2012年 4月

くしゃみ

2012/04/19

春! すがすがしい朝です。

「はっくしゅん」 「へーくしゅん」とくしゃみの連発の季節です。

新年度 早々、「おはようございます。・・・はっはっはくしょん。・・・・はくしょん。」

くしゃみを連発しながらの出勤です。

だだの花粉症の私を心配してくれる園児もいます。

「先生、風邪ひいたん?」とやさしく体調を心配してくれます。

ありがとう。それだけで花粉が吹っ飛んだ気持ちになりました。

心配してくれてありがとう。

信じる

2012/04/18

子どもってどんな存在でしょう。小さくて、弱くて、何も知らない、守らなくてはならない存在。確かにそうです。大人より劣っていて、何もできなくて、教え導いてあげなければならない存在。そうでしょうか。

食べ物はこぼすし、すぐにころぶし、確かに大人よりできることは少ないかもしれません。しかし、大人にはできないこともいっぱいできます。想像力や発想力では大人は足下にも及びません。ファンタジーの世界に生きていて、その世界からとんでもなくおもしろいものを引っ張り出してきたりします。決して全てが大人より劣っているわけではありません。知らないことはいっぱいありますが、何もわからないわけではありません。役割というか特徴が違うのです。

第一、子どもは小さくてもひとりの人間です。少し長く生きてきたからって、大人の方が偉いわけではありません。人として対等な存在のはずです。そんなの当たり前だろうといわれるかもしれません。当たり前なのに、子どもはできないからという理由で、教え込もうとしたり、やらせようとしたりしていないでしょうか。

なにかひとつのことができないからといって「やりなさい」とやらせると、そのときはできても、次に同じような場面に遭遇したときには、またできなくなっています。遊具を使うのに順番に並ぶ必要があるとします。ただ「並びなさい」といって並ばせても、次に同じような場面になったときには、並びません。なぜなら、大人に並ばされているからです。子どもが「順番に並ばないとみんなが困るから並ぼう」と自ら考え納得するからこそ、次にそうすることができるのです。禁止も同じです「ダメ!」と禁止するだけでは、子どもが主体的に「これは危ないからやめよう」と考えないので、又同じことをやってしまいます。

そして、大人が思っているよりも子どもたちはずっとずっといろいろなことを考えて、自分でできるのです。大人は「子どもはできないから」と思い込んでしまいがちですが、子どもを丸ごと信じきることによってこそ、子どもは自分で羽ばたくことができるのです。大人の側から考えて、大人がやらせるのではなく、まずは、子どもの側からスタートしませんか。

本殿前のさくらが満開に近づきました

春を感じて

2012/04/18

今年は、桜が遅咲きだったり、つい最近も春雷があったりしましたが、鞍馬も日に日に春めいてきて山門下に、ふきのとうが顔をのぞかせりしています。

園に来る途中、タンポポを摘んできたり、この間もてんとう虫が至るところにいて「てんとう虫、お部屋に入って来たから逃がしてあげる。」と、春見つけをしている子どもたちの姿があります。

球根から育ててきたチューリップも芽を出し少しずつ伸びてくるたびに「大きくな〜れ、大きくな〜れ…。」と、チューリップを囲んで合唱したり、両手でチューリップを作って、さいた~さいた〜と、歌って踊ったりしていました。

子どもは、大人が想像する以上に綺麗なものや美しいものが大好きで感性豊かに育っていることに気づかされます。そんな敏感な時期だからこそ、本物との出会いを大切にしてあげたいと思います。

保育って・・・

2012/04/17

子どもが自ら主体的に活動することが大切だと書きました。そういうと「なんでもかんでも子どもの好き放題にやらせておけば良いのか?」と言う声が聞こえてきそうですが、決してそうではありません。必要なことはしっかりと伝えることが大切です。そして、どんな伝え方をするかも大切です。時には厳しい言い方で伝えないといけないときもありますが、子どもがしっかりと納得できるように伝える必要があります。

子どもたちにどう育って欲しいのか・・・そこが大切なのです。それは、子どもたちが自分のことをわかること、他の誰かを認められること。コミュニケーションをとれること。お互いを認め合いながら、力を合わせて問題を解決してゆくことだと思います。

そうなるためには何が必要なのでしょうか。最も大切なのは、周りにいる大人の姿や態度です。子どもはそれを見て学ぶのです。子どもに「静かにしなさい」と言っていおいて、大人が大声で話していてはどうしようもありません。子どもたちがお互いに認め合って力を合わせて欲しいと願うなら、まずは大人自身が、誰かの批判をするのではなく、真剣に相手の話を聞くなどして自から相手を認め、心を開いて話し合い、協力し合うことが必要です。
「学ぶ」は「まねぶ」ことなのですから、子どもたちは保育園では、私たち保育者の真似をしてゆくのです。事実、子どもの口調が担任の保育士に似ることがあるのです。

保育は、子どもに何かを教えたり、何かをさせるのではなく、大人がどう生きるかなのではないでしょうか。子どもはその姿から「学ぶ」のだと思います。

なんて偉そうなことを言って、「あなたは子どもに真似されていい生き方をしているのですか?」と聞かれると、言葉に詰まってしまいます。自信がないというより、穴があったら入りたいくらいですが、それをしっかりと心にもって自律してゆく覚悟が必要なのだと思います。

おいしかったー!

2012/04/17

給食中、子ども達は「せんせー、ごはんおいしかったー!」と

にこにこしながらや、恥ずかしがりながらなど、色んな表情で伝えてくれます。

その言葉や表情は、私の心をお花畑にしてくれます。

保育する

2012/04/16

保育するとはどういうことでしょうか。子どもを育てることでしょうか。それなら、子どもは育てられる存在なのでしょうか。育つ存在なのでしょうか。もちろん育ち育てられる相互関係なのだとは思います。では、主役は誰でしょうか。それは自分に必要なことを学び自ら育ってゆく子どものはずです。

学校は子どもたちの全人格的な発達成長を促す場ですが、どちらかというと多くの知識を習得すること、先生が生徒に知識を伝えることが大きな目標となっているのではないのでしょうか。学校の教室は、黒板の前に立った先生の声が一番後ろに座る子にも届き、ある程度まとまった数のこどもたちに知識を伝えるのにちょうど良い広さと形になっていると聞いたことがあります。先生が教えなければならない内容をどう子どもたちに、どうわからせるかを計画して授業をします。そう、授業なのです。先生が生徒に授けるのです。当然、子どもたちは先生から知識を受け取ることが主になります。

では、保育園では何が大切なのでしょうか。それは遊びを中心とした生活だと思います。子どもが自ら生活の主役となること。自ら育ってゆくことです。そのために大人がするべきこと。それは、子どもたちができるだけ自ら考え、自らの意思で行動できるように環境を整えてあげることです。主役である子どもが、思う存分自分を発揮して自ら育つことをそっと支えてあげれば良いのです。

学校の真似をして知識を子どもに伝えることが最も重要だと思ったり、こどもにはいろいろなことを教え込まなくてはいけない。と言う思いが強すぎたりして、何かを「させる」こと、禁止することが多くなることがあります。しかもそれは子どもが決めるのではなく、大人の都合だけで決めてしまうのです。これでは大人主体です。

ついついやってしまうのが、「びびらしてなんぼ!」です。「洋服を片付けなかったら先生がもらっちゃうよ」そういうと、子どもは大切な洋服を取られては大変だと「びびって」片付けます。でもそれは、「片付けた方が大切な洋服がなくなることもないし、他の人の邪魔にもならないから片付けよう」と子どもが自ら考え、自分の意思で行動しているのではないのです。ですから、何度でも洋服を片付けないということを繰り返します。子どもが自ら洋服を片付けるようになって欲しいならそうなるような接し方をすれば良いだけではないでしょうか。

ついつい「これしなさい!」「それしちゃだめ!」と命令して子どもを動かそうとします。大人が命令して、動かすことが、保育だと勘違いしてしまいがちですが、そうすることで、子どものどんな部分が育つのでしょうか・・・

新しい部屋づくり

2012/04/16

 今年度から乳児クラスに畳の部屋ができました!今までの経験上、乳児クラスには畳もしくはじゅうたんの部屋があったことが多かったので、みんなで考えて置くことに決めました。ゆったり本を読んだり、ごろごろ転んで遊んだりしてほしいと思っています。

 

そして、子どもたちはもちろん、お母さんたちもちょっと腰を下ろしてくつろげるスペースになればいいな~と思っています。

 

雲珠桜

2012/04/15

暖かな日曜日になりました。桜は咲いたかなと、お寺に行ってみると、ずいぶん花が増えています。朝より夕方にはもっと増えました。お寺では花供養の中日法要が行われました。桜もちょうど咲き始め、淡い色に包まれた境内にはほのかに甘い香りが漂っているかのようです。箏曲や尺八の奉納、合気道の演武奉納などが行われ、陽春ということばがふさわしい華やいだ空気に包まれていました。

今日から10日ほどが、鞍馬の桜が美しいかもしれません。ソメイヨシノに限って言えばです。他にも様々な八重桜やしだれ桜、山桜など染井吉野の他にも多くの種対の桜があります。例年は染井吉野が咲く前に山桜が可憐な白い花を咲かせているのですが、今年はまだです。染井吉野に気を取られていたら、八重桜もつぼみが膨らみ、咲きそうになっている花がありました。これからしばらくは美しい桜が楽しめそうです。

「鞍馬」「桜」といえば、

花咲かば、告げんと言いし山里の、使いは来たり馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜、手折り栞を知るべにて、奥も迷はじ咲き続く・・・

謡曲『鞍馬天狗』の一部です。ここに出てくる雲珠桜(うずざくら)とはどんな桜なのでしょうか。これにはいろいろな説があります。

唐鞍といって正式な行列などで馬を飾るための馬具があります。その馬具の鞦(しりがい)につける、宝珠の形をした飾り金具を雲珠(うず)といいます。

①花の形が、この雲珠に似ている桜という説
②鞍馬山の桜を総称して雲珠桜という説
③様々な桜が緑の木々の中に咲く様子が、馬具の飾り金具である雲珠に似ているからという説
④馬の鞍と鞍馬が通じることから、「鞍馬山の雲珠桜」と鞍馬山という固有名詞を冠してこそその意味がある。雲珠桜とは雲珠のように咲く鞍馬山の桜という意味で特定の品種ではないとする説もある。
⑤冠にさす飾りを髻華(うず)といい、古くは髪に草木の枝をさして飾りとしたことで、鞍馬山の桜を手折り髪に挿したところから、雲珠桜(うずざくら)と呼ぶという説。

①は雲珠桜という特定の品種があるという説、②③④は鞍馬山に咲く桜を総称して雲珠桜という説、⑤は優雅です。

雲珠桜という固有品種があったとも言われているようですが、そうだったとしても、総称だとしても平安時代から鞍馬の桜は有名だったようです。

「これやこの音に聞きつる雲珠桜 鞍馬の山に咲けるなるべし」『定頼集』

唐鞍(『日本国語大辞典』小学館)

 雲珠(『日本語大辞典』小学館)

さくら 咲いたかな…

2012/04/14

日本の国花は法律で決められているわけではないそうですが、一般的に桜は菊と並んで日本の国花といえるでしょう。古来より、桜は歌に詠まれるなどしてきましたが、平安時代以降は、花といえば桜のことをさすほど、春の花の代名詞となっています。

桜の種類は、基本的にはヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ、ヤエザクラなどの種類があり、これらの交雑などにより、自生種だけでも様々な種類があるうえ、桜人気は昔からのことだったようで、平安時代から様々な園芸種の育成が行われた結果、多くの種類の桜があるようです。

昨日も書いたように、桜というと現在は染井吉野が一斉に咲いている姿が思い浮かべますが、江戸時代に染井吉野が生み出されるまでは、桜の風景も今とはずいぶん異なったものだったのではないかと思います。

ようやく咲き始めたお寺の本殿前にある桜が今日はずいぶん咲いているだろうと、期待して見に行ったのですが、開いた花がほんの少し増えただけでした。園の前の参道にも桜が植えられていますし、園庭にも大きなヤマザクラの木があるのですが、こちらはまだ花を咲かせるまでにはなっていません。

昨日降り続いた冷たい雨が昼頃には上がり、雲が多めながらも日差しはあったのですが、空気は冷たかったので、開花は進まなかったのでしょう。明日はお天気も良いそうなので、どのくらい咲いてくれるか楽しみです。

おまいり

2012/04/14

土曜日は出席人数が少ないこともあり、みんなでお参りはしません。でも園長先生はお参りをされています。

それをみつけた仲間が一人、また一人隣にちょこんと座って、手を合わせて…

そんなステキな姿を思わず写真におさめてしまいました。

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