2015年 4月

鞍馬のさくら 2

2015/04/19

4月のはじめ、鞍馬でもソメイヨシノが、美しく咲きました。市街地のさくらが散る頃に鞍馬では咲き始めます。ちょうどその頃、一旦気温が下がり花が長く楽しめることがあります。今年もしばらく気温が低いという予報が出ていたので、ソメイヨシノの美しい花がしばらく楽しめるなと楽しみにしていました。

ところが、今年はとても雨が多く、4月はほとんど雨か曇りです。気持ちよく晴れた日、青色が濃くなった空に、日の光を浴びて映えるさくらの花を目にすることはありませんでした。あまりにも雨が多く、激しく降ることもしばしばだったので、ソメイヨシノは思ったより早く散ってしまいました。とても残念です。

散った花びらが、さくらの木の下も桜色に染めて、遠くから見ると、木の上と下の両方に花が咲いているようにも見えます。また違う美しさを感じる事ができました。水たまりに浮かぶさくらの花びらも美しいものです。青空に映えるソメイヨシノにはほとんど会うことができませんでしたが、また違う美しさを感じる事ができました。

鞍馬のさくら 1

2015/04/18

4月のはじめになって、鞍馬でもようやくさくらが咲きました。それにしても、自然って不思議ですね。この美しさ、ステキですね。

2015/04/17

3月の末、園の近くの谷川のほとりにすみれとふきのとうが咲いていました。だれにも気づかれないようなところにひっそりと咲く姿はどこかけなげです。

少し離れたところにはアセビの花も咲いていました。アセビは馬酔木とも書きますが、それはアセビには毒があるため、馬が食べると酔ったようになるので、馬酔木というそうです。

鞍馬でも、ほかの植物は鹿に食べられてほとんどなくなってしまっていますが、馬酔木だけは食べられずに残っています。ですから、鹿に食べられてなくなった生け垣に、アセビを使うのが良いという考え方や、アセビだけの単一種にしてしまうのはあまり良くないのではないか。という考え方もあります。

多様性という意味では、様々な種類画あった方が良いのでしょうけれど、植えてもすぐに鹿に食べられてしまうのは、悲しい気がします。

月とさくら

2015/04/16

3月の末、鞍馬はまだまだ気温が低くて、さくらは咲いていません。用事があって、暗くなってから京都の市街地まで出かけました。町中のさくらは満開のです。どこかにさくらを見に行きたいなー!と思って、鴨川と高野川が合流するあたり、出町柳の河川沿いに行ってみました。ほぼ満開の桜並木は、ライトアップこそされてはいませんが、街灯に照らし出されて、ちょっと幻想的な姿で立っていました。きれいだなー!と思いながら、精一杯咲いているさくらの花を見上げると、空には月がかかっていました。雪はないので、雪月花とは行きませんが、なかなか風流です。写真を撮っても、うまく写らないだろうなー?と思いつつ、シャッターを切ってみました。

書のことば 2

2015/04/15

ついつい、自分が正しい!絶対こって方が良いのに!どうして自分の言うことをわかってくれないんだ!なんて考えてしまいがちです。

これって全く自分本位じゃないでしょうか?言い方を変えると、自分が何ができるかを考えず、全て相手のせいにしていないでしょうか?矢印の矢が相手に突き刺さっています。

自分が正しい!だからみんなそうした方がいいのだ。そう思っていても、自分の思うようになることなんてほとんどありません。

自分の思うことがなかなか成就しないと、何でなんだろう?どうしてだ?と不満ばかりがたまってきます。そうすると、足りないところばかりが見えてしまって、そうしたいけれどできない、欲しいけれど満たされない。と不満ばかりが膨らみます。まさに不幸です。この罠には陥りやすいので十分に気をつけていないとなりませんが、ついつい、心がそちらに引っ張られてしまいます。猛反省です。
頭でわかったつもりになっても、実践できなければわかったことにはなりません。

誰かのため!みんなのため!お役に立つことを考えていると、自分の、ああしたい!こうしたい!が少なくなる。つまり我欲が少なくなるのだと思います。そうすれば、満たされない感じも少なくなるし、誰かに喜んでもらえたら、うれしくなります。具体的な状況は変わらなとしても、自分の幸福感は全く違います。

幸福って何でしょう?どこにあるのでしょう?

書のことば 1

2015/04/14

正面玄関を入ったところに、川岸五明齊先生の作品のとても大きな花が活けられ、その後ろに、横長の額装の書が展示されていました。小筆鳳外先生の作品です。その書にはこうありました。「幸福は愛他精神から生まれる。不幸は自己本位から生まれる。」

誰かのために!みんなのために!を最優先に考えていると幸福感に満たされる。ところが、自分本位に考えていると不幸になる。

思わず、うーん!とうなってしまいました。わかっているはずなのに・・・

実践できているだろうか?

そう自分に問いかけると、自信を持って、YESとは答えられない自分がいるのに気づいてしまいました。

展示

2015/04/13

「心をみがく集い」で研鑽を積んでいらっしゃる皆さんの展示を拝見しました。華道をご指導いただいているのは、五明流 川岸 五明齊 先生、書道は墨心書芸 小筆 鳳外 先生、茶道は本庄 宗糸 先生、水墨画は謝 春林 先生です。生徒さんたちの作品もたくさんありました。みんなそれぞれにステキでした。

活け込み 3

2015/04/12

ドウダンツツジで大まかなポイントが押さえられたら、えんじ色のあざみと、黄色い小菊で色を添えてゆきます。どのくらいの長さでどのあたりに配置するか。これも迷いはじめるとキリがありません。何となく活けてみますが、どうも間の抜けた感じになってしまいました。

ところが、先生が少しだけ手を入れてくださると、全く見た目が変わってしまいます。一輪の花の位置がほんの1〜2センチ変わるだけで、全体の見え方ががらっと変わることがあるので驚きです。

花一輪一輪がそれぞれにそれぞれの役割を果たして全体として美しく見えるのですね。私たちひとりひとりも、どんなに小さくても、全体との関わりの中で生きているのでしょう。

先生に助けていただきながら、ようやく完成です。

完成しました

活け込み 2

2015/04/11

華道の活け込みで、どうだんつつじの小枝2本のうち、とちらを切るか、迷いました。結局一方(写真の下の方、黄色い矢印で示した枝)を切って、上の枝を残しました。
もちろんどちらが正解と言うことはないので、どちらでも良いのですが、迷ってしまいます。

「間違ったと思ったら、それはそれで良いから、どんどん進みなさい。その時はその時のようにしたら良い!」先生は直接はおっしゃいませんが、いつもそんなことを教えてくださっているように思います。

切り落としてしまった枝は元には戻りません。過ぎ去ったことにいつまでもとらわれていても、どうしようもありません。それよりも現実を受け入れて、次の展開を考えることにエネルギーを費やした方が、いろんな意味で良いのですね。

どちらの枝を残しましょう?

こうなりました

活け込み 1

2015/04/10

お寺では「花供養」という法要の期間が始まっています。法要のほかに様々な催しが行われます。

保育園の近くにあるお寺の施設、修養道場では、「心をみがく集い」といって、華道、茶道、書道、水墨画などの教室があり、いろいろな方が日々研鑽を積んでいらっしゃいます。そんな皆さんの作品が花供養期間中に修養道場に展示され、薄茶席が設けられています。

私も休みがちながら、茶道と華道のお稽古をさせていただいています。華道の作品を作るため、先生にご指導をいただきながら活け込みをしました。私の花材はどうだんつつじ、アザミ、小菊の3種類です。

まずはどうだんつつじの枝をどう使うかが、ポイントになってきます。私が大きな枝を手にして、どうしようかと悩んでいたら、先生が、「この線が面白いから、ここで切って、こう使うといいんじゃない」とアドバイスをくださいました。おっしゃるとおりにしてみると、なるほど、落ち着きます。他の枝もどこにどう活けると良いのかと考えつつ、先生にアドバイスをいただきながら、なんとか活けました。

そこで、先生がおっしゃったのは、不要な枝を見極めて外しなさい。ということでした。また、これが難しいのです。枯れていたり、線が無駄に交差していたり、形のバランスがとれない原因となっている枝を切り落とします。

しかし、どの枝が対象になりそうなのかを見極めるのが、難しいのです。「この2本の小枝、どこにハサミを入れるかで表情が変わりますが、どうしますか?」と先生にたずねられますが、まず、なぜそこにハサミを入れる必要があるのか、なぜここなのか?そこからして私には難しいのです。さあ、どちらの枝を切りましょう?

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