2014年 4月

分ける

2014/04/10

障害者基本法は第二条で障害者や社会的障壁について定義し、第三条では地域社会における共生を謳い、第四条で差別の禁止を言います。
(差別の禁止)
第四条  何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
2  社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによつて前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。
3  国は、第一項の規定に違反する行為の防止に関する啓発及び知識の普及を図るため、当該行為の防止を図るために必要となる情報の収集、整理及び提供を行うものとする。
この差別の禁止を具体的に実現する法律として「障害者差別解消法」(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)が2013年6月19日に成立し2016年度から施行されます。この法律は「障害を理由とする差別の解消を推進することにより、すべての国民が障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現を目指し」て制定されました。

「障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する」のです。「分ける」ということがことを難しくしているように思います。分けることで理解しやすくはなりますが、分けることが固定概念や差別につながるかもしれません。一つの枠を作って似たものをまとめることで、わかりやすくなるのですが、線を引くことができにくいこともあります。「障害者」とひとくくりにすると、一人一人の違いをみえにくくしてしまうことはないでしょうか。障害の様子も一人一人違いますし、何もできないように見えても、その人にしかできない事だってあるんです。そんなそれぞれのステキが活かされ、なおかつ困ることが少なくなるようにみんなが配慮できれば良いと思います。それは何も障害者に限ったことではなく、みんなそうなんだと思うのです。障害とか障害ではないと分けたとしても、一人一人が輝けるところを見つめてゆく視点も大切にしたいと思います。

ともにいきる

2014/04/09

障害者施設建設反対運動(施設コンフリクト)が起こる原因のひとつに、知らないこと、理解不足があるのですが、そもそも、「障害者」とはどう定義されているのでしょう。
障害者基本法第二条には次のようにあります。
(定義)
第二条  この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
1  障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。
2  社会的障壁 障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。

障害は心身の機能の障害、例えば目がみえない、歩けないなどその人が持っている性質だけによると考えられがちですが、そういった性質があるために、いろいろなことができない社会のしくみ自体にも問題がある。そのような社会と人との関わりから「障害」が生まれているととらえています。障害のある人が障害のない人に比べて不利になることが多いのですが、それはその人の機能障害のためと考えるのではなく、そういった人たちのことを考えないで作られた社会のしくみ(社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のもの)に原因があると考えます。そういった社会のしくみのことを社会的障壁といいます。

そして第三条には「地域社会における共生等」として共生について書かれています。
(地域社会における共生等)
第三条  第一条に規定する社会の実現は、全ての障害者が、障害者でない者と等しく、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有することを前提としつつ、次に掲げる事項を旨として図られなければならない。
一  全て障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が確保されること。
二  全て障害者は、可能な限り、どこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと。
三  全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること。

「可能な限り、どこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと」ですから、施設コンフリクトはない方が良いのでしょう。しかし、法律で禁止されているからといって、無理矢理では共生はできそうにありません。

決めつけない

2014/04/08

障害者施設の建設に反対の声が上がる大きな原因の一つは、しょうがい者と呼ばれる人や障害者施設についての情報がないこと、つまり「知らない」ことです。知らないために、ネット上の情報だけで不安や恐怖を覚え、それがエスカレートしてゆくということが多いようです。だからこそ、障害者施設を運営するNPO法人の代表は、地域で説明会を繰り返すとともに、入居予定者1人1人のプロフィールを紹介する書類を作り、本人と一緒に近所を回ることを繰り返したのです、その結果、反対する人は徐々に減っていったというのです。知ること、理解することで不安はうすらぐのですね。

相手のことを知ることは、とても大切なことです。知るためには、あの人はどんな思いで話しているのだろうか?と素直な心で話を聴く、受けとめよう、理解しようとする姿勢が必要なのだと思います。

先日、保育士の先生が「いろいろなことを決めつけることをしないように気をつけたいと思う」と話していました。どういうことなのか聞くと、つい、この人はこういう人だから、と自分の先入観や固定概念で、その人のことを決めつけて見てしまったり、話を聞いてしまうことが、多いし、その固定概念が邪魔して、その人を受けとめることができなくなってしまうので、気をつけなくてはならないというのです。他の先生が、保育に使った物を置いたままにしていたので、「片付けるのを忘れている。」と思っていたら、実は何か意味があって置いていたようだった。というエピソードを聞かせてくれました。そんなところから、この人は忘れぽいから!なんて決めつけてみている自分がいることに気がつき、決めつけで人を見るのではなく、丁寧に話を聞くことが大切だと思ったそうです。この話を聞いて、そういう考え方ができるのはすばらしいと思いました。

確かにそういうことってよくありそうです。自分自身も気をつけなくてはなりません。固定概念、先入観、思い込みを取り払って心を開き、フラットにして、相手のことばを素直に聞く。忘れずに心がけていたいものです。

こうして、よく知ること、理解することによって、心の壁は低くなり、お互いの理解が進むのでしょう。もしそうであるなら、いろいろな人が近くで普通に生活していることが良いと思うのですが・・・

不安

2014/04/07

「京都の福祉」という京都府社会福祉協議会の機関誌があります。「もえくさ」というコラムに障害者施設建設反対運動についての記事がありました。NHKの番組で取り上げられていたようです。

国は、しょうがい者が自立した生活を送ることができるよう、施設で暮らすしょうがい者が地域のグループホームなどに移って生活する「地域生活移行」を進めています。グループホームですから何人かのしょうがい者といわれる方が、支援を受けながら普通に家で暮らすような生活をします。そんなグループホームの建設に対して各地で反対運動が起きているのだといいます。NHKの調査によると、過去5年間にこうした反対運動(施設コンフリクトとよばれるそうです)が58件も起きている。しょうがい者の家族の会の調べでは60件の施設コンフリクトのうち、36件は計画断念や、予定地を変更することになったそうです。

どうして、反対するのかなと思ったら、「女性の後を付け回したりしないか」「ギャーとか、動物的な声が聞こえる」「地価など、資産価値が下がる」といった不安や「周辺の道路が狭い」という反対理由などがあるそうです。しょうがい者と呼ばれる人たちと暮らすことに不安を感じているそうです。

そんな反対運動を乗り越えてオープンしたグループホームを運営するNPO法人の代表によると、反対する人のほとんどが、しょうがい者とほとんど接したことがない人だ。そして、ネット上にある、突然に突き飛ばすとか、叩くとか、噛みつくといった情報だけで不安感をもち、その不安が悪い方にエスカレートしてゆく。その前提にあるのが、わからないことに対する恐怖だといいます。

代表は、不安を取り除くには知ってもらうしかないと、説明会を繰り返すとともに、入居予定者1人1人のプロフィールを紹介する書類を作り、本人と一緒に近所を回ることを繰り返した結果、反対する人は徐々に減ってきたそうです。「反対している人は、数はそんなに多くはない、声が大きい。だから、とにかく説明をして分かっていただいて、反対している人と戦うのでなく、賛成している人を増やそうと。」活動されたそうです。

決めつけること

雪月花

2014/04/06

春らしい暖かな日がしばらく続いたので、京都の市中は桜がとても美しく咲いています。ところが、4日の午後から急に気温が下がりはじめました。突然冬がもどってきたかのような寒さです。鞍馬より北から通ってきている職員が峠では吹雪いていたと言っていました。まさかと思っていたのですが、5日土曜日も寒さは続きました。気温の乱高下が続くと子どもたちの体調が心配です。6日日曜日、朝の気温は2度、日中でも5度を上回らない真冬並みの寒さです。冬型の気圧配置になって強い寒気が上空に流れ込むので、突風や突然の雨、降ひょう、落雷、竜巻に注意するようにという気象情報が流れていました。午前中は時折雨がザーっと降ってくる天気でした。

そんななか、お寺では今年も千本ゑんま堂大念佛狂言の奉納が行われました。昨年の演目には「舌切り雀」があり、園児達が雀役で出演したのですが、今年の演目は「いろは」と「花盗人」なので園児の出番はありませんでした。

「いろは」は、読み書きの苦手な小僧さんが寺子屋に入門して、お師匠さんから「いろは」を教えてもらうのですがなかなか覚えられず、お師匠さんのいうことをそっくり真似するというお話しです。小僧さんの役を演じていらしたのは、中学生くらいの男の子だと思いますが、雰囲気いっぱいに演じていらっしゃるのに驚きました。

「花盗人」も太郎冠者とお殿様の滑稽な姿がとても楽しい演目で、思わず笑ってしまいました。

気温が低い屋外で、時折冷たい風が吹きすぎてゆきますが、日差しはしっかり春なので、日の光の下ではとてもポカポカしました。

狂言の舞台は三分咲きの桜の額縁に縁取られた絵画のようで、その場の全てがとてもステキです。色も形も光も影も日差しの暖かさも冷たい風も香りも静けさも・・・全部が組み合わさって、何とも言えない雰囲気を醸し出していました。

狂言が終わってしばらくすると、薄暗くなり始めた夕暮れに、ふと空を見上げると月が空に輝いていました。目線を下ろせば三分咲きの桜と満開の梅、あられのような雪がさーっと通り過ぎて行く様は、何とも美しいものです。まさに雪月花。こんな経験なかなかできません。

何もしない

2014/04/05

春休みの学童保育は賑わっています。このところご紹介しているように、全員で行う行事のような活動以外の時間は、基本的には子どもたちは自由に過ごしています。この自由というのが結構難しいのです。やりたいことがしっかりとある子は迷うことなく自分のやりたいことに取り組みます。なかなかやりたいことが見つからない子は、落ち着かない様子です。自分で選んで決めることができないと、「何をやっても良い」と言われると困ってしまったりします。自分で決めることができるようになるためには、自分で選んで決める経験をたくさんすると良いのです。自由をしっかりと使いこなすためには、自分がしっかりしている必要があるのですね。

こう書くと、一所懸命に何かに取り組んでいることだけが良いことで、何もしていないのは良くないことだと言っているように誤解されがちですが、そうではありません。なにもしないという選択肢ももちろんあるのです。大切なのは、子どもたちが「自分でそうしたい」と思ってそれをやっているかどうかだと思います。

子どもたちを見ていると、一所懸命に塗り絵に取り組んでいる子もいれば、ビーズを使って何かを作っている子、カードゲームに興じるグループ、寝そべって本を読んでいる子、何もしないでゴロゴロしている子、窓の外を眺めている子など様々です。それでいいんです。それがいいんです。

ある日、学童保育に来ている小学生の保護者と話をする機会がありました。子どもがとてもうれしそうに学童保育に通っていると喜んでくださっていました。「いつも楽しみにしていて、他の予定と重なっても、なんとしてでも行くと言って聞かないんです。」とまで言ってくださいます。「いえいえ、何もできていないんです。」と答えると返ってきたのは「何もしないからいいんです。」のことばです。思わず「えっ?」と聞き返すと「うちの子は何もしなくてもいいのが、とても心地良いようなんです。」とのこと。どうやらその子は、いつも真面目で緊張感が高いようです。でも、めぐみ精舎の学童保育に来ると、やらなくてはならないことはないので、何もせずに自由に過ごせることが嬉しいのだそうです。この話を聞いて、もちろんその子の性格にもよるのですが、今の子どもは結構大変なんだなと思いました。と、同時に、そんな子にとって自分を解放できる場所であること、ホッとできる場であることを嬉しく思いました。

基本的にめざしていることの一つが、みんなが自分らしくいられる場、好きに過ごせる場であることですから。その役割を少しは果たせているかもしれません。

春休み

2014/04/04

小学校が春休みで、めぐみ精舎の学童保育に通ってくる子もグンと人数が増えました。毎日20人以上の子どもたちで賑わっています。そんな中みんなでごはんを炊いて食べようという企画が実現しました。以前は白米を炊き比べてみて、炊き方によって味が違うかどうかを確かめることを目的にごはんだけを炊いたこともありますし、野菜のスープを作ったこともあります。今回は古代米と言われる黒米を白米に混ぜて炊いてみることにしたのです。ところが、参加人数が多く、昼食をごはんだけでまかなおうとすると、そんな量を炊くだけの鍋や釜がないので、1人当たりのごはんの量を抑えて、野菜スープも作ることにしたようです。家から一人一品好きな野菜を持って来ます。おじいちゃんの育てたという大きなしいたけをはじめ、じゃがいも、にんじん、大根など様々な野菜が集まりました。

野菜の皮を剥いたり、切ったりと下処理をして昆布だしで煮た後、味付けは2人の男の子が担当したそうです。塩、しょうゆ、味噌などの調味料があったのですが、2人はシンプルに最小限の塩だけで味付けをしました。後で残ったものを少しもらったのですが、おいしいのです。確かにスープ自体の味はとても薄いのですが、ひとつひとつの野菜はとてもおいしいのです。素材それぞれの味が引き立てられている感じです。指導に当たっている先生によると、味付け担当の2人の男の子は、「塩を入れたら甘くなった」と言っていたそうです。とっても本質的だと思います。

普段は野菜が苦手で、家ではあまり野菜を食べない男の子が、お椀に野菜スープをいっぱい入れていたので、食べられるのか心配になって、思わず大丈夫かと聞いてしまったと担当の先生は言っていました。
自分で調理したものは、例え苦手なものでもおいしく食べることができるのだということを改めて思いました。

黒米を入れて炊いたごはんは、赤飯の色を濃くしたような色になり、玄米である黒米の歯触りや香ばしさが感じられる美味しさになりました。17合炊いたごはんが、少ししか余らなかったそうです。野菜スープも大きな寸胴にたくさんあったのが少し残っただけ。みんなおいしかったのでしょう。たくさん食べました。

    黒米を混ぜて炊いたごはん

  シンプルな味わいの野菜スープ

春のおとずれ

2014/04/03

鞍馬でもようやくさくらの花が一輪二輪とほころび始めました。まだ少し堅いつぼみ、今まさに咲こうとしているつぼみ、今開いたばかりの花、いろいろな花がそれぞれの美しさでいます。桜も時期により美しさは様々です。今まさに咲こうとしているこの時期の美しさは慎ましくも力強く、元気です。山の朝もいろいろな鳥のさえずりで、にぎやかになってきました。ついこの間まで練習中だったウグイスも美しい声でさえずることができるようになり、そんなウグイスに園庭で遊ぶ子どもたちが、「ホーホケキョ」と話しかけていました。暖かい風がほのぼのとした気持ちにしてくれます。目、耳、頬、身体全体にそして、心にも春が感じられる頃になりました。園児たちは子どもたちは、新年度が始まってみんなちょっと新しい気持ちで、いきいきと登園してきています。

小学生は春休み。めぐみ精舎の学童保育にはたくさんの小学生が遊びに来ています。先日は、まだ冬眠していたヒナコウモリの観察にいきました。卒園したばかりの年長児も含めて25名ほどの大人数で観察に行ったのですが、よほど興味を持ったのかみんな真剣に観察していましたし、どこに何頭いるかとか、どんな格好で冬眠しているかなど、観察し日付、時間、気温などとともに記録していました。

このコウモリの観察やクッキングなどの行事もたまにはありますが、基本的に、めぐみ精舎にやってきた小学生は自由に過ごしています。朝のミーティング、勉強、お弁当、おやつ、掃除といった基本的なことは決まっていますが、その他は自由にしています。

朝に家の近くでつくしを摘んできた子がいました。これをどうしようかということになり、調理して食べる。量が少ないから、近くに探しに行こう。などと相談していました。もちろん、全員がそれをするのではなく、室内に残っていろいろな遊びをしたい子はそれを選びます。結局、雨が降ってきて、つくしを探しに行くことはできなくなってしまいましたが、何人かの子は数本のつくしをきれいに掃除し、調理して食べていたようです。

「大人」になる

2014/04/02

子どもにとって「安全基地」でいることのできる保護者、保育者でいたいものです。そんな大人の元で育った子は、他の人にとっての「安全基地」になることができるのです。なぜなら、その子が丸ごと信じてもらって育てられることで、「自分は自分で良いのだ」という自信を持つことができるからです。自分の寄って立つところが、育つのです。このことが「確実性」、生きてゆくための基本となる自分自身をしっかりと確立するための方法なのです。

これは、私たちのめざしていることと同じなのですが、茂木氏が

「組織」や「肩書き」によって自らを支えるということは、すなわち、一生「過干渉」な保護者の下で過ごすようなものである。

とおっしゃるところまでは、考えが及びませんでした。乱暴かもしれませんが、言い換えれば、過干渉は子どもの主体性、自発性、自信、自己肯定感を育てることがない。そこが育たないまま大きくなると、「組織」や「肩書き」という自分の外側にある物に依存して自分を支えることしかできなくなってしまうのだ。というところには気づきませんでした。

茂木氏はこう言います。

「組織」の一員として、自らの行動の自由、ダイナミック・レンジをあらかじめ縛ってしまう。「肩書き」に「ふさわしい」行動を取ろうとするあまり、自らの自由を縛ってしまう。「過干渉」な保護者の下で、子どもの自由がいわば「窒息」するのと同じように、文脈過多な日本の社会は、その構成員の能動性、自主性を奪う。
 子どもの頃から受験に追い立てられ、「履歴書に穴が開いてはいけない」とばかり「組織」という「過干渉」な鎖に縛り付けられる日本人は、一人で不確実性に向き合うために必要な「確実性」を自らの中に涵養する機会を奪われている。日本人は、自分の中に「安全基地」を培うことができていない。結論として、「大人」になることができていないのである。

私たちはどうあれば良いのでしょうか。考えさせられます。

*太字は茂木健一郎氏のブログ、クオリア日記「過干渉な日本社会」からの引用部分です。

自分でいる力

2014/04/01

組織や肩書きに縛られて本来の自分を発揮できない。小さな頃から箸の上げ下ろしにいたるまでとやかく言われ続けてきたら、自分の中に「確実性」を築くことはできない。言い換えれば、子どもの時に、自ら考えて決めること、そしてその考えに基づいて自ら行動することを思う存分やる。そして、そのことが楽しいという感覚を身につけ、自らどんどん挑戦してゆく経験が、自分の自信や信念を形作ってゆくのだと思います。茂木健一郎氏はそのことを「確実性」とおっしゃっているのではないでしょうか。人生の、世の中の「不確実性」を何とかしてゆく「確実性」を持てるように育てることこそが、その子が一人の人として自立して生きてゆくための基本になるのです。

ところが、箸の上げ下ろしまでとやかく言われる過干渉の保護者のもとで育ってしまうと、その保護者の価値観という限定された文脈の中でしか、自分を発揮できない。そして大人になっても、「組織」や「肩書」によってしか自分を支えることができなくなってしまう。つまり本当の自分自身、素直なあるがままの自分が見えなくなり、わからなくなるのではないでしょうか。

茂木氏のいう「能動性を前提にした「安全基地」の思想」というのは、子どもの主体性、自発性を大切にし、自ら外界の環境に関わる、探求心や挑戦する力を信じて、見守るということだと思います。どうしても、そっちに行ったら危ない。このやり方の方が良い。そんなことしちゃダメ!と手出し口出し干渉をしたくなってしまうものですが、そこは、子どもを信じ、ぐっと我慢して見守る。子どもが、助けを求めてきたときに帰ってくることができる安全基地、安心基地でいることが私たち大人がしなくてはならないことなのです。そういう環境で育つことが、子どもが自分の人生を主人公として生きてゆく力につながるのです。

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