見つかりにくくなるのでしょうか・・・

伝わる

2016/01/09

新年最初に全園児と職員で行ったお参り、子どもたちが背筋をぴんと伸ばして座り、心を落ち着けてお参りに臨んでくれました。久しぶりに会った子どもたちの姿が、とてもすばらしく、年を越してみんなぐっと成長したのかと思うほどでした。

0・1・2歳児たちも心静かにお参りできました。毎月1回行っている0・1・2歳児のみんなとのおまいりでも、ちゃんと座って静かにお参りしてくれているのですが、この日はいつもとは違う感じでした。それはきっと、3・4・5歳児たちが心静かに一所懸命にお参りをしている姿を見ていたからだと思います。お兄ちゃんの姉ちゃんの姿を見てそれを真似たとも言えますし、年上の子どもたちが作り出す雰囲気を敏感に感じ取っていたとも言えるでしょう。そういう意味でも、異年齢の子どもたちがともに過ごすことで、子どもたちの間で、様々な文化が伝承されてゆくのだと思います。お参りの時は心を落ち着けて静かにお参りするのだ、という暗黙知が伝承されてゆくのだと思います。小さな子どもたちは、大きい子どもたちの姿を見て学びますし、大きい子どもたちは、小さな子どもたちに見られてるから、お手本にならなくては!という意識が働くのでえしょう。異年齢で過ごすというと、年上の子がお世話をするといった面だけが取り上げられがちですが、年上の子、年下の子双方にとってメリットがあるのですね。
もちろん最初だけではなく、お経を唱えることができる子は、声を合わせて般若心経を一心に唱えていました。

始まりの日

2016/01/08

お正月明けの始園日、久しぶりに子どもたちに合いました。一週間ほど会ってないだけなのに、みんな大きくなったように感じたのは、私だけでしょうか。

3・4・5歳児のみんなは、いつもより早い時間から、朝の会を行って、お互いに「あけましておめでとうございます。」と挨拶を交わしていました。そして、お正月は何をして過ごしたのか、発表したい子はみんなの前で発表し、おじいちゃん、おばあちゃんの所に遊びに行ったり、初詣に行ったりしたことを楽しそうに話していました。なかには家でゆっくりしていた。という子もいて、ちょっと笑ってしまいました。

3・4・5歳児の朝の会が終わる頃、0・1・2歳児が部屋に入ってきました。新年初めてのお参りは全員で行う事にしたようでした。いつも3・4・5歳児たちとしているように、最初に少し背筋を伸ばすように身体を動かしてから姿勢を整え、正座をして腰をしっかりと立てるようにして肩の力を抜きます。それから軽く目を閉じて何度か深呼吸をすると、子どもたちの心がスーッと落ち着いてきます。その日によってざわついていることもありますし、とても落ち着くこともありますが、この日は久しぶりだったこともあるのか、しーんとするくらい静かでした。0・1・2歳児たちもいるとは思えないくらいです。参加できる職員も集まり、みんなで心静かに新しい年の始まりを迎えることができて、とてもうれしく思いました。

「場」

2016/01/07

多種多様な生き物がお互いに関わり合い生きているところ、それはお互いに自分のいのちを全うし、そのことで他のいのちの役に立っている。食物連鎖であったり、互恵関係であったり、思いもよらないところに思いもよらない関係性、つながりがあるのだと思います。そういう関係性が「場」を作ります。その「場」が大切なのではないでしょうか。自然の世界の「場」は、人間の知覚や理解を超えたところにまでひろがっているので、知ること理解する事をこえた感じる世界なのかもしれません。様々ないのちの関わりから生まれる「場」を感じる感覚を大切にしたいと思います。そして、小さないのちに目を向け心を傾けることで知ること、気づくこと、学ぶことはたくさんあると思います。また、その知識や理解が、「場」を感じる手助けになるのだと思います。
うっすらと白くなった庭の木々のところどころに、生まれたばかりの陽の光があたり、美しい色合いを生み出したり、雪の結晶や水滴をキラキラと輝かせたりしています。なにも知らなくても、考えなくても、この小さな世界の美しさに気づくだけでも、心癒やされ、動かされる気がします。

20160107_場

多様な関わり

2016/01/06

もちろん、山や海に行ったり作物を育てなくても、身近なところで自然の営みは繰り広げられています。ただ、そこに気がつくかつかないか、目を向けるか向けないかで、ずいぶん違ってくるのだと思います。都会の道端で、アスファルトの割れ目に生えた一本の草がけなげに生きて行くことができるのは、人間が気付く事が少ない様々なつながりの中にいるからなのだと思います。ただの一本の草も、地面から水をもらって、太陽の光を浴びて生きています。アスファルトの下の土の中には様々な生物がいるはずですし、時には虫が飛んできて受粉を手伝ってくれるかもしれません。他にも人間にはわからない様々なつながりもあるかもしれません。1本の草も、そうやって様々な関わりの中で生きているのです。お互いに関わり合って生きてゆくのに都合の良い環境には、多様な要素があることが必要です。様々な条件があり、多種多様な動植物が生存している場所の方が、より多くの関係性が生まれます。いろいろないのちが生きてゆくための環境が整いやすいということです。つまり、豊かな自然の中では、様々ないのちがつながりあい、関わり合って生きてゆく事ができる。多様ないのちどうしの多様な関係性が生まれるのです。

20160106_多様な関わり

自然の営み

2016/01/05

太陽と雲が織りなす自然の美しさと、太陽のありがたさを感じながら、自然現象に目を向け心を傾けると、そこにはいろいろな教えがあり、学びがあるように思いました。もちろん自然は、美しいだけ、やさしいだけ、恩恵をもたらしてくれるだけではありません。時には災害を引き起こすなど、厳しく恐ろしいこと、命を脅かすことさえあります。そんな人間にとって不都合な面も含めて、自然現象に向き合えると良いのだと思います。

便利に快適に暮らせるようになった現代、都会では日の出や、月の満ち欠け、季節の移り変わりに、さほど敏感にならなくても暮らしてゆく事はできます。まして、草花、樹木、虫や動物の様々な営みにことさら注意を向ける必要は少なくなっています。ですから、敢えて意識的に自然と関わることをしないと、自然からどんどん遠ざかってゆきます。自らも自然の一部であるはずの人間が、どんどん自然から遠ざかってゆくと、そこには不調和が生まれるような気がします。ですから、ストレスフルな今の時代、多くの人が自然を求めて山歩きをしたり、畑で作物を育てたり、自然を求めるのではないでしょうか。

20160105_自然の営み

雲と太陽のドラマ

2016/01/04

太陽と雲がドラマ演じた末にようやく太陽がのぼりました。顔を出したばかりの太陽を見ていると、黄金の光が自分の体を貫いてゆくと同時に、大きな力を注いでくれているような気持ちになり、その時は不思議と太陽を直視しても眩しくありませんでした。光が体の中に差し込んでくるような感覚を味わっていると、顔が温かくなってきて太陽は明るさだけではなく暖かさも与えてくれていることを改めて感じました。当然と言えば当然のことなのですが、体に染みこんでくるような明るさと暖かさを感じられて、とてもうれしく、ありがたい気持ちになることができたのです。世界中に太陽に対する信仰があることが納得できる気がしました。
快晴の全く雲が無い空に昇る太陽も美しいのでしょうけれど、雲がいろんな演出をしてくれたおかげで、ひと味違った初日の出を拝むことができました。普段何気なく過ごしていて気に留めることも少なくなりがちな自然現象に改めて向き合ってみると、そこには、うつくしい姿や、計り知れぬ智慧を知ることができますし、時には感動的なドラマが繰り広げられています。

20160104_雲と太陽のドラマ

初日の出

2016/01/03

2016年の初日の出を見ようと、お寺の本殿前で待っていましたが、雲がいたずらして、太陽はなかなか姿を現してくれません。でもそのおかげで、光る雲の美しさや、光の線を見る事ができました。そうこうしている間に、帯状に広がる雲の上方に丸い雲が北からゆっくりと、動いてきました。下の雲とつながってしまったら、またまた太陽が見えなくなる。と心配になります。その丸い雲が、ゆっくり動いて、太陽の真上くらいに来たとき、帯状の雲の上端がひときわ輝きました。なんて美しいんだろう!と思っていると、やがて太陽が顔を出し始めました。とても眩しい黄金色の光が目に飛び込んできたかと思った次の瞬間、太陽の真上にあった丸い雲が、白金色に輝き出したのです。上端部に輝く光の線をたたえた帯状の雲、白金色に輝く丸い雲、その雲の間で燦然と輝く太陽、なんともいえない光景で、思わず手をあわせてしまいましたし、御来光を待っていた人たちからも、歓声が上がっていました。

20160103_初日の出

スクロール