2012年 9月

運動会 3

2012/09/10

子どもたちのいきいきわくわく感で会場が満たされた運動会、そのなかで、4歳児5歳児が一緒に組み体操をしました。組み体操というと、一糸乱れず整然と行うとイメージが強いかもしれません。昨年度は、集まるメンバーが決まっていて、そのメンバーで相談して何か一つの形を表すことに取り組んでいました。ところが、今年度はその場で誰と組んで何を作るのかを相談して形にするということに挑戦していました。

例えば、2人組といったときに、まず誰と組むのかということを決めなくてはなりません。近くの人と組むというのも一つですし、「2人組の時は一緒にやろうね。」とあらかじめ約束しておくことも一つです。やってみるとどんどんペアができあがってゆきますが、子どもの数が奇数の場合、必ず1人余ることになります。そんなときに、組む相手がいなかった子が、「先生手伝って」と先生に助けを求めることも一つの方法です。そのために周りに保育士が待機しています。練習の時には、そうしている姿が多く見られました。

運動会当日も、相手がいない子が1人いました。先生に「手伝って」と助けを求めにくるかと思いましたが、一組のペアが「いっしょにやろ!」と1人になった子を仲間に入れてあげていました。2人組という枠からははずれてしまいますが、2人で表現するつもりだった形を工夫して3人で表現していました。これも子どもたちの判断です。

次に何をするのかを決めなくてはなりません。これは、「例えば、2人組ならこんなのがあるよ。」とあらかじめいくつかのパターンを提示しておくと、そのパターンを子どもたちが覚えていて、集まった時点で、「どれにする」と相談して決めるというかたちをとっていたようです。

全員が同じ形を表す訳ではないので、初めて見た人は「どうしてやっていることが違うのだろう」と思ってしまうでしょう。ですから、保護者の皆様には始まる前に十分説明しました。

子どもたちが考え、相談して決定し、行動することを運動会で保護者の皆様にごらんいただきたい。という保育士の想いからこの方法を選んだようですが、保育士にとってはかなりの冒険だったと思います。本番でけんかを始めてしまう可能性だって0ではありません。でも、けんかになったらけんかになったで、それを見ていただければ良い。それが子どもたちの普段のありのままの姿なら。と考えていたようです。

保育士は、「子どもたちはきっとやり遂げる!」と子どもたちを信じて、まかせ、見守っていたのだと思います。先生に信じてもらって、立派にやり遂げた子どもたちの顔はとても誇らしげでした。

運動会 2

2012/09/09

いつ雨が降るかと思いながら運動会の準備を進めていると、空が明るくなってきて、薄日が差し、どうかこのまま運動会が終わるまでまで雨が降りませんように。と祈る思いです。運動会も後半になって、パラパラパラと大粒の雨が降ってきました。どうしようかと思いましたが、子どもたちの「雨やんで!」の大合唱に圧倒されたのか雨がやみました。まさに天の助けです。その後雨も降ることはなく、時々日差しが届く暑すぎない天気で運動会を終えることができました。空に感謝です。そして、子どもたちはみんな自分の持てる力を発揮して運動会を楽しんでいました。

どうしても行事というと、大人はそれに向けて形を作ろうとしてしまいがちですが、子どもにとってどういう意味があるのかをしっかりと考える必要があります。ですから、職員間で「運動会って何?」ということを話し合い、運動会は、子どもたちの生活の節目であり、子どもたちの発達、主に運動面の発達を保護者に知っていたくという意味があるというところに意見が落ち着きました。そして、そのためには「子どもが自らやりたいと思って取り組めること」「子どもが楽しくいきいきできること」を大切に進める必要があるということを確認しました。

運動会当日は、0歳児や1歳児は普段と違う雰囲気に、ちょっと緊張してしまいがちなのですが、信頼関係のできている保育者がゆったりと接して安心させてあげると徐々に普段のように遊んでいる姿を見せてくれます。こういうところで大人が落ち着いていないと子どもは落ち着きません。まさに、子どもは保育者のこころを写す鏡です。2歳児は保育室で育てている、おたまじゃくしにとても関心があるようで、おたまじゃくしになって、跳んだりはねたり鉄棒にぶら下がったり、とても楽しそうにみんなで取り組んでいました。3・4・5歳児もそれぞれの活動を楽しんでいましたし、お母さんに見せるんだ!と張り切っている子もたくさんいました。

運動会 1

2012/09/08

本日、運動会を行いました。ところが、天気予報では西から前線が近づいてきて、天気が崩れるという予報が出ていました。それも、ちょうど運動会を予定している午前中に40パーセントから60パーセントと降水確率が高いのです。

運動会を行うかどうかを決定するのは午前6時。そのと時点で職員に連絡することになっています。雨模様の天気予報が気がかりになって5時前から起きて空を眺めたり、インターネットの天気予報を見比べたりしてながら空を見ると、その時点では雲は多いものの青空も見えます。

なんとか雨が降らないといいなと思いましたが、9時か10時頃から雨が降り出して、お昼頃まで降り続きそうな予報です。6時になって決断をしなくてはなりませんが、空には雲が増えてきています。雨雲レーダーも9時頃から雨が降り出すという予報にはかわりありません。そこでこう考えました。天気予報の情報がなく、空をみているだけであれば、延期はしないだろう、今、降っていないのに延期するのは不自然だ。それなら決行するしかない。もし途中で降ってきたら、そのときに一番よいことを考えれば良いのだから。

保護者の皆さんも予定を調整してくださっています。なによりも子どもたちが運動会をやりたいと張り切っていますし、とても楽しみにしています。降るかどうかわからない雨を恐れて中止にしたら、子どもたちに申し訳ありません。

やると決めたものの、雲行きは怪しいものです。このあたりでは、「雲が毘沙門様にお参りに行くと雨が降る」という観天望気のことわざがあります。南から鞍馬山に向かって雲が流れると雨が降るというのです。外に出てみたら、全くその通りに雲が動いていました。

しかし傘がないと外に出られないほどの雨が降るまでは、全力でやることをやるだけです。早速準備にかかりました。出勤時間の30分も前からきて準備をしてくれている職員もいましたし、もっと早くから運動場を掃除してくださったお寺の方もいらっしゃいました。みんなが協力してくれるので、とてもありがたく思います。

とはいうものの、始まる頃に降ってきたらどうしようと内心ドキドキしていました。

赤ちゃん学~うごく・さわる~

2012/09/07

今日は、二十四節気の白露。空気が冷えてきて露を結ぶころです。昨夜は、半袖では肌寒いくらいの「空気が冷える」という言葉がピッタリの涼しさでした。今朝は、つぼみが膨らみ始めた萩の花に露が結んでいるかと思いましたが、それほど気温が下がったわけではなかったようです。

日本赤ちゃん学会理事長小西行郎先生のご公演を聞いて、思ったこと感じたことを少し紹介してきました。人間の進化の過程から見て、子育ては社会で行うことが自然なことだと知りました。社会の真ん中の安全な生活環境で生活できるからこその特徴として、人間の赤ちゃんは仰向けで長い時間いられることがあります。最も弱く守らなくてはならない腹部をさらけ出していられるのは安全だからこそです。仰向けで生活することで、手足を自由に動かすことができ、自発的な運動が可能になります。生後1週間くらいの赤ちゃんが、手足を動かします。これをジェネラルムーブメントと言うそうですが、この運動からいろいろなことがわかるそうです。赤ちゃんは動くことで発達できると先生はおっしゃっていました。

そういえば、赤ちゃんはお母さんのお腹の中でも動いています。この動くということで、触覚を使って自分の身体を認知しているのだそうです。胎児がまず最初に使う感覚は触覚で、胎児期の半分くらいは触覚だけを使って生きているのだそうです。触覚というのはそれほど大切なのでしょう。妊娠16週くらいの赤ちゃんは指をしゃぶるような格好をするそうですが、これは触覚の最も敏感な唇と指先を触れて、自分の身体をわかろうとしているそうです。

子宮の内壁に触れるときと自分の身体を触るときとでは感じ方も違い、その違いにより、自分の身体とそれ以外を知り、自他の違いを知ることで自分自身をわかってゆくのです。この触覚を使うためには動く必要があります。動いて触れることを繰り返してゆくうちに運動が変わるそうです。いろいろな動きをすることで、いろいろな感じ方をして、自分を知り、自分以外を知ってゆくのです。

この時に忘れてはならないのが、この運動は赤ちゃんが自ら動き、自ら触っているということです。お母さんのお腹の中にいるうちから、積極的に環境に関わり発達しようとしているのです。生まれてからはなおさらそうなのだと思います。子どもはちゃんと自ら育とうとしているので、その時々にふさわしい環境を用意してあげることが、その子の発達を援助するのに最も大切なことのように思います。あとは、子どもが自ら育つことを信じて見守るだけです。

赤ちゃん学 ~みんなで育てる~

2012/09/06

ヒトとは何か?ヒトの始まりである赤ちゃんを研究することで解き明かしてゆこうというのが赤ちゃん学なです。その研究成果を保育や子育てに活かすことが大切になってきます。
ヒトは弱くなることで進化した。一人一人は弱い存在でも社会を作り力を合わせることで生き延びてきたのです。そして、赤ちゃんや高齢者など一番弱い人をその真ん中で守ってきたのです。ですから、子育ては社会でいろいろな人が携わって行うのが最も自然なことなのでしょう。

育児は社会的な営みなのです。ところが、夫婦と子どもという標準的な家族構成の世帯では、乳幼児を育てる時期、お父さんは朝早くから夜遅くまで仕事で、お母さんと赤ちゃんが、一日のほとんどを家で過ごしているということが多いのではないでしょうか。これでは、お母さんは大変です。本来なら、社会的営みであるはずの子育てを、お母さん1人が担わないといけないのですから、不自然ですし無理があります。

また、赤ちゃんにとっても、ほとんどの時間をお母さんと過ごすのですから、刺激がとても少なくなってしまいます。家でお母さんが家事をしていて、赤ちゃんが1人で遊んでいる状態は容易に想像できます。こういう時間が長くなってしまうと赤ちゃんは、いろいろな人と関わることができません。特に子どもどうしの関係を築こうにも周りに子どもがいないことには、築きようがありません。子どもがいろいろな人の中で育つという自然な姿は、今では自然ではなくなってしまっているのです。お母さんと赤ちゃんが2人だけで家にいる家庭の子どもこそ、保育に欠けるのかもしれません。

ところで、年を重ねて子どもを生まなくなった女性が長生きをするのは人間だけなのだそうです。そのことから、いわゆるおばあちゃんは子どもを育てる役割を担っているのではないかという考え方があります。

言われてみれば道理にかなっているかもしれません。おばあちゃんなら自分の子育て経験を生かして、ゆったりと余裕を持って子どもに関わることができます。また、ご近所のお茶のみ友だちが集まって、おしゃべりをしながら、子どもの面倒を見ることが、自然に行われていたのではないでしょうか。子どもにとってはいろいろな人がいて、多くの刺激を受けることができますし、お年寄りにとっても子どもと接することは元気の元にもなります。

いろいろな人が育児に関わることが、人間が進化の上で獲得してきた方法なら、それができにくくなった現代こそ、あえてそういう場と機会を用意する仕組みが必要になってきます。保育園はそういう役割を担うべきだとお思います。

赤ちゃん学 ~ヒトとは~

2012/09/05

赤ちゃん学は、様々な分野の研究成果から、より深く赤ちゃんを知ることによって、今までの子ども観を見直し、新たな子ども観を構築しようという試みですが、それは、ヒトはどこから始まるのか?というヒトの出発点を明らかにすることによって、ヒトとは何かを考える学問でもあるそうです。

そもそも、どうしてこの地球上にヒトは発生し、人類はこの地球上にこんなにたくさん生きているのでしょうか。現在地球上に生きている人類はホモサピエンスですが、どうしてホモサピエンスだけが生き残るとができたのでしょうか。また、ヒトの存在は宇宙全体にとってどんな意味があるのでしょうか。ヒトって、人間って何でしょう?そんなところから保育を考える必要があると思います。

ヒトの大きな特徴の一つが二足歩行です。ヒトは他の動物に比べて、寿命に対する子宮内での生活時間が短い、つまり未熟な状態で生まれてきます。それは、二足歩行によって、骨盤が狭くなり子宮が小さくなったことで、子どもが十分に成熟できないまま生まれてくるからです。未熟な状態なので自立できず、誰かに守ってもらわないと生きてゆくことができないのです。ヒト以外の動物がそんな状態で生まれてこようものなら、野生の中であっという間に襲われてしまいそうです。なぜヒトだけが未熟な状態で生まれてくるのでしょうか。

それはヒトが生き残り戦略として弱くなることを選択し、最も弱い赤ちゃんを集団の真ん中において、安全な社会を形成してきたからだといわれています。つまりヒトは一人ではとても弱い存在です。鋭い爪や牙、分厚い皮も持っていませんし、早く走ることも、木に登ることもそんなにうまいわけではありません。しかし、集団で行動し役割を分担し力を合わせることで、社会として集団として強くなりました。そして赤ちゃんや高齢者など、弱い人をその集団の真ん中に置いて守ってきたのです。

健全な社会を形成できる力がつくように子どもたちを育てる。それが、ヒトがヒトとして生きてきた筋道にかなうのではないでしょうか。ヒトとヒトがその関係をうまく作り、人と人の間の関係を築くことが、人間として生きてゆくことなのです。

そうした観点から保育を考えた時にどんな保育が必要になってくるのでしょうか。よくよく考える必要がありそうです。

伏兵現る

2012/09/04

まずは、いつもこのブログを読んでくださっている皆様にお詫びしなくてはなりません。ごめんなさい。
実は、畑のことを書いた記事の中に、私の勘違いから発生した誤りがありました。大豆がつるを伸ばしていたと書きましたが、私の勘違いです。大豆は自分でちゃんと立っています。つるをのばして草に助けを求めていたのは、別の植物でした。

先日、東京の研修から帰って久しぶりに畑を見に行ったら、大豆の間に生えている背の高い草が、花を咲かせていて、畑の雰囲気がすこし変わっていました。少し見ないだけで、ずいぶん様子が変わっているのには驚かされます。

作物たちはどうなったかと思って畑に入ってみました。トウモロコシは、食べるには収穫時期を逃してしまったかもしれません。ナスは花がいくつか咲いていますが、実がなるのでしょうか。トマトはたくさん実をつけましたが、まだ青いようです。

畑を見て回っていて、気づきました。つるが増えてたくさん伸びているのです。そのあたりをよく見てみると、背の高くなった大豆や、他の草の海をひそかに潜行するように這っている植物があります。その植物がつるの主でした。それはかぼちゃかもしれません。かぼちゃなんか植えた覚えはないのに・・・と考えていたら、去年の今頃かぼちゃが畑を独占していたのを思い出しました。そのかぼちゃの種が残っていたのでしょう。芽を出し、茎を伸ばし、他の植物につかまりながらひそかに成長していて、この時期になって姿を表したのです。というより私が気づいていなかっただけかもしれませんが・・・私にとっては突然姿を表したかぼちゃは、伏兵現るといったところです。
かぼちゃがやたらと勢力を伸ばすかもしれませんが、それも自然の姿なのでしょう。

というわけで、つるの主はかぼちゃでした。間違ったことを書いてしまったことをお詫びします。素人の浅はかさというのか、わかっていない怖さというのか、よく確かめないで早合点することは慎みなさいということですね。気をつけます。

防災訓練

2012/09/03

防災の日の9月1日、京都市総合防災訓練が左京区全域で行われ、参加しました。

花折断層を震源とする震度7の直下型地震が発生し、大きな被害が出たという想定で、約5,000人が参加する大規模なものです。岩倉の洛北中学校や岩倉東公園が主な会場となり、洛北中学校では避難所設置訓練と、ボランティアセンター設置訓練が行われ、岩倉東公園では防災関係機関による総合的な救出救助、医療救護、生活支援などの訓練が行われました。

また、左京区北部の久多地区や広河原地区は、福井県のおおい町にある大飯原発から半径30キロの緊急防護措置区域に入るため、原発事故を想定した訓練が行われました。震災による大飯原発事故を受けて国が原子力緊急事態宣言、市が避難指示をそれぞれ出したとの想定です。

私は、左京区社会福祉協議会が主体となって行った災害ボランティアセンター設置訓練に参加しました。災害ボランティアセンターは、被災者のニーズに応じて、集まってくださったボランティア希望者に作業を依頼し現場に案内したり、資機材を貸し出したり、ボランティアの心構えを伝えます。また、作業を終えて戻ってきたボランティアから、作業の進捗状況の報告を受けたり、ボランティアのケアを行うなど、多くの役割があります。

私は、被災者のニーズに応じてボランティアを集め、作業内容や現場への経路を伝えるなどの役割を果たすマッチング係りの担当になりました。事前に研修をして、何をするのかある程度わかっているとはいっても、いざ実際にやってみると、細かなところがどうするとスムーズに行くのか、様々な問題が現れてきます。どんな方法を取ると良いのか、そこに集まったメンバーで話し合って改善しながら進めましたが、こんな時に大切になるのが、いかに人の意見に耳を傾け、心をつくして聴くことができるかということだと思います。ついついみんなが、自分の考えを出すことだけに一生懸命になりがちですが、傾聴することを心がけないと、意見がぶつかるだけになってしまいます。皆で何かを行うためには話し合いが欠かせませんが、話し合う姿勢、特に話を聴く姿勢に注意を払っている必要があると思いました。

実際にやってみること、行動しないことには問題点も見えてきませんし、話し合い聴き合う姿勢がないとみんなで力を合わせることはできません。

いろいろなことを、実際に行動する中で改善をしてゆくことの大切さと、みんなで話し合うこと、中でも相手の意見を誠意を持って受け止めようと傾聴する心構えを保つことの大切さをを突きつけられました。

赤ちゃん学

2012/09/02

日本赤ちゃん学会理事長の小西行郎先生のお話をうかがう機会がありました。小西先生は赤ちゃん学会「設立にあたってのメッセージ」(赤ちゃん学会ホームページに掲載)において、20世紀末の子どもをめぐる状況は、これまで私たちが持ってきた「子ども観」の見直しを我々に迫っているとの見地から、こんなことを述べておられます。

(以下引用)

 一方、最近の神経科学の進歩は、「神経ダ-ウイニズム」という、脳は遺伝子で作られた粗い組織から無駄なものを削り取る2つの過程を経て成長するのではないかという概念を生み出し、また、発達心理や複雑系の研究では周囲からの刺激によって動くという原始反射は決して、新生児の行動の基本ではなく、新生児を自ら自発的に周囲に働きかける存在として捉えるべきではないかという研究が増えています。
こうしたいくつかの新しい考え方や所見は21世紀の「子ども観」を新たに構築するのに十分な可能性を持っていると考えられるのです。
(引用ここまで)

近年顕著化している子どもをめぐる問題が、これまでの「子ども観」の結果だとしたら、それを早急に見直し、21世紀の新たな「子ども観」を構築しなければならず、そのためには子どもに関係する研究を行なうすべてのものが一同に介し、研究協力や討論を行なうべきだとおっしゃっています。

ここで「子どもに関する研究を行うすべてのものが一同に介し」とあるように、赤ちゃん学は、小児科学、発達認知心理学、発達神経学、脳科学、ロボット工学、物理学、教育学、霊長類学などの異分野研究の融合による新しい学問領域であり、21世紀最大の謎といわれる赤ちゃんの運動・認知・言語および社会性の発達とその障害メカニズムの解明から、ヒトの心の発達までを対象とする学問で、赤ちゃんを総合的に多面的な観点からとらえる、赤ちゃんを中心とした学問なのです。

様々な研究成果からわかる赤ちゃんの姿から、もう一度保育を考える必要があるかもしれません。

自然から学ぶ 〜見守る2〜

2012/09/01

畑の作物は育つ環境さえ整えておけば、自分の力でしっかりと育つことができます。そのための最適な環境は、他の様々な植物や昆虫も一緒に生活している自然に近い環境です。もちろん、そこで育つ作物は、大きくて形も味も良い人間にとって都合の良いものではありません。小さいし、味にも多少クセがあります。まだトウモロコシしか食べていませんが、甘いだけではない多少渋みやクセのある濃い味でした。自然に育つからでしょう。

そうやって環境さえ整えてあげれば、人間がそれほど手を出さなくてもちゃんと育つのに、畑を見にいくとつい何かをしたくなります。なぜでしょう?

そう思うと作物を育てるのは、子どもを育てるのと似ています。もちろん人間の子どもは植物ではありませんが、適切な環境さえ用意してあげれば、自分で育ってゆく力を持っているはずです。

それは赤ちゃんからそうだと思います。もちろんその時々で適切な環境は異なります。赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいる時から、触覚などを通して自分と他者を知り、自分を取り巻く環境に自ら働きかけて発達しています。

もちろん生まれてからもその時々に応じて、必要な環境を選んで自ら関わることで、発達してゆくのです。

その環境の中でも大切なのは、安心基地としての大人の存在という環境ではないでしょうか。赤ちゃんの時であれば、無防備な赤ちゃんをしっかりと守り、授乳をしたりお世話をする、母親に代表される大人の存在でしょう。少し大きくなると、他の大人の存在も大切になってきます。父親であったり、他の家族であったり、保育者であったりします。

もっと大きくなっても、心の安心基地としての誰かの存在は必要なのではないでしょうか。それは、たとえ大人になっても話を聞いてくれたり励ましてくれる存在としての誰かが必要だと思います。

特に子どもの時は安心基地としての大人の存在が必要です。安心基地は決して、ああしろ!こうしろ!とうるさく言いませんし、必要以上の手出しをすることはありません。安心基地が自分の思う通りに子どもを動かそうとしたら、安心基地ではなくなってしまいます。

どんどん外へ出て行こうとする子どもが不安になって振り返った時に、しっかりと見守ってもらっていることを感じられると、不安が安心に変わってまた外へ向かって挑戦できるのです。

保育者は子どもにとってそういう存在であるべきだと思います。決して何かを教え込むのではなく、まして、自分の思うとおりにさせようとするのではありません。この子にとって今本当に必要なことや環境はなにかを深く考え、そのための環境を用意することが必要なのではないでしょうか。

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