shigaraki (鞍馬山保育園 の投稿者) - 59ページ目 (186ページ中)

雪月花

2014/04/06

春らしい暖かな日がしばらく続いたので、京都の市中は桜がとても美しく咲いています。ところが、4日の午後から急に気温が下がりはじめました。突然冬がもどってきたかのような寒さです。鞍馬より北から通ってきている職員が峠では吹雪いていたと言っていました。まさかと思っていたのですが、5日土曜日も寒さは続きました。気温の乱高下が続くと子どもたちの体調が心配です。6日日曜日、朝の気温は2度、日中でも5度を上回らない真冬並みの寒さです。冬型の気圧配置になって強い寒気が上空に流れ込むので、突風や突然の雨、降ひょう、落雷、竜巻に注意するようにという気象情報が流れていました。午前中は時折雨がザーっと降ってくる天気でした。

そんななか、お寺では今年も千本ゑんま堂大念佛狂言の奉納が行われました。昨年の演目には「舌切り雀」があり、園児達が雀役で出演したのですが、今年の演目は「いろは」と「花盗人」なので園児の出番はありませんでした。

「いろは」は、読み書きの苦手な小僧さんが寺子屋に入門して、お師匠さんから「いろは」を教えてもらうのですがなかなか覚えられず、お師匠さんのいうことをそっくり真似するというお話しです。小僧さんの役を演じていらしたのは、中学生くらいの男の子だと思いますが、雰囲気いっぱいに演じていらっしゃるのに驚きました。

「花盗人」も太郎冠者とお殿様の滑稽な姿がとても楽しい演目で、思わず笑ってしまいました。

気温が低い屋外で、時折冷たい風が吹きすぎてゆきますが、日差しはしっかり春なので、日の光の下ではとてもポカポカしました。

狂言の舞台は三分咲きの桜の額縁に縁取られた絵画のようで、その場の全てがとてもステキです。色も形も光も影も日差しの暖かさも冷たい風も香りも静けさも・・・全部が組み合わさって、何とも言えない雰囲気を醸し出していました。

狂言が終わってしばらくすると、薄暗くなり始めた夕暮れに、ふと空を見上げると月が空に輝いていました。目線を下ろせば三分咲きの桜と満開の梅、あられのような雪がさーっと通り過ぎて行く様は、何とも美しいものです。まさに雪月花。こんな経験なかなかできません。

何もしない

2014/04/05

春休みの学童保育は賑わっています。このところご紹介しているように、全員で行う行事のような活動以外の時間は、基本的には子どもたちは自由に過ごしています。この自由というのが結構難しいのです。やりたいことがしっかりとある子は迷うことなく自分のやりたいことに取り組みます。なかなかやりたいことが見つからない子は、落ち着かない様子です。自分で選んで決めることができないと、「何をやっても良い」と言われると困ってしまったりします。自分で決めることができるようになるためには、自分で選んで決める経験をたくさんすると良いのです。自由をしっかりと使いこなすためには、自分がしっかりしている必要があるのですね。

こう書くと、一所懸命に何かに取り組んでいることだけが良いことで、何もしていないのは良くないことだと言っているように誤解されがちですが、そうではありません。なにもしないという選択肢ももちろんあるのです。大切なのは、子どもたちが「自分でそうしたい」と思ってそれをやっているかどうかだと思います。

子どもたちを見ていると、一所懸命に塗り絵に取り組んでいる子もいれば、ビーズを使って何かを作っている子、カードゲームに興じるグループ、寝そべって本を読んでいる子、何もしないでゴロゴロしている子、窓の外を眺めている子など様々です。それでいいんです。それがいいんです。

ある日、学童保育に来ている小学生の保護者と話をする機会がありました。子どもがとてもうれしそうに学童保育に通っていると喜んでくださっていました。「いつも楽しみにしていて、他の予定と重なっても、なんとしてでも行くと言って聞かないんです。」とまで言ってくださいます。「いえいえ、何もできていないんです。」と答えると返ってきたのは「何もしないからいいんです。」のことばです。思わず「えっ?」と聞き返すと「うちの子は何もしなくてもいいのが、とても心地良いようなんです。」とのこと。どうやらその子は、いつも真面目で緊張感が高いようです。でも、めぐみ精舎の学童保育に来ると、やらなくてはならないことはないので、何もせずに自由に過ごせることが嬉しいのだそうです。この話を聞いて、もちろんその子の性格にもよるのですが、今の子どもは結構大変なんだなと思いました。と、同時に、そんな子にとって自分を解放できる場所であること、ホッとできる場であることを嬉しく思いました。

基本的にめざしていることの一つが、みんなが自分らしくいられる場、好きに過ごせる場であることですから。その役割を少しは果たせているかもしれません。

春休み

2014/04/04

小学校が春休みで、めぐみ精舎の学童保育に通ってくる子もグンと人数が増えました。毎日20人以上の子どもたちで賑わっています。そんな中みんなでごはんを炊いて食べようという企画が実現しました。以前は白米を炊き比べてみて、炊き方によって味が違うかどうかを確かめることを目的にごはんだけを炊いたこともありますし、野菜のスープを作ったこともあります。今回は古代米と言われる黒米を白米に混ぜて炊いてみることにしたのです。ところが、参加人数が多く、昼食をごはんだけでまかなおうとすると、そんな量を炊くだけの鍋や釜がないので、1人当たりのごはんの量を抑えて、野菜スープも作ることにしたようです。家から一人一品好きな野菜を持って来ます。おじいちゃんの育てたという大きなしいたけをはじめ、じゃがいも、にんじん、大根など様々な野菜が集まりました。

野菜の皮を剥いたり、切ったりと下処理をして昆布だしで煮た後、味付けは2人の男の子が担当したそうです。塩、しょうゆ、味噌などの調味料があったのですが、2人はシンプルに最小限の塩だけで味付けをしました。後で残ったものを少しもらったのですが、おいしいのです。確かにスープ自体の味はとても薄いのですが、ひとつひとつの野菜はとてもおいしいのです。素材それぞれの味が引き立てられている感じです。指導に当たっている先生によると、味付け担当の2人の男の子は、「塩を入れたら甘くなった」と言っていたそうです。とっても本質的だと思います。

普段は野菜が苦手で、家ではあまり野菜を食べない男の子が、お椀に野菜スープをいっぱい入れていたので、食べられるのか心配になって、思わず大丈夫かと聞いてしまったと担当の先生は言っていました。
自分で調理したものは、例え苦手なものでもおいしく食べることができるのだということを改めて思いました。

黒米を入れて炊いたごはんは、赤飯の色を濃くしたような色になり、玄米である黒米の歯触りや香ばしさが感じられる美味しさになりました。17合炊いたごはんが、少ししか余らなかったそうです。野菜スープも大きな寸胴にたくさんあったのが少し残っただけ。みんなおいしかったのでしょう。たくさん食べました。

    黒米を混ぜて炊いたごはん

  シンプルな味わいの野菜スープ

めぐみ精舎

2014/04/04

春休みに入り、めぐみ精舎で過ごす学童保育もこどもの数が増え、にぎやかになってきました。
また、保育園を卒園したこども達も学童に仲間入り。小学生に囲まれて、緊張しながらもちょっぴり大きくなった気分で過ごしています。
小学生もあたたかく卒園生を迎えてくれました。
めぐみ精舎での過ごし方や約束事、掃除の仕方なども丁寧に教えてくれています。
私達大人が教えるよりも分かりやすく丁寧に教えてくれている小学生をみて、この子達に任せても大丈夫だな…とそばで見守っています。
小学生が書いた1日のふりかえり(その日の活動の感想を書く)に、「卒園生が来てちょっぴりお姉さんになったみたいでうれしいな」と書いてありました。

気持ちがぶつかり合って言い合いをする事も見られますが、自分の思いを出す事も大事な事だなと思います。大人がすぐに仲裁に入るのではなくて、こども同士で乗り越えられたらいいなという思いから、少し離れて見ているように心がけています。
でも先日は感情が先走って言い合いをしている2人が、なかなか納得できなかったようだったので、場所を移して机をはさんで椅子に座って話し合うよう声をかけました。

すると自分の意見を思い切り出して話したり、途中他の子も間に入ったりして長い時間そこで話していました。お互い自分の気持ちをぶつけてスッキリしたのか、話し合いが終わるとみんなの輪の中に入っていきました。
こんな毎日ですが、春休みが終わるまではめぐみ精舎はにぎやかです!

春のおとずれ

2014/04/03

鞍馬でもようやくさくらの花が一輪二輪とほころび始めました。まだ少し堅いつぼみ、今まさに咲こうとしているつぼみ、今開いたばかりの花、いろいろな花がそれぞれの美しさでいます。桜も時期により美しさは様々です。今まさに咲こうとしているこの時期の美しさは慎ましくも力強く、元気です。山の朝もいろいろな鳥のさえずりで、にぎやかになってきました。ついこの間まで練習中だったウグイスも美しい声でさえずることができるようになり、そんなウグイスに園庭で遊ぶ子どもたちが、「ホーホケキョ」と話しかけていました。暖かい風がほのぼのとした気持ちにしてくれます。目、耳、頬、身体全体にそして、心にも春が感じられる頃になりました。園児たちは子どもたちは、新年度が始まってみんなちょっと新しい気持ちで、いきいきと登園してきています。

小学生は春休み。めぐみ精舎の学童保育にはたくさんの小学生が遊びに来ています。先日は、まだ冬眠していたヒナコウモリの観察にいきました。卒園したばかりの年長児も含めて25名ほどの大人数で観察に行ったのですが、よほど興味を持ったのかみんな真剣に観察していましたし、どこに何頭いるかとか、どんな格好で冬眠しているかなど、観察し日付、時間、気温などとともに記録していました。

このコウモリの観察やクッキングなどの行事もたまにはありますが、基本的に、めぐみ精舎にやってきた小学生は自由に過ごしています。朝のミーティング、勉強、お弁当、おやつ、掃除といった基本的なことは決まっていますが、その他は自由にしています。

朝に家の近くでつくしを摘んできた子がいました。これをどうしようかということになり、調理して食べる。量が少ないから、近くに探しに行こう。などと相談していました。もちろん、全員がそれをするのではなく、室内に残っていろいろな遊びをしたい子はそれを選びます。結局、雨が降ってきて、つくしを探しに行くことはできなくなってしまいましたが、何人かの子は数本のつくしをきれいに掃除し、調理して食べていたようです。

室内遊びにて

2014/04/03

今まではブロックのおもちゃで遊んでいる時も「先生、トーマス(機関車)作って〜」「お家、作って〜」など、保育士が作った物で遊ぶ事が多かった、すみれぐみ(1歳児クラス)ですが、最近は自分でも考えながら作っていけるようになってきました。この日も最初は「せんせい、〇〇作って〜」と言っていた子も「〇〇君、作れはるし、どうして作るのか聞いてみたらは?」と、言うと「どうして作るの?」などきいていて、きかれた子も途中まで作ってあげながら、それぞれ出来上がると「できたな〜一緒やな〜」と二人で嬉しそうに笑い合っていたりしている姿があります。保育士は、そばで見守りながら、できるだけ、友達同士に繋げていけるようにしていきたいと思います。

「大人」になる

2014/04/02

子どもにとって「安全基地」でいることのできる保護者、保育者でいたいものです。そんな大人の元で育った子は、他の人にとっての「安全基地」になることができるのです。なぜなら、その子が丸ごと信じてもらって育てられることで、「自分は自分で良いのだ」という自信を持つことができるからです。自分の寄って立つところが、育つのです。このことが「確実性」、生きてゆくための基本となる自分自身をしっかりと確立するための方法なのです。

これは、私たちのめざしていることと同じなのですが、茂木氏が

「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。

とおっしゃるところまでは、考えが及びませんでした。乱暴かもしれませんが、言い換えれば、過干渉は子どもの主体性、自発性、自信、自己肯定感を育てることがない。そこが育たないまま大きくなると、「組織」や「肩書き」という自分の外側にある物に依存して自分を支えることしかできなくなってしまうのだ。というところには気づきませんでした。

茂木氏はこう言います。

「組織」の一員として、自らの行動の自由、ダイナミック・レンジをあらかじめ縛ってしまう。「肩書き」に「ふさわしい」行動を取ろうとするあまり、自らの自由を縛ってしまう。「過干渉」な保護者の下で、子どもの自由がいわば「窒息」するのと同じように、文脈過多な日本の社会は、その構成員の能動性、自主性を奪う。
 子どもの頃から受験に追い立てられ、「履歴書に穴が開いてはいけない」とばかり「組織」という「過干渉」な鎖に縛り付けられる日本人は、一人で不確実性に向き合うために必要な「確実性」を自らの中に涵養する機会を奪われている。日本人は、自分の中に「安全基地」を培うことができていない。結論として、「大人」になることができていないのである。

私たちはどうあれば良いのでしょうか。考えさせられます。

*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。

自分でいる力

2014/04/01

組織や肩書きに縛られて本来の自分を発揮できない。小さな頃から箸の上げ下ろしにいたるまでとやかく言われ続けてきたら、自分の中に「確実性」を築くことはできない。言い換えれば、子どもの時に、自ら考えて決めること、そしてその考えに基づいて自ら行動することを思う存分やる。そして、そのことが楽しいという感覚を身につけ、自らどんどん挑戦してゆく経験が、自分の自信や信念を形作ってゆくのだと思います。茂木健一郎氏はそのことを「確実性」とおっしゃっているのではないでしょうか。人生の、世の中の「不確実性」を何とかしてゆく「確実性」を持てるように育てることこそが、その子が一人の人として自立して生きてゆくための基本になるのです。

ところが、箸の上げ下ろしまでとやかく言われる過干渉の保護者のもとで育ってしまうと、その保護者の価値観という限定された文脈の中でしか、自分を発揮できない。そして大人になっても、「組織」や「肩書」によってしか自分を支えることができなくなってしまう。つまり本当の自分自身、素直なあるがままの自分が見えなくなり、わからなくなるのではないでしょうか。

茂木氏のいう「能動性を前提にした「安全基地」の思想」というのは、子どもの主体性、自発性を大切にし、自ら外界の環境に関わる、探求心や挑戦する力を信じて、見守るということだと思います。どうしても、そっちに行ったら危ない。このやり方の方が良い。そんなことしちゃダメ!と手出し口出し干渉をしたくなってしまうものですが、そこは、子どもを信じ、ぐっと我慢して見守る。子どもが、助けを求めてきたときに帰ってくることができる安全基地、安心基地でいることが私たち大人がしなくてはならないことなのです。そういう環境で育つことが、子どもが自分の人生を主人公として生きてゆく力につながるのです。

春

2014/04/01

3月はまだまだ寒さをひきずっていただけに、この頃は毎日少しずつ朝の光がやわらいでいるのを出勤途中に感じます。
山門あたりではウグイスのかわいい声が聞こえ、思わず立ち止まってどこにいるのかなぁ〜と高い木の辺りを見上げます。
園庭でもこども達の遊ぶ声と共にウグイスが鳴いているのが聞こえてきます。
木々の葉っぱも春のにおいがしてきました。
日ごとに春めいてきた鞍馬の自然をこども達はどんな風に感じているのかなぁ…。
そんな事を思いながらこども達を見てみると、はじけそうな笑顔いっぱいで遊んでるこどもの姿に答えがみつかったように感じました。

限定

2014/03/31

子どもが発達する上で欠かすことのできない「安全基地」は、あくまでも子どもの自主性、能動性を前提に、親がその「挑戦」を見守るというかたちで成立する

茂木 健一郎 氏のことばにあるように、子どもの自主性、能動性が大切なのです。子どもが自分の意志で、主体的、自発的に活動するからこそ、学びが深まるのです。そのためにも、大人は子どもの安全基地でいることが最も大切なのです。であるにもかかわらず、過干渉という形で自分の思うとおりに子どもを動かしたがる大人は多いのではないでしょうか。気をつけないとこの罠に陥りやすいのだと思います。

「過干渉」な保護者は、安全基地を提供しているとは言えない。子どもが何をやるべきか、「箸の上げ下ろし」まで指示し、干渉する。子どもを評価する文脈を、過剰に設定する。子どもが自主的に何かをしようとすると、「勝手にそんなことをしてはダメ」と怒る。そのような保護者は、子どもの自主性を伸ばしてあげることができない。

全くその通りです。そしてこうした保護者のもとで育つと、保護者が設定した文脈の中でしか能力を発揮できなくなるのでしょう。

子どもの頃から「受験」に追い立てられ、「一流大学」から「一流企業」へと進む。そのような日本のシステムに乗った「良い子」は、結局、文脈限定の能力を身につけているに過ぎない。「組織」や「肩書き」を自らの存在意義とするということは、能動性を前提にした「安全基地」の思想からは最も遠いことである。「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。

過干渉な保護者に育てられると、能動的、自発的に環境に関わる経験をしないので、子どもに主体性は育ちません。すから、大人になれば、保護者の代わりに、自分をある文脈限定にしてくれる組織や肩書きに縛られるというか、逆に依存してしまうのかもしれません。

*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。

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