shigaraki (鞍馬山保育園 の投稿者) - 152ページ目 (186ページ中)

ことば

2012/04/25

ことばって不思議だと思います。普段何気なく使っていますが、ことばはどこから生まれてくるのでしょう。脳の中の言語を司る部分だということなのでしょうけれど、どういう仕組みで、どうなって生まれてくるのか不思議です。私が知らないだけで、研究は進んでいるのだとは思います。

あたりまえのことなのでしょうが、ものごとを理解したり、思考を巡らせるときは、ことばを使います。ですから、理解や思考のツールとしてのことばに、どんなことばを使うかによって、理解や思考が異なってくると思います。例えば、英語をある程度マスターしてくると、英語で考えるようになります。「英語で夢を見るようになったら、英語をマスターしたといえる」ということを聞いたことがありますが、それも似たことなのかもしれません。そうやって英語ということばを使って発想や思考をすると、思考が英語的になるのでしょうか。使うツールが違えば、理解の仕方、思考方法、表し方が違ってくるかもしれませんし、根本的なところは、生まれ育った文化によるのかもしれません。その両方が作用し合うのでしょうか。

英語と日本語というように明らかに言語が違う場合は、違いがわかりやすいのですが、昨日のブログにも書いたように、同じ日本語を使っていても、一つのことばに対する意味の範囲が人によって微妙に異なるので、ことばによる相互理解をより深めようと思えば、自分の意味するところを相手にわかりやすく、丁寧に伝える必要があります。ついつい自分の想いをわかって欲しいという気持ちが強くて、説得しようとしたり、わからせようとすると、かえって理解してもらえないことが起こります。真心を持って伝える事が大切なのだと思います。

コミュニケーション 2

2012/04/24

コミュニケーションは、伝えること。伝えるために音声や表情、身振り手振り、そして、文字や話しことばなどを使います。対面して話し合っている場合、伝える人の表情や声色、身振り手振りから様々なことが伝わってきます。自分も無意識のうちしてしまっている表情や仕草が相手にいろいろな形で伝わります。意図しない受け止め方をされているときもあるでしょう。様々な伝達手段の中でもやはり、ことばは、多くのことを伝えているのに向いているのではないかと思います。

その一方で、誤解も生まれます。その原因の一つは昨日のブログで書いたように、人によって一つのことばに対して持っている「意味」の範囲がやイメージが微妙に異なることがあります。
例えば、「ゆっくり」ということを「のろい」と言ってしまう人がいたとしましょう、その人の中では「ゆっくり」=「のろい」なのですが、聞いた人の中で、「のろい」ということばがあまり良いイメージでなければ、聞いた人は批判されているように受け取ってしまうこともあります。そこですぐに「のろいといわれると批判されたみたいで、嫌な気分になってしまうからほかのことばを使ってほしい」と感情を乗せることなく伝えることができると良いのかもしれません。

意味の範囲の違いの他にも、伝える人の話し方、声の高さや口調などにより、伝わり方が全く異なることがあります。例えば、ものごとをはっきりと言う人がいるとします。とてもわかりやすくて良いのですが、誰かが意見を述べたときに、その意見に対して、違う意見をはっきり言う。もちろんそのこと自体は良いのですが、口調や言い方、信頼関係にもより、最初に意見を言った人が否定されていると感じてしまうかもしれません。もしそう感じたら、「今の言い方は少しきつく感じたなー!」「言いたいことはわかるんだけど、もう少し違う言い方をしてくれるとうれしい。」などと穏やかに本音を伝えられると良いと思います。そうすれば、今まで気付くことがなかった、話し方の特徴を自分から気付くことができるかもしれません。

そうすれば、何の気なしに本音でコミュニケーションをとることができるのではないでしょうか。

コミュニケーション

2012/04/23

コミニュケーションが大切さがよく言われます。広辞苑によるとコミュニケーションとは「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする。」とあります。誰かの気持ちや考えを知ること、自分の想いや意見を伝えることです。

対面して話しをするというコミュニケーションに限っても、伝達は言語だけによるものではありません。そういうと、「7%-38%-55%のルール」と言って、何かを伝えるのに重要な役割を果たすのは、言語7%、声のトーンなど聴覚によるもの38%、相手の表情など視覚によるもの55%というアメリカの心理学者アルバート・メラビアンの説が取り上げられることが多いようです。しかし、この実験結果は特殊な条件下でのものであって、いつでもどんな状況下でもあてはまるものではないようです。

ただ、ことばというのは伝わらないことが多いものです。その理由の一つは人によってことばの意味の範囲が微妙に違うということです。私よりずっとたくさんごはんを食べる職員がいます。私にとっての「大盛り」とその職員にとっての「大盛り」はかなり量が違います。大きい、小さい、多い、少ないなど相対的な概念でなくても、人によって微妙に意味の範囲が違ったり、単語に対して持っているイメージが異なります。ですから、十分注意しないと誤解を招くことが多いのです。

また、話すときの口調や声のトーンなどによっても、全く違うメッセージが伝わってしまうこともあります。例えば、ものごとを断定的に言った場合、言った本人には全くそんな気がなくても「他の意見は受け付けない!」というメッセージが伝わってしまうことがあります。もちろん聞く人にもよるのですが・・・

言った人は全くそんな意図はないのに、勘違いして「他の意見は受け付けない」というメッセージを受け取ってしまった人は、嫌な気分になってしまうこともあります。そのまま相手の真意を確かめないでいると、言った人のことを「あの人は人の意見を聞かない人だ。」という思い込みが、聞いた人の心の中で膨らんでゆきます。そうすると、聞いた人は、言った人の気に入らないと思っていたところばかりが思い起こされ、「あのひとはイヤな人だ。」と心の中で勝手に思い込んでしまうことがあります。

誰かのことばに疑問を感じたり、好ましくないニュアンスで受け取ってしまった場合は、怒りなどの感情が生まれる前に、生まれたとしても冷静に、「今のことばはどういう意味?少しきつく聞こえたんだけど・・・」などとと問い返せると良いと思います。あくまでも感情を使わず冷静にです。たずねてみたら、相手は全くそんなつもりはなかったと言うことがわかって、誤解が解けるかもしれません。すれ違いや勘違いが小さいうちに修復しておいた方が、良いと思います。

チームのメンバーがお互いにそう言い合える関係でいると、みんなが楽しくハッピーでいられるのではないでしょうか。

保護者会

2012/04/22

昨夜は、雨はそれほどでもなかったのですが、かなり強い風が吹いていました。
春暁の「夜来風雨声 花落知多少」ではありませんが、桜の花もずいぶん散ってしまったのだろうなーと思っていました。ところが、朝見てみると、しっかりと枝に残っている花もたくさんありました。まだまだ花の役目が終わっていないのかもしれません。役目が終われば風が吹かなくても自然と落ちるものの、その役目が残っている間は少々の風には負けないで頑張っているのかもしれません。強風に耐えて自分のミッションを遂げようとしているようで、頼もしく思うと同時にいとおしく思えました。自然はよくできているものです。

昨日は、今年度初めての保護者会の集まりを行いました。当園は保護者会の組織はありません。組織を作る良さもあるのですが、組織のための組織になってしまってはつまらないので、今はみんながゆるめにつながっている感じで、できる人ができるときにできることを園のためにしてくださったり、園がお手伝いを募ったときには都合のつく人が集まってくださったり、子どもをまん中にみんなでつながり、みんなで楽しめるような形で協力し合っています。ただ、年に何度かは園に集まっていただいて話をしています。今年度第1回目の昨日は、昨年度から変わったことや、園が大切にしてゆきたいことを伝えました。

当園の目指す子ども像に「自分の想いを伝えることができる子」「相手を受けとめることができる子」というのがあります。しかし、子どもがそうなるためには、まず、大人が実践することだと思います。ですから、まずは職員が、職員同士でそれを実践してゆくことを重点的に取り組みたいと説明しました。保護者の皆様ともそういう心の距離が近い関係でいられることを願っているとも話しをさせていただきました。
想いばかりが先走って、わかりにくい話だったと思うのですが、皆さん真剣なまなざしをこちらにむけて聞いてくださっていました。

保護者の皆様からいただくまなざしに包まれて、もっともっと真摯に、真心を込めて保育にあたらなくては!と背筋がピンと伸びました。

新年度

2012/04/21

ご進級、ご入園おめでとうございます。新年度もよろしくお願いします。

今回初めての幼児さんクラスを担当(担任)させていただくことになり毎日試行錯誤しながら私なりに幼児さんと関わっています。

一年間子ども達ひとりひとりとユックリじっくり関わりながらもみんなでお散歩へ行ったり運動場でおもいっきり身体を動かして毎日楽しく笑顔あり涙あり、いろんなことにチャレンジや経験していきたいと思います。

また保護者の方にはご迷惑をおかけする事が多々あると思いますが一年間よろしくお願いします。

花吹雪

2012/04/21

ようやく咲いた桜が早くも散り始めました。風にひらひらと舞い散る桜の花びらも美しいものです。まだまだ全部散ってしまったわけではありませんが、枝の先には早くも緑色の葉が顔をのぞかせていました。天気予報は日曜日にかけて風雨が強まるという予報だったので、桜はかなり散ってしまうのでしょう。いつまでも美しく咲いているはずはないのですが、少し残念です。

全てのものは変化してゆくので「そんなもの」と受けとめられれば良いのですが、いつまでも美しく咲いていて欲しいという想いが強くなってしまうと、散ってしまうものだという現実との違いに苦しむことになります。

桜の花くらいであれば、そんなに苦しむことはないのでしょうけれど、もっと大切にしているものであれば、失いたくないという気持ちが強いので、苦しみも多くなります。ものだけではありません。いつまでも若い姿でいたい、人によく思われたいという気持ちもそうです。自分の中で現実を受けとめることができると少しは楽になれるのかもしれませんね。

しかし、心は弱いもので、すぐに自分のものにしたがったり、自分の考えにこだわって変わりたくなかったり・・・苦しみのネタは尽きません。こうした苦しみから解き放たれて、すこしでも乱されない安らかな心でいられるようになりたいものです。

風に舞う桜の花びらを見ていたら、そんなことを考えてしまいました。

春の自然

2012/04/20

   咲き始めた八重桜

今日は二十四節季の「穀雨」だそうです。穀雨とは雨が降って全ての穀物を潤すという意味で、田畑の準備が整い穀物の生長を助けるやわらかく、あたたかい雨が降るのだそうです。今日は朝から雨でした。やわらかいというより、かなりしっかりと降っていると感じました。この雨で、せっかく咲いた桜が散ってしまうのではないかと心配しましたが、思ったほど散ってはいませんでした。
お寺の本殿前は八重桜も咲き始め、白や桜色、薄紅色などの花がたくさん咲いてとても華やかなのですが、それが雨ににじんで、やさしい色のカクテルになっていました。

咲くのが遅かった桜にばかり気を取られていたら、いろいろな植物が芽吹いていました。枝先に生まれたもみじの葉っぱがいつの間にか大きくなっていて、やわらかい黃緑色が広がってきています。きのう子どもたちとさんぽに行ったときには春の日差しをうけて、自ら輝いているように見えました。芽を出したばかりの葉っぱはとてもかわいらしくて、日に日に大きくなってゆくのです。

   少し大きくなったもみじの葉

「目に見えて」という表現がぴったりなほど、あっという間に大きくなってゆきます。このもみじの葉っぱの成長を見ていると、「葉っぱも生きているんだなー」とその生命力に元気をもらえるので、とっても好きなのですが、今年は心に余裕がないのか、もみじが芽吹いたことにも、ある程度大きくなっていることにも気付きませんでした。

葉っぱはそれほどでもないのですが、どんな動物でも赤ちゃんはかわいらしいものです。それは、赤ちゃんの戦略なのだそうです。体つきや、顔の作りが他から見てかわいく感じるようにできているのです。

   黄緑色に輝くもみじの葉

そうすることで、他の人が「かわいい」と思ってかわいがったり、面倒を見るのだそうです。誰かに面倒を見てもらわないと生きて行けない赤ちゃんにとっては、重要な戦略です。

もともと持っているその戦略が最近の人間の大人には通じなくなってきているのかもしれません。虐待のニュースに触れるたびに、どこか自然のバランスが崩れてしまったのかと感じざるを得ません。

一気に暖かくなったので、様々な生き物のいのちの輝きが増して来ているようです。余裕がなくなり、弱くなっている心に、元気をもらうようにしたいものです。いや、もらうのではなくて、自らコントロールするのでしょうね。

さんぽ

2012/04/19

      沈丁花

    さんぽに しゅぱーつ!

ようやく、陽春ということばがぴったりのとても暖かな日になり、いろいろな花が待ちかねたかのように咲きだしました。園の前にある桜も咲きそろいましたし、園庭にある山桜もたくさんの花をつけています。ただ園庭の山桜はとても背が高いので、意識して見上げないと花をつけていることがわからないのが残念です。

    さくらの木下で

子どもたちとのお参りを終えてから、桜の写真を撮ろうと思って外に出てみると、4歳児と5歳児が、散歩に行こうとしていました。「どこまで行くの?」と聞くと、「木の根道」という答えが返ってきました。お寺の参道で一番高いところまで登ります。

坂道を青空に向かってみんなで登ってゆく子どもたちの後ろ姿を見送っていたら、優しい風に乗って沈丁花の香りが運ばれてきました。青空は美しく、日差しはポカポカ。こんな日にデスクワークをするのがなんだかもったいない気がして、子どもたちと散歩に行くことにしました。先送りした仕事に後から苦しめられるかと思わないでもなかったのですが、そんなことより子どもたちと出かけよう!と思い切りました。こどもたちの散歩について行く旨のメモを残して園を出たら、子どもたちの姿は見えなくなっていました。みんな坂を歩くのは得意なようです。

途中いろいろなところで遊びながら本殿へ。本殿前の満開の桜の美しさに歓声を上げたかと思ったら、舞い降る花びらをピーピーと笛にして遊んでいました。

      木の根道

でも、ゆっくりしていると、目的地で遊ぶ時間がなくなるので、早々にさらに上を目指します。それまでとは違う薄暗く狭い山道を、今まで通りに楽しく登る子どもたち。山道を歩くと少し汗ばむくらいです。

木の根道についたら、鬼ごっこをする子、木登りする子それぞれに遊びました。静かな山に子どもたちの楽しそうな声が、いつまでも響いていました。

満開です

信じる

2012/04/18

子どもってどんな存在でしょう。小さくて、弱くて、何も知らない、守らなくてはならない存在。確かにそうです。大人より劣っていて、何もできなくて、教え導いてあげなければならない存在。そうでしょうか。

食べ物はこぼすし、すぐにころぶし、確かに大人よりできることは少ないかもしれません。しかし、大人にはできないこともいっぱいできます。想像力や発想力では大人は足下にも及びません。ファンタジーの世界に生きていて、その世界からとんでもなくおもしろいものを引っ張り出してきたりします。決して全てが大人より劣っているわけではありません。知らないことはいっぱいありますが、何もわからないわけではありません。役割というか特徴が違うのです。

第一、子どもは小さくてもひとりの人間です。少し長く生きてきたからって、大人の方が偉いわけではありません。人として対等な存在のはずです。そんなの当たり前だろうといわれるかもしれません。当たり前なのに、子どもはできないからという理由で、教え込もうとしたり、やらせようとしたりしていないでしょうか。

なにかひとつのことができないからといって「やりなさい」とやらせると、そのときはできても、次に同じような場面に遭遇したときには、またできなくなっています。遊具を使うのに順番に並ぶ必要があるとします。ただ「並びなさい」といって並ばせても、次に同じような場面になったときには、並びません。なぜなら、大人に並ばされているからです。子どもが「順番に並ばないとみんなが困るから並ぼう」と自ら考え納得するからこそ、次にそうすることができるのです。禁止も同じです「ダメ!」と禁止するだけでは、子どもが主体的に「これは危ないからやめよう」と考えないので、又同じことをやってしまいます。

そして、大人が思っているよりも子どもたちはずっとずっといろいろなことを考えて、自分でできるのです。大人は「子どもはできないから」と思い込んでしまいがちですが、子どもを丸ごと信じきることによってこそ、子どもは自分で羽ばたくことができるのです。大人の側から考えて、大人がやらせるのではなく、まずは、子どもの側からスタートしませんか。

本殿前のさくらが満開に近づきました

春を感じて

2012/04/18

今年は、桜が遅咲きだったり、つい最近も春雷があったりしましたが、鞍馬も日に日に春めいてきて山門下に、ふきのとうが顔をのぞかせりしています。

園に来る途中、タンポポを摘んできたり、この間もてんとう虫が至るところにいて「てんとう虫、お部屋に入って来たから逃がしてあげる。」と、春見つけをしている子どもたちの姿があります。

球根から育ててきたチューリップも芽を出し少しずつ伸びてくるたびに「大きくな〜れ、大きくな〜れ…。」と、チューリップを囲んで合唱したり、両手でチューリップを作って、さいた~さいた〜と、歌って踊ったりしていました。

子どもは、大人が想像する以上に綺麗なものや美しいものが大好きで感性豊かに育っていることに気づかされます。そんな敏感な時期だからこそ、本物との出会いを大切にしてあげたいと思います。

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